「本当・・・なのか?」
ずっと目を合わせていたミクの視線が、ふと僕の右手に握られている時計に移った。つられて時計を見ると、長針は8に重なっていた。何故だろうか、さっき見た時からあまり進んでいない。この空間は、時間という概念が無い世界なのかもしれない。僕はまた視線をミクのその輝きを失った眼に戻した。
「本当よ。そしてね、この2009年から2年後の世界。そこに祐輔はいないのよ。存在しないの。この意味、分かるでしょ?」
「僕がもう殺されてるって事だろう? それも、君に。」
少しの間、沈黙があった。
「私はね、たまに未来が見える時があるの。本当にたまーに、だけど。どのくらいの未来なのか自分でははっきり分からないし、未来が見える時を自分でコントロールすることもできない。寝てる時だったり起きてる時だったり。その時間は長かったり短かったりするの。でもね、私の目に映る未来で、祐輔はだんだん大人になっていった。」
僕はまだ黙っていた。
「2年とちょっと前のことよ。ああ、ごめん、祐輔から見たらつい最近のことになるわね。私は、祐輔が恋人の女の人と結婚してる未来を見たの。二人は薬指に銀色の指輪をして、笑いあってキスをして、すごく幸せそうだった。私はそれを映画のスクリーンを見るみたいにして外から、正確に言うと過去から見てたの。正直、私としてはあまり見たい光景じゃなかったわ。でもそれは夢なんかじゃない。『未来』なの。」
「それで、そんな理由で僕を殺したのか?」
ようやく僕は口を開くことができた。それ以上の言葉は、いくら探しても出てこなかった。
「そう。あなたは気づいてたか分からないけどね、私はずっと祐輔が好きだったのよ。それこそ私たちがこの丘で遊んでた頃からね。あなたが引っ越すって聞いた時、ほんとに悲しかったわ。こんなに仲がいいのに、こんなに好きなのに離れ離れになるなんて耐え難かった。未来のあなたを見てる時も、私はずっと惹かれ続けてた。それも、すごく強烈にね。」
ふと丘の下を見ると、さっきまで疎らに点いていた明かりは全て消えていた。わずかに鳴いていた虫の音も聞こえなくなっていた。この空間の空気を揺らすのは、僕とミクが発する声だけだった。
「そんな理由で、ってあなた言ったけどね、私にはそれ以上の理由なんてなかった。あなたが私から離れていくなら、私のこと振り向いてくれないなら、殺しちゃおう。せめて最後だけでも祐輔は私のものに、ってね。お気に入りの玩具を他の子に取られて、腹いせにそれを壊しちゃう子供と同じ。それまでの私は、未来を変えようなんて思ったことは一度もなかった。」
あの頃の僕は、ミクが僕のことを好きでいたなんて知りもしなかった。それから十数年が経過してミクと再会した後も、僕はミクに対して恋愛感情は抱かなかった。他に恋人がいたから自制がかかっていたのかもしれないが、本当のところはわからなかった。
「僕の心臓を突き刺したのは、さっき持ってたナイフか?」
「ええと・・・。そう、なるわね。あと、心臓を突き刺したんじゃなくて横首に突き立てたのよ。あなた分からないでしょう? 深く付き刺したナイフを引き抜くとね、思ってたよりずっと赤くて綺麗な血が噴水みたいに噴き出してくるの。そして温かいのよ。私は何秒の間か、その噴き出す血に見惚れてた。気付くと周りは真っ赤に染まってるの。」
僕の喉からは声が出てこなかった。代わりに生唾を飲み込む音だけが聞こえた。
「祐輔を殺してしまった私は、もちろん犯罪者になるわよね。それからしばらく、私は捜査の手が私に伸びてこないか怯えながら暮らしてた。私があなたを殺したのは真夜中で目撃者もいなかったんだけど、誰が見ても殺人だものね。でもあなた、私と会ってることを他の誰にも言ってなかったでしょう? だからかしら、捜査も行き詰っちゃったみたいで、私が捕まることはなかった。」
「でも僕を刺したのはそのナイフなんだろう? 新品みたいに綺麗だったじゃないか。」
ミクは首を振った。
「さっき私が言ったことを思い出してよ。私を殺した、って言ったの忘れちゃったの?」
頭の中に、いくつかの言葉が巡った。
――――好きな人は、死んでも守るんだよ。
――――私は、未来から来たの。
――――あなたと私を殺したのよ。
僕は知ってしまった。理解のパズルは全てはめ込まれてしまったのだ。無意識のうちにミクの名前を叫んでいた。こんなに大きな声で彼女の名前を呼んだのは、それこそ15年ぶりかもしれなかった。