翼を探して

朝倉 玲

Asakura, Ley

前へ

9

 帰り道、俺はみゅうと手をつながなかった。

 俺のアパートには電車を乗り継がないと帰れない。さすがに姿を消したままじゃ電車に乗りにくい。部屋に入るときだって、誰もいないのにひとりでに扉が開いたらオカルトだ。

 みゅうは俺の後をずっとついてきた。まだちょっと恥ずかしそうに、でも、すごく嬉しそうに。その姿がかわいらしくて、俺の心臓はずっと早打ちっぱなしだった。

 ……う~ん、理性保てるか、俺?

 

 けれども、そのときめきは、部屋に入る前にポストを確かめたとたん消えた。

 一通の手紙が入っていたからだ。

 宛名の文字を見ただけで、差出人はわかった。封筒の中には小さな堅い手触り。

 俺は黙ったまま手紙をズボンのポケットに突っ込むと、部屋の鍵を開けた。

 部屋は暗くて、ひんやりと冷たい――。

 俺は玄関で靴を脱ぐと、部屋に入って灯りをつけた。

 八畳の広さの洋室に狭いキッチン、ユニットバス。洋室にはベッドと小さなテーブルと本棚とテレビ。大学生にはごく普通の広さと間取りの部屋だ。

「おじゃましまぁす」

 みゅうがはしゃいだ声で入ってきた。いつの間にかまた服が変わって、靴下にスリッパばきの格好になってる。

 天使のくせに律儀だよなぁ、おまえ。

 思わず笑ったら、部屋のように冷え切っていた心が、ほんの少し温かくなった。

「あらぁ、舜の部屋ってすごく綺麗!」

 とみゅうが部屋を見回して驚いた。

「きちんと片付いてて、全然散らかってない。掃除もしてある。意外ー。男の人の部屋って、もっと雑然としてるんだと思ってたのに」

「掃除したばかりなんだよ。普段はごっちゃごちゃで、足の踏み場もないくらいさ」

「へぇ。ずいぶん徹底的に大掃除したのね。すごーい」

 みゅうが感心し続ける。

 俺は微笑とも苦笑ともつかないものを浮かべて窓を開けた。

 帰る途中で日は暮れて、外はもう夜になっていた。空に月が昇ってくる。

 と、窓ガラスに風が当たって、パタパタッと音をたてた。雨だ。

 夕方晴れて虹が出たと思ったのに、また雨が降ってきた。

 梅雨だよな、やっぱり。

 部屋に戻ってくるべきじゃなかったのかもしれない。

 気持ちがまた沈んでくる――。

 すると、みゅうが俺と並んで窓の外を見て言った。

「わあ、雨と月が一緒! 珍しいー!」

 大した降り方じゃない。月は雨雲から半分顔を出して輝いている。その光を浴びて、雨粒が虹色に光っていた。明るい雨の夜だ。

「綺麗だね、舜」

 とみゅうが笑った。無邪気な声。無邪気なまなざし。そんなみゅうに心が和む。

「ああ。でも、もうすぐやむと思うぜ。明日はやっぱり晴れるんじゃないか?」

 そんなふうに言って、俺はみゅうと外を眺め続けた。

 本当に、明日は晴れるような気がする。

 明日もみゅうが隣にいれば、たぶん、きっと――。

 

 俺とみゅうが窓から夜の雨を眺めていると、大きな声が聞こえてきた。

 見下ろすと、街灯に照らされた目の前の道に、二人の子どもがいた。白い服の女の子と、それよりもう少し年上の男の子。聞こえてきたのは男の子の声だった。

「こんな時間までなにしてたんだよ、馬鹿! 雨も降ってきてるんだぞ! いつまでも遊んでないで、早く帰ってこいよ!」

 だって……と女の子が答えるのが聞こえた。今にも泣き出しそうな声なのに、男の子はかまわずどなり続ける。

「いいから帰るぞ! 母さんが、かんかんなんだ。急がないと!」

 ああ、この子たち、きょうだいか。帰りの遅い妹を兄貴が探しに来たんだ。

 男の子が女の子の手をつかんで駆け出そうとすると、女の子がそれを引き止めた。

「待って、お兄ちゃん……これ」

 手に持った何かを差し出していた。

「なんだよ?」

「四つ葉のクローバー。お兄ちゃん、明日スイミングの進級試験でしょう? 合格するようにって空き地で探してきたの」

 兄がとまどったのが、離れた場所から見ていてもはっきりとわかった。

「おまえ、ずっと、これ探してたのか? ……こんな時間まで?」

「うん。だって試験は明日の午前中だから、今日中でないと間に合わないでしょう?」

 妹は後ろ姿だからその顔は見えない。でも、にっこり笑ったのが声でわかった。

 兄はもっととまどった顔をして、やがて、持ってきた傘を広げて妹にさしかけた。

「帰るぞ――急ごう。濡れたままでいると風邪ひくからな」

 うん、と妹が答えた。嬉しそうな声だ。

 ひとつの傘をさしたきょうだいが、街灯と月に照らされた道を走っていく。

 なんか、最近こんな場面をよく見るな。天使のみゅうと一緒にいるからか? それとも――今まで俺が気がつかないでいただけかな?

 みゅうも、俺と一緒にきょうだいを見送っていた。ほほえみながら言う。

「四つ葉のクローバーってね、葉っぱの一枚ずつに意味があるのよ。希望と信仰と愛情と幸運。この四つがそろって、完璧な幸せになるんだって。舜にもあげるね」

 みゅうの指先に薄緑色の四つ葉が現れた。はい、と差し出してくる。

 でも、それはみゅうの手から離れたとたん、消えてしまった。俺の手のひらに落ちながら見えなくなっていく。

 みゅうは目を見張り、すぐに苦笑した。

「やっぱりダメかぁ……舜なら受け取れるかと思ったのに」

 またあの淋しそうな顔になる。

 俺はあわてて言った。

「いいや、ちゃんと受け取ったさ。ここにな」

 と右手で左胸の心臓の場所を押さえて見せる。

 とたんに、みゅうが吹き出した。

「やっだ、舜! それってものすごく気障だよ!」

「なんだよ、別にいいだろう!……本気で言ってるんだから」

 すると、みゅうがまた笑った。今度はにっこりと。

「ありがと。舜はほんとに優しいね」

 笑う瞳には、涙が光っていた――。

トップへ戻る