月夕の刃

- Gesseki no Yaiba -

Kei

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5

 背後に人の気配を感じた。振り返った僕の目に映ったのは、予想通りというかミクだった。今僕が立っている場所が現実であれ非現実であれ、ここに現れそうなのはミクくらいのものだ。予想できなかった点といえば、いつも二つに束ねている長い髪が下ろされていたこと、そしてミクが全身に真っ赤な血を浴びているということだった。

「ミク・・・!? どうしたんだよ! 何だよその血は! 怪我したのか!?」

 

「祐輔、落ち着いて聞いてほしいの。大丈夫、今私が怪我をしているわけではないから。」

ミクは少し俯き、小さく首を振った。

 

 僕の第一声には「怪我したのか」という言葉が入っていたが、僕にはそれがミクの怪我ではないということが分かっていた。その血はミクの髪や顔にも付着していて、着ている服にまで飛び散っていた。全身が真っ赤に染まった彼女は、いつもの子供っぽい雰囲気はまったく見えなかった。白地のシャツには大量の血がまるで飛沫のように飛び散り、芸術的とも言えるほどの奇抜なデザインを創り出していた。デニム生地のスカートにも所々に血が滲み、大きな斑点を作っていた。髪の毛に付いた血糊は、もう固まりかけてどす黒い色に変わっていた。特にその道に詳しくない僕が見ても一目で分かるほどだ。その血は明らかな「返り血」だった。僕は肌が粟立つほどぞっとした。

 

 

 そこから暫くの沈黙が続いた。先に口を開いたのはミクの方だった。

「私さ、無念を晴らしに来たんだ。祐輔にも、関係のあることだから。」

僕は何かを言おうとしたが、その言葉は喉の奥でつっかえ、声としては出てこなかった。ミクに対する底知れぬ恐怖感だけが高まっていった。

「その前に、時計、持ってるわよね? 私がずっとずっと昔にあげた、あの時計。」

「あ、ああ・・・持っているよ。何故僕がその時計を持ってるって知ってるんだい?」

「動いてるよね?」ミクは僕の質問には答えずに言った。

震える手でポケットから時計を取り出した。さっき見た時よりも少し針が進んでいる。長針は3と4の間くらいにあった。時計は相変わらず熱心に時を刻み続けていた。

「先に言うんだけど、それは時間制限なの。その長い針と短い針がもう一回重なる前に、あなたには理解してもらわなくちゃいけない。砂時計の砂が落ちるみたいに、リミットは刻々と近付いて来ているのよ。」

 理解、という言葉が僕の目の前で立ちはだかった。仕事を理解する時とも、他人を理解する時ともその言葉の意味は異なっているように思える。こんなに簡単なひとつの言葉がここまで重くのしかかるとは思ってもいなかった。

 

「それと、もう一つ言っておくね。これから私が言うことは全部本当の事だって信じてほしいの。じゃないと話が進まなくなっちゃうから。」

 混乱した僕の頭の中には、僕はここでミクに殺されてしまうのではないか? という思考が巡った。ミクの言葉とその容姿。殺戮の天使。まるで漫画の中の話みたいじゃないか。しかしその天使は今僕の目の前にいるのだ。今にもミクが懐からナイフを取り出し、僕の心臓を一突きにしてしまいそうな気がした。

 すこし息を潜めていた恐怖感がまた顔を出し、僕は無意識に半歩ほど後ろに下がった。

 

――――ミク、僕を殺すつもりなんだろう?

 

 

 その言葉が、声に出たかどうかは分からなかったが、ミクの口許には僅かな笑みが浮かんだ。周りの木々の枝が揺れて僕を覗き込んだ。時計は、やけに大きな音を立てて時を刻み続けていた。

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