「ねえ、ちょっと見てほしいものがあるの。あと、時間は大丈夫かしら?」
ミクは不敵に微笑みながら言った。僕は無意識に握りしめていて、温かくなってしまった時計を見た。長針は5をすこし過ぎたところだった。
ミクは後ろ手でひとつのナイフを取り出した。刃渡りは13センチくらいだろうか。柄は黒色で、そこに銀色の模様が施してある。どこにでも売っていそうな、わりと小型のナイフだ。ミクが顔の前に掲げたそれは、その汚れひとつない刃に明るい月の光を浴びて、綺麗な銀色に光っていた。
僕は恐怖感を体の中から追い出すかのように溜息をひとつついた。その溜息は諦めにも似たものだった。丘から見下ろす街の灯は、次第に疎らになっていった。
――――もし僕を見ている人がいたら聞いてくれよ。パラレル・ワールドなんてものがあるのなら、どうやらこの僕は完全な外れルートのようだ。どこかの分岐点で間違った方を選んでしまったのだ。
「何? あなたもしかして、私が祐輔を殺すとでも思ってるの?」
「ほかに何を考えろって言うんだ? 時間が迫ってるんだろう。刺すなら早く刺せよ。ただ、願わくは僕が君に刺される理由を問いたいものだね。」
今度はミクが溜息をつき、持っているナイフを後ろのどこかにしまった。
「あのね、私がここに居るのはあなたを殺すためじゃないわ。私はもう祐輔を殺したりはしない。わかった?」
今のミクの言葉に何か引っかかりを感じた。それに気付くまで、ミクの言葉を頭の中で3回は反芻しただろうか。
「君が言ったのはどういうことなんだ? 僕にも分かるように説明してくれ。」
「さっき言ったでしょう。私が言ったことを理解するのはあなたなのよ。私は材料を切って下ごしらえをするだけ。それを美味しく料理するのがあなたの役目。例えばそれと同じこと。」
何分前のことか分からないが、ミクが僕の前に姿を現してから全く話は進んでいなかった。ミクは理解してほしいと言っている。僕は真実を受け入れなければならない。そして理解しなければならない。自分の心臓の音と、時計が時間を刻む音だけがあたりに大きく響いた。
「私は、あなたと私を殺したのよ。」
突然言葉を発したミクに、僕はいささか虚を突かれた。僕とミクは今こうして向き合っている。話がおかしいじゃないか。だめだ、と僕は自分自身に言った。僕が理解しなければだめなのだ。
「祐輔、私がずっと昔、ここでなんて言ったか覚えてる?」
「好きな人は死んでも守るよ、って事だろう? 僕も思い出したのはつい最近なんだ。」
「そう。私がその言葉をここで言ったのを思い出したのは、すこし先だったの。それからの2年間、私はずっと後悔と懺悔を抱えて生きてきた。あの時の私を憎みながら生きてきた。」
待て待て、僕は頭がおかしくなったのか? あなたと私を殺した? 思い出したのはすこし先だった? それからの2年間? わけのわからない要素が頭の中で渦巻いている。ミクは続けた。
「もう解ったでしょう? 今あなたの目の前にいる、このミクは25歳。あなたより年上さんなのよ。私は、未来から来たの。」
――――ワタシハ、ミライカラキタノ。
その言葉は、残響のように僕の頭の中に何度もこだました。身の回りのもの全てが、遠くに離れていくような気がした。