月夕の刃

- Gesseki no Yaiba -

Kei

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4

 とても不思議で、とても悲しい出来事を体験した。僕がこれから何十年の人生を生きて死ぬまでの間に、これ以上の体験はおそらくないだろう。後々になって思い返してみると、その取っ掛かりはずっと昔にあったような気もする。

 

 

 仕事帰りの夜、僕は家へ向かって歩いていた。毎日通っている見慣れた道。しかし、その日だけは何かが違っていたように感じた。綺麗な満月の夜で、僕はその月を見上げて、目を瞑り深呼吸した。僕の不思議な体験はここからだった。

 ふと目を開けると、見覚えのない場所にひとり立っていた。いや、「見覚えのない」という言葉には語弊がある。正確に言うと「忘れてしまった」と言った方がいい。周りには樹木が生い茂り、ぽっかりと切り取られたような夜空には、コンパスで描いたようにまん丸く、やけに明るい月が浮かんでいる。

 

―――――「私ね、好きな人は死んでも守るんだ。」

 

 幼い頃の光景がフラッシュバックした。以前に夢の中で聞いたこの言葉。これは『この場所』でミクが口にした言葉だった。記憶の中に欠けたジグソーパズルのピースがはめ込まれたような感覚があった。僕はどうしてこの場所を覚えていなかったのだろうか。僕とミクの思い出の場所を。この「ツキミガオカ」という場所を。

 

 はからずも、15年の時を経て僕は再びその場所に立つことになった。時の流れが止まってしまったように見えるこの場所は、あの頃よりも少し狭く感じた。今にも、後ろから幼いミクが「祐輔!」と声をかけてきそうに思えた。しばらく僕は放心してその場に立ち尽くしていた。「懐かしい」という感覚が全身を支配した。

 ふと我に返り、頭の中を整理した。この「ツキミガオカ」は僕が子供の頃に来た場所だ。歩いているうちに辿り着いてしまった? そんなことがあるはずはない。ポケットの中の携帯を見て、日付を確認する。2009年4月13日。僕が仕事に出かけた日の朝に見たニュースや天気予報でもそんな日付を聞いた気がする。頭の中で「ここは現実だ。」という声と、「いや、ここは非現実だ。」という声がせめぎ合っていた。

 

 携帯をポケットに戻した時、何かがもう一つポケットに入っていることに気がついた。僕は仕事のスーツで外を歩く時、右のポケットには携帯、左のポケットには財布を必ず入れている。裏を返せば、それ以外のものが入っていることはありえないのだ。

 その物体を取り出してみて、ひどく驚いた。僕のポケットから出てきた物は、机の上に置いてあるはずの、あの時計だった。耳を澄ますと、その時計からは「カチ、カチ」という恐ろしく一定のテンポで時を刻む音が聞こえてきた。明るい月が時計盤を照らし出した。短針が13の少し右、長針は1の少し右に位置している。「13時」6分。時計は動いていた。

 何かが、始まろうとしている。

 

「いや、もう始まっているんだよ。」頭の中で、誰かが僕に小さくささやいた。

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