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もののけ姫 〜宮崎駿考〜  M2 
こだま
Illustrated by Numataro

『もののけ姫』を見て真っ先に連想したのが、同宮崎駿監督作品の『風の谷のナウシカ』 だった。「もののけ」と「風の谷」は非常によく似ている。 取り扱っているテーマにおいても、「人と自然の共存」、ひいては「生きることそのもの 」と、この二作品では同じものが描かれていると思える。 登場する人物や設定にも共通する点が多くある。「もののけ」のエボシ御前は、「風の谷 」のクシャナ殿下(トルメキア軍司令官)を連想させるし、「風の谷」のナウシカは、「 もののけ」ではアシタカとサンの2つの人格に分けられている。また、「もののけ」の猪 の群は「風の谷」での王蟲の群を連想させ、聖地としての「もののけ」のシシ神の泉は、 「風の谷」では(ナウシカとラスベルが落ちた)腐海の底にあたるような気がする。(両 者は、いずれも自然や生命の謎を解き明かすカギを示すような場所であった。)

ただ、それでも何かが違う。 例えば、「風の谷」の王蟲たちの怒りは(少なくとも映画版の中では)大地の怒りそのも のであったのに対して、「もののけ」では、猪や犬神、ショウジョウ達は自然そのもので はない。「もののけ」では、彼らも、人間と同じく自然(シシ神)の傘下?にあって、人 間と同じく争い、憎しみ合い、そして、自らが生きて行くために、人間と同じ理屈のもと に闘いながら生きる存在であった。 また、「もののけ」を見終えた後には、十?年前、「風の谷」を見終えた時には残らなか った、何か消化不良的な思いが残った。つまり、「もののけ」の中に登場する人間達は、 「風の谷」と同様、自然を侵略しようとはするが、しかしそれはあくまで「生きる為」で あり、タタラ村の人々は、(当たり前だが)戦いを嫌いながらも、山を削らなければ生き て行けず、そして、その為にこそ猪達や犬神達とも敵対しなければならなかったという点 である。貧しいタタラ村での生活を救ったエボシ御前は、人格もカリスマも兼ね備えた、 まさに近代的合理主義の救世主であり、タタラ村の人々(特に女性達)の信頼も厚く、彼 らの「命」を救える唯一の存在であった。そしてそれは勿論、乙事主率いる猪達の側にも 同様で、彼らとて山を削られては自らが生きて行けぬからこそ怒り、敵対したのだった。 この「命」の価値は、人間の側にも猪の側にも等価値であり、だからこそ「共存」の糸口 は見つからない、出口の無い袋小路に押しやられたようなジレンマ(しかも作品中では、 それに対する明確な回答が示されていない)が残るのである。

では、「人間とはそもそも搾取の上にしか生きられない者である」という同じテーゼは、 「風の谷」の中には存在しなかったのか?同じテーマを描きながら、何故「風の谷」を見 た時には、解決策の見つからない袋小路に陥らなかったのか?あるいは「風の谷」の中で はその解答が既に示されていたのか?それが気になって、もう一度この作品を見返してみ た。 その答えは見つかった。上記の通り、人間を一方的な自然への侵略者であるといったよう に描いた「風の谷」と、人間も森の獣達も同じく自然の一員であるといったように描いた 「もののけ」とでは、明らかに視点の置き方の重心が異なる。つまり、「風の谷」では、 エボシ御前のポジションに当たるクシャナ殿下側の“人間の生存”への理屈の描かれ方が 弱く、その為に、ぶっちゃけた話、当時、私が単に作品中のこのテーゼの存在に気づかな かっただけ(笑)という事になりそうだ。 つまり、弱くはあるものの、やはり「風の谷」の中でも同じテーゼは示されていた。辺境 の地を統合する為に風の谷へ訪れたクシャナが、この風の谷の人々に向かって問うている 場面がある。「腐海の毒におかされながら生きる道を選ぶのか?」と。腐海を焼き払わね ば、例えこの風の谷とて、いつかは瘴気にのみこまれ、人が生きては行けない地に変わっ てしまう。人間が生きる為にこそ、腐海を焼き払うべきだ、 とクシャナは言ったのである。そしてまた、自然との共存を果たしていた風の谷の人々で さえ、それでもやはり、常に「我々は滅びるよう定められた呪われた種族なのか?」とい う不安に怯えながら生きているのだ。(ただし彼らはまた、その問いに対する解答をも持 っている為、その点については後へ譲る。)

『もののけ姫』は、ごく表面的には、「自然(森の神)の首を返しなさい。」という、今 自然の命を奪いつつある人類へ向けた警鐘のような作品であると思う。首を探すディダラ ボッチが、森を破壊しながら人間に襲いかかってくる姿は、まさに今、自然からその命綱 を奪ってしまい、環境問題にあえぐ現代社会そのものを象徴しているかのようである。だ から、アシタカとサンが人間の手によってシシ神の首を返す事に成功した後、(シシ神は 消えてしまったけれど)森の緑が戻り、全てがハッピー・エンドに終わったという結末に はそれなりに納得はいく。しかし、シシ神の首は戻っても、獣達と人間の共存、「生きる 為の闘い」の問題は、根本的に何の解決もしてはいない。 同じく『風の谷のナウシカ』でも、ナウシカは、人間同士の「殺し合い」に抵抗し、蟲達 と心を通わせ、奇跡的に王蟲の暴走をくい止めることさえ出来た。しかし、暴走が止んだ 後、ペジテの人々は、クシャナ殿下率いるトルメキアの人々は、はたしてどう生きれば良 いのか?具体的にその解答は描かれていない。 それは、ストーリーの登場人物とともに、実は作者自身もが迷っているからではないだろ うか?(ただし、コミック版の「風の谷」では、最後にナウシカなりの解答が示されてい るようだが。)

世界の始まりに、おそらく人や動物は、純粋に「自分が生きる為」だけに戦うのだろうと 思う。それは、言い換えてみれば、自然界ではごく当たり前な「生存競争」でもある。生 存競争の中で、弱者は淘汰され、自然界は、同じ種の中でもより優秀な遺伝子のみを選別 して残して行く。また別に、勝者として繁栄を極めた種も、資源(食料)とのバランスの 故に、いずれはその数を減らして衰退して行く。全く当たり前の掟である。しかしまたそ の裏で、傷つき、朽ちて行く弱者が存在する。そしてその弱者に「心」があるならば、戦 いに傷つき、倒れた者の「哀」「苦」といった感情は、「憎」に変わり怨念となって、『 もののけ姫』でいうタタリ神の周囲に集うのだろう。 私は本来、「憎」の感情は、「哀」や「苦」をその基盤にしていると思う。人(または獣 )が哀しみや苦しみを受けた時、反射的に働く自己防衛本能、それが「憎」。これ以上自 分が傷つくことに耐えられない、限界の一線を越えた時に相手に繰り出す反撃、本能レベ ルでの精一杯の防衛手段ではないかと思う。(言い換えれば、「哀」に耐える強さは、イ コール自らの中の「憎」の感情に負けない強さでもあるのだろうと思う。) 人も獣も、生きる為に闘う。けれどその中から必ず「苦」の感情が生まれ、タタリ神が生 まれる。「憎」の持つエネルギーは、別の「憎」をも引き寄せ、また、「憎」は新たに他 の誰かを傷つけ、さらに新しい「憎」をも作り出して行く。「憎」は次々に伝染、社会の 中に蔓延して苦しむ人々の心をむしばみ、やがて「生存のための 闘い」でなく、「憎による憎の為の戦い」へと発展して行く。タタリ神とは、そんな「憎 」を一身にまとった生物が具現化されたものであるかのように感じられた。そして、それ を思えば、そんな「憎」によるタタリの攻撃を受けたアシタカが、心でなく体にのみ呪い を刻まれたのは、まだまだ救いのある展開のように感じられた。 「風の谷」で、父を殺されたナウシカが、怒りと憎しみの余り、踏み込んできたトルメキ ア兵を皆殺しにしてしまう場面がある。(これも私は「哀」による「憎」の反動だと思う 。)その後ナウシカは、ユパの阻止により平静を取り戻すが、彼女は後に「憎しみに駆ら れて何も見えなくなってしまう自分が怖い。」と語っていた。 作り出した傷は、同時に人に「哀しみ」と「命の重み」をも教える。そして、「もう二度 とこんな事をしたくない」と、争いへの嫌悪を教える。ナウシカは、より強く、深く「命 の重み」を受け止めていた人だった。「もう誰も死なせたくない!」そう言って、トルメ キアに対して無条件に従う道を選んだ。そう。「攻撃をしかけた相手に対して反撃を返さ ない」、勿論これが、「憎による憎の為の戦い」に歯止めをかける唯一の方法だったのだ と思う。けれど、攻撃をしかけた相手に身を委ねなければならない結果が、果たして本当 に人の幸せだったといえるのだろうか? 元はと言えば、誰もが単に「生きる」ことを望んだだけである。それなのに、今も、常に 世界中のどこかで燃える戦いの火が途絶える事は決して無い。人はこれを単に「愚行」と 呼ぶけれど、果たして本当にそれだけなのだろうか・・・。

「人と自然とが共存する道」、その解答は結局、「風の谷」でも「もののけ」でも、直接 作品中からは得られずじまいであった。(恐らく、問題提起のみをして、作者が意図的に 解答を避けているのだろう。)けれど、そのヒントは作品中にも示されていると思う。 「多すぎる火は何も生みはせん。火は一日で森を灰にするが、水と風は、100年かけて 森を育てる。」「わしらは水と風の方が良い。」ナウシカの故郷である風の谷の人々が、 クシャナ殿下に告げた言葉である。 「風の谷」ではこの村の人々、そして「もののけ」ではアシタカの故郷であるエミシの村 の人々が、実は共に初めから自然と調和して生きている社会の人々であった。そして彼ら に共通していた事とは、「死を肯定」して暮らしていた事である。風の谷の人々は、腐海 の毒を恐れ、勿論その為に死んで行く人々の事を悲しみ、また「少しの火」によって抵抗 もしていた。けれど、蟲達の聖域である腐海には決して手を出さず、必要なだけの「死」 を、あるがままに受け入れていたのである。「ババさま。皆死んじゃうの?」「それが運 命(さだめ)ならね。」襲い来る王蟲の大群を前に、「風の谷」の大ババさまはそう答え ていた。「もののけ」におけるヒイさまも、やがて死に至る呪いを受けたアシタカを、あ るがままに受け入れ、アシタカもまたそれを受け入れたからこそ自らの運命を見極める旅 に発ったのだと思える。 「わしらは水と風の方が良い。」風の谷の人々は、腐海の毒におかされながらも、水や風 と共に生きる 事を選ぶと答えた。そしてそれは、「火=闘い・憎しみ」「水と風=育成・癒し」だとす るならば、「憎しみの為の戦い」に参加することを拒んだナウシカの認識とも共通してい ると言えるかも知れない。「火」の力に依存してまで人類が生に執着することは認められ るのか?という問いかけに対し、彼らは「否」と答え、滅びを生活の一部とし、死を肯定 しながら生きていたのである。

 シシ神は、命を与えもするが奪いもする、生と死を司る神であった。そしてそれは、一 見正反対のことであるかのように見えるが、「生」も「死」も実は、「命」という存在の 中の一個の現象に過ぎない。月は地球の周りを周回し、地球は太陽の周りを巡る。季節は 春→夏→秋→冬、そして再び春へと巡り、時は、朝と晩を繰り返す。生命は、種の興亡を 繰り返し、「生」は「死」、「死」は「生」へと移り変わる。手塚治虫の『火の鳥』に見 られるような、自然の中のリフレイン。「生」も「死」も、生活の中の一部であり、それ と共に「生きる」事が、シシ神の司る自然の中の掟。シシ神は、アシタカの傷を癒しはし たが、右腕の呪いを解いてはくれなかった。 またシシ神は、モロに対しても「傷を背負ったまま生きろ」と、そんな意味合いの言葉を 告げていたと思う。シシ神の森の獣達は、少なくともその掟に従いながら生き、またアシ タカも、シシ神の泉でその神秘?に触れる事が出来た。“死と共に生きる”。ただ「生き ろ」と言われても、例えば死に傾倒した者には、何を目指して生きれば良いのか分からな いだろう。また逆に、生に執着した者には、死に怯えながら生きる道しか見えないだろう 。(ある意味で、「生きたい」または「死にたい」というこの二つは、人間の欲望の中で 最たるものなのかも知れない。)そしてそうでなくて、欲望にも憎悪にも惑わされず、「 死と共に」「生きろ」とは、未来へ向かう、どこか明るい希望の見える言葉であるように も感じられる。『もののけ姫』のキャッチコピーである「生きろ。」、この言葉には、そ ういった意味合いも含まれているのかも知れない。

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