吹き抜ける風がミクの長い髪を撫でた。時計の長針は11を過ぎていた。
「ようやく分かった? 2年後の世界に祐輔は存在しない。そして私たちが今いるこの時間、ここには私が存在しないの。私は私を殺した。だから、23歳のミクはもういない。どこにもいない。もっと言うとね、ついさっき殺されたミクは祐輔を殺す直前のミクよ。さっき見せたナイフ、本当ならあなたの血で染まるところだった。この服に付いてるのは、私の血。私が2年前の自分を刺して、刺したナイフはそこに残してきた。2年前の私が持ってたナイフを今ここに持ってるの。意味が分かるかしら。」
ミクは、少しだけ首を傾げて言った。
「過去の自分を殺したなら、今僕の目の前にいる未来の君だって存在できないんじゃないのか?」
僕は尋ねた。ミクは少しだけ笑った。
「そう。だから最初に言ったでしょ? 時間制限(リミット)がある、って。その時計の長い針と短い針が13を過ぎて、長い針がもう一周したら私は消えちゃうの。存在できなくなるのよ。ね、この針って祐輔と私みたいじゃない? 一人の背が高くて、もう一人はちっちゃくてさ。もう二度と重なることはないんだよ。」
ミクは両手の人差し指を重ねる仕草をした。その瞬間、僕の目からは堰を切ったように涙が溢れてきた。その涙は止まることなく、今まで忘れられていたことを嘆くかのように流れ続けた。
「後悔と懺悔、ってさっき言ったかしら。あなたに言うべきじゃないかもしれないけれど、あなたの恋人はしばらく後に死んでしまうの。正確には住んでるアパートの屋上から身を投げて自殺するのね。それはもちろん、祐輔が誰かに殺されたのを知ったからでしょうね。好きな人の為だけに命を投げるのよ。そこで私はやっと気付いたわけ。私は何してるんだろう、ってさ。ああ、もうすぐ時間が来ちゃうわね。ちょっと言い足りないところはあるけど、その話は・・・そうね、また今度、かな。いつかまた、あのスタバでお話しようね。」
またしばらくの沈黙があった。僕の視界は涙で霞んで、ミクがどんな表情をしているのかも分からなかった。でもおそらく、微笑んでいたのだろう。
「祐輔、その時計、私に返してくれる? 一度あなたにあげたものだけど、やっぱり私が持っていたいの。」
ミクがこちらに近づいてくる音が聞こえた。ミクの温かい両手が僕の右手を包み、時計は僕の手から離れていった。
「ねえ、泣かないでよ。最後くらい、笑ってほしいの。いつかの私たちみたいに、一緒に笑っていたいの。先のことなんか見ないで、現在(いま)を笑うんだよ。祐輔は、これから何十年も人生を生きて、それから死ぬんだよ。私はもう後悔なんてしてない。昔、言ったことを守れたから。」
それ以上、ミクの言葉に続きはなかった。どのくらいの時間が経っただろうか、次に目を開けた時、僕はいつもの帰り道に一人佇んでいた。
――――――― さよなら、祐輔。
ミクが、どこかから僕に呼びかけた気がした。暖かい風が肩を叩き、隣を吹き抜けていった。
『月夕の刃』 ~おわり~