だが、俺たちはユーレイング専用の喫茶店には行くことができなかった。
途中で火事に出くわしてしまったからだ。
5階建てのビルが燃えていた。黒い煙の柱がもくもくと空に立ち上り、ビルの中程の窓から赤い炎が吹き出している。ビルの下には真っ黒な人だかり。消防車だ、通報しろ、もう呼んだ、まだなのか、と人々が怒鳴り合う声が上空まで響いてくる。
「ふわぁ、なかなかすごい火事ね」
とみっきが燃えるビルをのぞき込みながら言った。俺たちは幽体だから、炎も煙もまったく怖くない。大火事を目の前にしても、いたってのんきな調子だった。
「あら、ここアパートなのね。ね、良一郎、入ってみよっか」
「周一郎。でも、こんなチャンス、めったにないよな」
俺はふたつ返事で、みっきと一緒に火事のビルへ入っていった。炎と煙をかいくぐり、ガラスの割れた窓から部屋の中へ……
部屋の中は、真っ黒な煙でいっぱいだった。リビングルームのようだったが、煙がひどくて、ほとんど何も見えない。もし、生身で立っていたら、苦しくて息ができなかっただろう。もちろん、俺たちはまったく平気だったけれど。
「ん~、煙で何も見えないわねぇ。もっと上の階に行こうか」
そう言うなり、みっきが天井を突き抜けて上へ行った。俺もあわてて後を追う。その部屋も煙が充満していたので、さらに上の階へ。
と、俺たちはそこで立ちつくしてしまった。
ひとりの男の子がうずくまっていたからだ。
3歳くらいだろうか。緑のトレーナーを着た背中を丸めて、顔をおおい、咳をしながら泣きじゃくっている。
「ママァ……ママァ……」
部屋の中には線路と列車のおもちゃと絵本。だが、母親の姿はその部屋にも、隣の部屋にも見あたらない。親の留守中に火事になって、部屋に取り残されてしまったらしい。
俺はあわててみっきに言った。
「ど、どうしたら……どうしたらいい!?」
「どうしたら、って……」
みっきも戸惑ったように男の子を見下ろしていた。
部屋の中には、ドアの隙間や床の隙間からどんどん煙が入り込んでくる。このままじゃ炎がやってくる前に一酸化炭素中毒で倒れてしまう。
だが、男の子は泣きじゃくったまま、部屋の真ん中から動こうとしない。抱きかかえて連れ出そうにも、俺たちは幽体だから、男の子にさわることさえできない。そうこうする間にも、煙はどんどん濃くなっていく。
ちきしょう、立てよ! 立てったら!! このままじゃ死んじまうぞ!! ――立てったら!!!
俺が歯ぎしりしていると、突然、男の子がパッと立ち上がった。
ビックリしたように目を丸くしながら、あたりをきょろきょろ見回している。
「パパ……?」
俺の心の声が聞こえたらしい。それを自分の父親の声と勘違いしたんだ。
幽体になっているのに、俺は胸がドキドキしてきた。通じる。きっと通じるぞ。俺は心に強く念じながら、男の子に話しかけた。
「おい、こっちだ。こっちへ来い。窓を開けて『助けて』って外に叫ぶんだ」
すると、男の子はまた目をぱちくりさせ、それから、おずおずと窓の方へ歩き始めた。
「そうだ、急げ! もうすぐ火が来るぞ!」
俺は無我夢中だった。相手に見えないことも忘れて、手を振り回し、足を踏みならして怒鳴っていた。
男の子が窓へ走り寄り、窓を開けようとした……が、窓はほんの少し開いただけだった。
ここはアパートの5階。安全のために、窓がそれ以上開かないように作られていたんだ。
「ちきしょう! 緊急時ってヤツを全然考えていやがんねぇな!」
俺はわめき、思わず窓を殴りつけた。
とたんに、窓の留め金が吹っ飛び、窓が勢いよく全開した。
背後のみっきが、あっ、と小さな声を上げた。
「やだ……公一郎ったら、ポルターガイスト使えるのね」
へ? と俺は思わずみっきを振り返った。みっきは本当に驚いたような顔で俺を見ていた。
「ポルターガイスト。霊念力よ。でも、普通、ユーレイング初体験でこれができるひとって、まずいないんだけどね」
どうやら俺は無我夢中のうちに、とんでもない力を発揮してしまっていたらしい。
そのとき、窓の下から突然、女性の金切り声が響いてきた。
「みつぐーーっ!!!」
とたんに、窓際の男の子が、はじかれたように窓に飛びついた。
「ママー! ママーッ!!」
金切り声に答えるように、男の子も泣き叫ぶ。窓の下から昇ってくる野次馬の声が、ひときわ大きくなった。
子どもが残ってるぞ! はしご車はどうした!? 消防はまだか!? 早く! 誰か早く……!!
どの声も焦り、苛立ち、困惑している。ここはアパートの5階。子どもの姿は見えていても、誰もどうすることもできないんだ。
また、母親の声が響いた。
「みつぐーー!!! みつぐーーっ!!!」
半狂乱になっているのが、声で分かる。
「ママァーー……!!!」
男の子が泣きじゃくりながら、大きく窓から身を乗り出した。
あっ、バカ、危ねぇ!!
俺が思ったときには遅かった。男の子の体はバランスを失い、真っさかさまに窓から下へと落ちていった。
「ちきしょうっ!」
俺は男の子を追って窓を飛び出した。追いついて、体をつかもうとする。だが、俺の霊体の手は、男の子の体をすり抜けてしまう。
「くそーっ……」
俺は男の子の下に回り込むと、渾身の力を込めて、両手両足を広げた。さっき、俺はポルターガイストで窓を開けた。同じ力でこの子も止められるはずだ。
止まれ! 止まれ!! と心に強く念じる。
すると……
男の子の落ちるスピードが、ぐんと遅くなった。
まだ落ち続けている。でも、それがだんだんゆっくりになり……
やがて、俺にも男の子の手応えが感じられるようになった。それを全身で包むようにしながら、そっとアスファルトの地面に下ろしてやる……
まわりの人たちは呆然と男の子を見つめていた。
それから……大歓声。
男の子は、きょとんとあたりを見回していた。自分が5階の窓から落ちたことも、地面に軟着陸したことも、全然理解できていないんだろう。俺は苦笑いしながらその子から離れた。
すると、男の子がふいに振り向いて、俺をまっすぐに見つめた。
「お兄ちゃん……」
とつぶやく。
俺がびっっくりしていると、母親が駆け寄ってきてその子を抱きしめ、その二人を野次馬が取り囲んで、その子の姿は見えなくなってしまった。
「あの子、あんたの姿が見えてたみたいね」
みっきがふわふわと降りてきながら言った。その顔つきは、呆れているのが半分、残りの半分は……。
「ほ~んと、意外とむちゃくちゃやるタイプなのね。ポルターガイスト全開しちゃうなんて。どう、動ける?」
言われて飛び上がろうとした俺は、逆に地面にへたばってしまった。幽体だというのに、いやに体が重い。
呆れ果てたように、みっきが言った。
「当たり前ね。霊体エネルギーをかなり使っちゃったのよ。このままユーレイングしてたら、まもなく消失しちゃうわ。ほら、そこの標識にでも乗り移ってて。今、いいもの持ってきて上げるから」
みっきは進入禁止の標識に俺を押し込むと、もう一度、まじまじと俺を見て、そして、言った。
「でもさ……あんた、ちょっとかっこよかったわよ、周一郎」
俺はみっきを見つめ返した。肉体の中にいたら、絶対に顔が真っ赤になっていたに違いない。
みっきは、ふふっとほほえむと、待っててね、と言い残して飛び去っていった。
その後ろ姿を見送るうちに、俺は、みっきが俺の名前を正しく呼んだことに気がついた。やっと覚えてくれたらしい。
へへ……っ
消防車が駆けつけ、ビルにじゃんじゃん水をかけている。その様子を眺めながら、俺はひとりで照れ笑いをしていた。