帰り道、俺はみゅうと手をつながなかった。
俺のアパートには電車を乗り継がないと帰れない。さすがに姿を消したままじゃ電車に乗りにくい。部屋に入るときだって、誰もいないのにひとりでに扉が開いたらオカルトだ。
みゅうは俺の後をずっとついてきた。まだちょっと恥ずかしそうに、でも、すごく嬉しそうに。その姿がかわいらしくて、俺の心臓はずっと早打ちっぱなしだった。
……う~ん、理性保てるか、俺?
けれども、そのときめきは、部屋に入る前にポストを確かめたとたん消えた。
一通の手紙が入っていたからだ。
宛名の文字を見ただけで、差出人はわかった。封筒の中には小さな堅い手触り。
俺は黙ったまま手紙をズボンのポケットに突っ込むと、部屋の鍵を開けた。
部屋は暗くて、ひんやりと冷たい――。
俺は玄関で靴を脱ぐと、部屋に入って灯りをつけた。
八畳の広さの洋室に狭いキッチン、ユニットバス。洋室にはベッドと小さなテーブルと本棚とテレビ。大学生にはごく普通の広さと間取りの部屋だ。
「おじゃましまぁす」
みゅうがはしゃいだ声で入ってきた。いつの間にかまた服が変わって、靴下にスリッパばきの格好になってる。
天使のくせに律儀だよなぁ、おまえ。
思わず笑ったら、部屋のように冷え切っていた心が、ほんの少し温かくなった。
「あらぁ、舜の部屋ってすごく綺麗!」
とみゅうが部屋を見回して驚いた。
「きちんと片付いてて、全然散らかってない。掃除もしてある。意外ー。男の人の部屋って、もっと雑然としてるんだと思ってたのに」
「掃除したばかりなんだよ。普段はごっちゃごちゃで、足の踏み場もないくらいさ」
「へぇ。ずいぶん徹底的に大掃除したのね。すごーい」
みゅうが感心し続ける。
俺は微笑とも苦笑ともつかないものを浮かべて窓を開けた。
帰る途中で日は暮れて、外はもう夜になっていた。空に月が昇ってくる。
と、窓ガラスに風が当たって、パタパタッと音をたてた。雨だ。
夕方晴れて虹が出たと思ったのに、また雨が降ってきた。
梅雨だよな、やっぱり。
部屋に戻ってくるべきじゃなかったのかもしれない。
気持ちがまた沈んでくる――。
すると、みゅうが俺と並んで窓の外を見て言った。
「わあ、雨と月が一緒! 珍しいー!」
大した降り方じゃない。月は雨雲から半分顔を出して輝いている。その光を浴びて、雨粒が虹色に光っていた。明るい雨の夜だ。
「綺麗だね、舜」
とみゅうが笑った。無邪気な声。無邪気なまなざし。そんなみゅうに心が和む。
「ああ。でも、もうすぐやむと思うぜ。明日はやっぱり晴れるんじゃないか?」
そんなふうに言って、俺はみゅうと外を眺め続けた。
本当に、明日は晴れるような気がする。
明日もみゅうが隣にいれば、たぶん、きっと――。
俺とみゅうが窓から夜の雨を眺めていると、大きな声が聞こえてきた。
見下ろすと、街灯に照らされた目の前の道に、二人の子どもがいた。白い服の女の子と、それよりもう少し年上の男の子。聞こえてきたのは男の子の声だった。
「こんな時間までなにしてたんだよ、馬鹿! 雨も降ってきてるんだぞ! いつまでも遊んでないで、早く帰ってこいよ!」
だって……と女の子が答えるのが聞こえた。今にも泣き出しそうな声なのに、男の子はかまわずどなり続ける。
「いいから帰るぞ! 母さんが、かんかんなんだ。急がないと!」
ああ、この子たち、きょうだいか。帰りの遅い妹を兄貴が探しに来たんだ。
男の子が女の子の手をつかんで駆け出そうとすると、女の子がそれを引き止めた。
「待って、お兄ちゃん……これ」
手に持った何かを差し出していた。
「なんだよ?」
「四つ葉のクローバー。お兄ちゃん、明日スイミングの進級試験でしょう? 合格するようにって空き地で探してきたの」
兄がとまどったのが、離れた場所から見ていてもはっきりとわかった。
「おまえ、ずっと、これ探してたのか? ……こんな時間まで?」
「うん。だって試験は明日の午前中だから、今日中でないと間に合わないでしょう?」
妹は後ろ姿だからその顔は見えない。でも、にっこり笑ったのが声でわかった。
兄はもっととまどった顔をして、やがて、持ってきた傘を広げて妹にさしかけた。
「帰るぞ――急ごう。濡れたままでいると風邪ひくからな」
うん、と妹が答えた。嬉しそうな声だ。
ひとつの傘をさしたきょうだいが、街灯と月に照らされた道を走っていく。
なんか、最近こんな場面をよく見るな。天使のみゅうと一緒にいるからか? それとも――今まで俺が気がつかないでいただけかな?
みゅうも、俺と一緒にきょうだいを見送っていた。ほほえみながら言う。
「四つ葉のクローバーってね、葉っぱの一枚ずつに意味があるのよ。希望と信仰と愛情と幸運。この四つがそろって、完璧な幸せになるんだって。舜にもあげるね」
みゅうの指先に薄緑色の四つ葉が現れた。はい、と差し出してくる。
でも、それはみゅうの手から離れたとたん、消えてしまった。俺の手のひらに落ちながら見えなくなっていく。
みゅうは目を見張り、すぐに苦笑した。
「やっぱりダメかぁ……舜なら受け取れるかと思ったのに」
またあの淋しそうな顔になる。
俺はあわてて言った。
「いいや、ちゃんと受け取ったさ。ここにな」
と右手で左胸の心臓の場所を押さえて見せる。
とたんに、みゅうが吹き出した。
「やっだ、舜! それってものすごく気障だよ!」
「なんだよ、別にいいだろう!……本気で言ってるんだから」
すると、みゅうがまた笑った。今度はにっこりと。
「ありがと。舜はほんとに優しいね」
笑う瞳には、涙が光っていた――。