懐かしい日の夢を見た。
「私ね、好きな人のことは死んでも守るんだ。」
夢から覚めた僕が憶えていたのは、かつてミクが口にしたその言葉だけだった。あの頃のミクが言う「好きな人」が誰を指していたのかは分からない。僕のことだったのかもしれないし、他の誰かであったのかもしれない。それともミクの頭には具体的な人物は浮かんでいなかったのかもしれない。幸か不幸か、その頃の僕はまだ「好き」という感覚を持ち合わせてはいなかった。
僕とミクが再会して半年が過ぎた。昔話だけでなく、僕はミクにいろいろなことを話した。好きな音楽のこと、現在の職についてのこと、大学は学科トップの成績で卒業したこと、大学2年生の時から交際している恋人のこと、エトセトラ。不思議と話題は尽きなかったが、僕はあの時計のことを話題に出そうかどうかを決めかねていた。幼い頃にプレゼントとして貰った時計。常識的に考えて、話題に出してまずい要素は見つからない。しかし、僕はそれがきっかけで何かが動きだすような予感を感じていた。さながら噴火のきっかけを待つ活火山に似ている。善か悪かも不明瞭でありながら、それは僕がこの23年間生きてきた中で最も確信を持てるものだった。
家に帰り、30分以上もかけて時計を探し出した。ホコリをかぶってはいたが、それは昔と同じ、長針と短針が13の少し手前という状態で止まっていた。手に載せ、試しに耳を近づけてみるが、何も聞こえない。その時計は意地でも寡黙を押し通そうとしているかのように見えた。
その半年が過ぎる間に、僕は一度だけミクと一緒に寝たことがあった。一月も終わりかけのとても寒い日で、この辺りには珍しく雪がちらついていた。部屋で音楽を聴きながらコーヒーを飲んでいると、チャイムも無しに玄関のドアが開き、「寒いから入れて!」と言いながらミクが転がり込んできた。一人暮らし用の炬燵で窮屈そうに暖まっているミクに、身体の温まる飲み物を出してやった。温めたミルクにラムエッセンスを数滴落とし、蜂蜜を少量加えて最後にシナモンを一振りかける。オリジナルのホット・ドリンクだった。ミクもこれを気に召したようで、あっという間に飲み干してしまった。
その夜、ミクが僕に尋ねてきた。
「ねえ、祐輔は過去と未来、どっちに行きたい? どっちかって言われたら。」
「どうしてそんなことを聞くんだ?」
ミクの柔らかい髪を撫でつけながら、僕が聞き返した。
「ちょっと気になっただけ。答えたくないならいいわよ。」
ミクが小さな声で言った。
「答えたくないというか、質問が漠然としすぎて答えられないかな。過去や未来の自分と入れ替われるなら、ってことかい? 過去に戻っても結局今までの繰り返しだし、未来になんて行きたくないし見たくもないね。」
「ふぅん・・・そう・・・。」
ミクは目を閉じていて、今にも眠りにつきそうな声を出した。
そこで会話は終わったが、僕はその後ずっと考え続けていた。もしパラレル・ワールドというものが存在しているなら、隣の世界の僕は一体何をしているだろう? こんなふうにミクの隣で寝ているのか? それともミクとなど出会わずに全く違う人生を歩んでいるのか? もしかしたら、20歳くらいで交通事故にあって死んでしまっているかもしれない。日常は分岐点に満ちていて、無限の枝分かれの数だけパラレル・ワールドが展開されていく。無限の数の未来、無限の数の過去があり、無限の数の僕がいる。今ここにいる僕も、ひょっとするとその無限の僕の一人にすぎないのかもしれない。そんなことを考えながら、僕は深くまどろんだ眠りの渦の中に落ちて行った。隣からはもう静かな寝息が聞こえていた。