隣町のとある建物の前で、俺とみゅうはタクシーを降りた。もちろん、運転手は俺一人を降ろしたつもりでいる。
そびえる建物を見て、みゅうが目を丸くした。
「ここ、大学病院? なんでこんなところに……」
俺は何も言わずに建物に入った。みゅうが不思議そうについてくる――。
病室の前であの女占い師が待っていた。
「携帯に連絡をありがとう。よく決心したな」
そう言いながら、レトロな眼鏡越しに視線をみゅうに向ける。
「ここにいるのが、みゅうちゃんだね? ああ、いや、私には見えないよ。ただ、いることは感じられるんだ。話はつけておいたから、病室には誰もいない。安心して入りたまえ」
俺はうなずいてドアを開けた。中に入るときに、占い師で隠れていた病室の名札がちらりと見えた。
「小野寺美由有」――。
部屋の中で、みゅうは立ちつくした。信じられない顔で、病室のベッドを見る。
少女がいた。腕にも頭にも包帯を巻かれて、点滴につながれて眠っている。
それは、もう一人のみゅうだった。
「あたし……?」
とみゅうがつぶやくように言った。
「でも……どうして? あたし、死んだはずじゃ……」
「生きていたんだよ。事故にあって、大怪我はしたけどな。いくら探しても翼なんか見つからなかったはずさ。おまえは、本当は死んでなかったんだから」
そう言った俺を振り向いて、みゅうが顔色を変えた。
「なんでそんな顔してるの、舜? 真っ青だよ。あたし……これからどうなっちゃうの?」
俺は、占い師に言われたことを思い出していた。
「自分の体に戻れば、みゅうちゃんは生き返るだろう。だが、自分が幽霊になっていた間のことは覚えていないかもしれない。目が覚めた瞬間に夢を忘れるように、何もかも忘れてしまうかもしれないな」
みゅうは生き返れる。それは嬉しいことだ。
だけど、幽霊だった頃に会った俺のことは、忘れてしまうかもしれないんだ。跡形もなく――。
みゅうが俺を見ていた。驚きと不安で今にも泣き出しそうになっている。
俺は笑ってみせた。
「大丈夫だよ。何も心配ない。自分の体に戻るんだ。そうすれば、また、いろんなことができるようになるさ」
みゅうはとまどいながらベッドに近づいていった。俺を振り向きながら。
俺はうなずいて見せた。
そう、大丈夫だ。たとえ俺のことを忘れたって、俺はおまえのことを絶対忘れないから――。
心の中だけで、そう話しかける。
みゅうの姿が消えた。
代わりに、ベッドに寝ていたみゅうが身動きして目を開ける。
そのままぼんやり天井を見つめて、やがて小さく首をひねった。どうしてここにいるんだろう? と言うように。
俺は、息を詰めてそれを見守る。
とたんに、みゅうが小さな悲鳴を上げた。
「痛っ」
腕を動かそうとして、痛みが走ったんだ。
思わず俺はベッドに駆け寄った。
そんな俺を、驚いたようにみゅうが見る。
小さく息を吸ってから唇が動く。
「舜……」
その瞬間、俺の膝から力が抜けた。その場にへなへなと座り込んでしまう。
覚えていた――みゅうは、俺を覚えていた――。
「舜、どうしたの? 大丈夫?」
みゅうが驚いて心配していた。
ちぇ、馬鹿だな。心配されなくちゃいけないのは、おまえのほうなんだぞ……。
そう言ってやりたくても、声が出ない。
いつの間にか俺の後ろに女占い師が来ていた。
「ちゃんと覚えていたね、みゅうちゃん。まあ、みゅうちゃんと彼はつながりが深そうだったから、たぶん大丈夫だとは思ったんだが」
「そ――そういうことはもっと早く言ってくれ! 俺、この三日間、どうしたらいいか迷い続けて、マジで暗かったんだからな!」
文句を言うと、女占い師に横目でにらまれた。
「目覚めて忘れている可能性だってあったんだ。下手な期待はしないほうが良かったはずだぞ。さてと、みゅうちゃん、ちょっとこれを持ってみて」
女占い師が、ひょいと自分のペンをみゅうに渡した。それを受けとって、みゅうがまた目を丸くする。
「持てる……! 手がすり抜けないわ!」
「そう、これで自分でも実感しただろう? 君は生き返ったんだよ。でも、非常に危険な状態だった。何度も危篤に陥って、三日前には、医者でさえもう駄目だと思ったほどだったんだ。彼に感謝しなくてはね。ここがわかったのは、みゅうちゃんが通っている学校を彼がおぼえていたからなんだよ」
そう言って占い師は俺を見た――。
「舜」
呼ばれて、俺は立ち上がった。白い包帯を巻いたみゅうの姿は痛々しい。大丈夫か? と尋ねると、みゅうが笑った。
「体中すごく痛い……。でも、大丈夫だよ。だって、生きているから痛いんだもん」
すると、占い師がまた言った。
「あとは元気になるだけだね。退院したら、なんでもしたいことをするといい」
たちまち、みゅうが目を輝かせた。俺を見上げながら言う。
「ね、また海に行こう。あたし、どうしても、舜ともう一度海に行きたかったんだ……!」
俺はうなずいた。自分で泣き笑いしているのがわかる。かっこ悪いと思うけれど、涙が止まらない。
もう、みゅうが飛んでくる翼を見ることはないだろう。翼の音を聞くことはないだろう――。
窓の外では、いつの間にか雨がやんでいた。
雨雲が押し流された切れ間から、青い空がのぞき始めていた。