俺がアパートの部屋に戻ると、みゅうがすごく怒っていた。
「遅いよ、舜! コンビニにお弁当買いにいくだけで、どうしてこんなに遅くなるの!? もう一時間だよ!?」
と左手首にはめた黒い時計を俺に突き出してくる。店でOLの話を聞いたり、考え込んだりしてたから、いつの間にか時間が過ぎていたんだ。
てか、おまえ、これが言いたくてわざわざ腕時計を出したのか? そんなことしなくても、部屋に時計くらいあるぞ。
みゅうの怒りはおさまらない。
「時間がかかるなら最初にそう言ってよ! 本気で心配したんだから。舜が戻ってこないんじゃないか、って」
「そんな。どこに行くって言うんだよ? ここは俺の部屋だぞ」
すると、みゅうが俺をにらんだ。
「だって、舜の部屋、綺麗すぎるんだもの」
は? なんだそれ――?
「舜の部屋、本当に片付いてるよね。ゴミ箱にはゴミひとつないし、冷蔵庫の中も本当に空っぽ。まるで引っ越ししようとしてるみたいだよ。だけど、引っ越しの段ボール箱もないじゃない? どうしてこんなに綺麗なんだろう、って考えてたら、ベッドにあれを見つけたのよ」
しまった! 始末するのを忘れてた――!
みゅうが指さしたものを、俺はばつの悪い顔で眺めた。
ベッドサイドの狭い棚に載った小さなメモ用紙。そこには俺の字でこう書いてある。
――Good-by.
「グッバイ、ってなに!? なんであんなもの置いておくのよ!? なんであんなこと書いたの!? まるで――まるで、遺書じゃない!」
俺は目をそらした。
「違う。死ぬつもりはなかったさ……。ただ、あいつの思い出が染みついた部屋にいたくなかっただけだ。もう戻らないつもりだったんだ。長いこと俺が姿を見せなくなったら、あいつも気になって部屋に来るかもしれない。その時、あの書き置きを見つけるかも。そんなことを考えたんだ。馬鹿みたいだよな、ホントに……」
自分で自分を笑って、俺はポケットからテーブルに手紙を出した。しわになった封筒。表書きはあいつの文字。中身は見なくてもわかる。この部屋の鍵だ。
みゅうは驚いて俺の話を聞いていた。大きな瞳がふいに涙ぐむ。
その顔でほほえんで、みゅうは言った。
「それでもさ、舜、生きなくちゃダメだよ。哀しくたって、しんどくたって、生きてなくちゃできないことって、いっぱいあるんだから」
「だから! 俺は別に自殺なんか――」
「舜、人は死ぬと何もできなくなるんだよ。誰かに話しかけることも、何かをしてあげることも。誰にも見えなくなっちゃうし、さわることもできないし、助けてあげたいって思っても、それもやっぱりできないんだよ。こんなお弁当だって、食べられなくなっちゃうんだから」
コンビニの袋を指さして、みゅうが涙をこぼす。
やっぱり、と俺は思った。もしかして、とは考えていたけど、やっぱりそうだったんだ。
翼を探し続ける天使のみゅう。だけど、天使になる前は――
「おまえ、本当は人間だったんだな?」
と俺が言うと、みゅうはうなずいた。
思い出すように少し黙り込んでから、話し出す。
「あたしさ、隣のM市に住んでたんだ。普通の高校生だったんだよ。知ってる? M高校」
M校!? 猛勉強で有名な、すごい進学校じゃないか!
「そ。すごいよぉ。毎日本当に勉強しかしないとこなの。でも、お父さんもお母さんもがんばれって言うから、あたし一生懸命やってたんだ。家に帰ってからも夜中まで課題やって。でも、中間考査の結果が悪くて、このままじゃ志望校は危ないって先生に言われてね。なんか頭の中が空っぽになって、ボーッとしちゃって。気がついたら、赤信号の交差点の真ん中にいたの。学校から帰る途中だったから夜だったわ。車のヘッドライトがものすごい勢いで近づいてくるのが見えて、ガツン、ってすごい音がして。世界中が粉々になったの。本当に、世界が黄色と黒の破片になって降ってくるように見えたのよ。体中ものすごく痛かったけど、次に目が覚めたときには、もうどこも痛くなかったわ。そして、あたしの頭の上には金の輪っかがあったの。ああ、あたし、死んじゃったんだなぁ、って気がついたし、天国に行かなくちゃいけない、っていうのも、何故かすぐわかったわ。そのためには翼を見つけなくちゃいけないんだ、ってことも。だから翼を探し始めたんだけど、自分ではどうしても見つけられなかったの。探しているうちにこの街まで来て――。不思議ね。それまで何もかもあたしを素通りだったのに、あの時、初めてあたしの髪の毛が木の枝に絡んだのよ。外そうと思っても手がすり抜けちゃうから困ってたら、舜が助けてくれたのよ」
あふれるように続くみゅうの話を、俺はただただ驚きながら聞いていた。
みゅうは、交通事故に遭って死んだんだ。
翼をさがして天国に行く、っていうことは、つまり死んであの世に逝くってこと。みゅうの正体は、幽霊だったんだ――。
口に出してそう言うと、とたんに、みゅうがぷっと頬をふくらませた。
「やだなぁ、幽霊だなんて。あたしは天使なの。言うじゃない。人は死ぬと天使になって、天国に昇っていくんだ、って。あたしも翼を見つけて完璧な天使になって、絶対天国に行くんだからね」
みゅうは怒った顔もかわいらしい。とても死んだヤツになんか見えない――。
俺は唐突に言い出していた。
「みゅう、明日は街の外に出かけようぜ。どこがいい? みゅうの好きな場所に行こう」
この街の中にいたくなかった。
みゅうが翼を見つけてしまうかもしれない、この街に――。
「え、でも、あたし翼を……」
「このあたりにあるとは限らないだろう。別の場所を探してみようぜ。な、どこがいい?」
みゅうは目をまん丸にした。
「ホントにどこでもいいの? あたしが行きたいところで」
「もちろん」
「じゃあ――じゃあね――あたし、海に行きたい!」
みゅうは顔を輝かせて、そう言った。