ロムド国の西にあるシルの町。
大荒野に面した町の外れで、フルートとポチは待っていました。
すぐ近くにある小さな建物は彼らの家です。家の前には井戸があり、周囲には荒野からの風を防ぐために植えた木が林になっています。フルートとポチはその林の中にいました。今は八月。強烈な太陽が荒野に照りつけていますが、林の中は日射しがさえぎられるので快適です。
大きな木の下に座って道を眺めながら、彼らはおしゃべりをしていました。ポチが最近知った情報をフルートに話して聞かせています。
「で、あのときオーダたちの傭兵部隊は、ハルマスの近くまで駆けつけていたらしいんですよ。策略でディーラをルボラス軍から守れたから、すぐに引き返してこっちにも参戦するつもりだったのに、途中で闇の怪物に遭遇して戦闘になっちゃったらしいです。結局はみんな無事だったんだけど、オーダは『ハルマスで手柄を立てそこねた! 報奨金をもらいそこねた!』ってずいぶん文句を言ってたそうです」
「オーダらしいね」
とフルートは笑い、少し真面目な顔になって続けました。
「オーダたちは本当にいろんなところで活躍してくれたけど、ぼくはもう連合軍の総司令官じゃないから、彼らに報奨金をあげることはできないな。ロムド城に行ったら陛下にお願いしてみよう」
「でも、オーダたちはもうずいぶんご褒美をもらってますよ。自分たちの王様のエスタ王からも表彰されたはずだし。充分なんじゃないかなぁ」
「じゃあ、エスタ王に正規軍に取り立ててもらうとか?」
「それはオーダたちのほうで辞退しそうですね。正規軍は窮屈で嫌だ、ってしょっちゅう言ってますもんね」
すると、フルートが突然、くすりと笑いました。目を丸くしたポチを指さして言います。
「また、ワンって言わずに話してた。最近多いよね。話し出しがスムーズになってる」
「あ、それは自分でも気がついてました。たぶん体が大きくなってきたからです。普通の犬から少しだけ天空の犬に近づいてきたのかな」
嬉しそうに尻尾を振るポチをフルートは撫でてやりました。白い毛におおわれた体は、確かに以前より少し大きくなっていました。セイロスやデビルドラゴンとの決戦から三ヶ月が過ぎましたが、その間に成長したのです。
そして、それはフルート自身も同じでした。三ヶ月の間に身長がまた伸びて、青年の体型に近づいていました。
「ぼくの防具はもう全然着られないから陛下にお返ししたけど、ピランさんが『修理してまた使えるようにする』って張り切っているってさ。将来オリバンとセシルに子どもが生まれたら、また着てもらうつもりみたいだ」
「ワン、それは安心ですね」
とポチは答え、自分がまたワンと言ったことに気がついて、あれっという顔をしました。
「うぅん、まだ完全にはなくならないなぁ」
「なくならなくていいよ。君のワンが聞けなくなるのは淋しいから」
とフルートは笑います。
ポチはまた体を撫でられて気持ちよさそうに目を細めると、やがてフルートに頭をすり寄せました。
「すみません、フルート。わがまま言って」
「謝ることじゃないよ。君が自分で考えて決めたことなんだから。いくらぼくが年上の兄貴でも、弟の考えは尊重するさ」
「フルート……」
ポチは頭や体を何度もフルートにすりつけます。
そこへ、ガラガラと車輪の音を響かせて、箱馬車がやってきました。細い道をこちらに向かって走ってきます。
「来た!」
とフルートとポチは立ち上がりました。
「それじゃぼく、ひとっ飛びして連れてきますね!」
とポチは風の犬に変身して町のほうへ飛んでいきます。
フルートは林から出て馬車を出迎えました。停まった馬車から降りてきたのはキースとアリアンでした。キースはいつもの青と白の聖騎士の制服、アリアンは薄紅色の花模様のドレスという格好です。
「キース、アリアン、いらっしゃい。久しぶりだね」
と挨拶したフルートに、キースは笑顔を返しました。
「あのとき以来だから三ヶ月ぶりかな。元気そうだね」
「今飛んでいったのはポチ?」
とアリアンは空を見上げています。
うん、とフルートは答えてから、二人が乗ってきた馬車を見ました。
「普通の馬車で来たんだね。お城の馬車は使わなかったんだ」
「王家の紋章入りの馬車なんかで走ったら、勇者が乗ってるんじゃないかと思われて、街道沿いの住人から大騒ぎされるからね」
とキースは言いましたが、フルートの表情を見てまた笑いました。
「自分はもう勇者じゃないのに、と考えてるね? そんなことはないさ。セイロスが金の石の勇者として死んでいったって、君はやっぱり勇者だよ。世界中を闇の竜から救ったのは君と君の仲間たちだ。胸を張れよ」
「ぼくたちだけの力じゃないよ。光の陣営の人たちがみんな力を合わせたおかげだ。あとはセイロスが改心してくれたからだし──。ぼくたちだけじゃ闇の竜は倒せなかったよ」
相変わらず謙虚なフルートに、キースは、やれやれ、と苦笑します。
一方アリアンはまだ周囲を見回していました。フルートの家や林のほうを探すように眺めてから、フルートに尋ねます。
「ゼンは? あなたの家に来ているんじゃなかったの? 私の鏡に映っていたんだけれど……」
「来てるよ。四日前から泊まってるんだ。メールやポポロたちが到着するから、魔の森まで迎えに行ってるんだよ」
「あれ? 彼女たちは今日来ることになってたのか。日が重なっちゃって悪かったね。フルートも迎えに行きたかっただろう?」
とキースはすまなそうに言って人差し指で頬をかきました。人の良さも癖も以前と変わらないキースです。
フルートは首を振りました。
「みんなすぐにここに来るから。それより、ゾとヨは? 一緒に来るとばかり思ったのに」
「留守番しているよ。トウガリと一緒に芸をして、城や都の人たちを喜ばせてる。あれだけの戦いの後だからね。襲撃の恐怖が忘れられない人たちは今も大勢いる。トウガリとゾとヨの芸がそんな人たちを慰めているんだ。で、それがゾとヨのことも元気にしてくれている」
「そうか……」
守りの光で受けた火傷はキースの魔法で癒えても、大事な友だちのグーリーが消えていったショックは、ゾとヨの心に深い傷を残しました。しかも、守りの光の影響で、彼らは小猿の姿のまま、ゴブリンに戻れなくなってしまったのです。ずっとめそめそ泣いて悲しんでいた彼らが、人々を喜ばせることで元気になってきたと知って、フルートは、ほっとした気持ちになります。
そのとき、町の中から白いものが空に舞い上がりました。
「ポチが戻ってきたよ」
とフルートが言うと、キースとアリアンは急にいそいそと動き出しました。
「じゃあ、あれを準備しないとな」
と馬車の中に入っていきます。
その間にポチがやってきて、フルートの目の前に着地しました。背中に幼い男の子を乗せています。
「なんだいフルート兄ちゃん、急に呼び出したりしてさ? おいら、父ちゃんとラトスの町に買物に行くところだったんだぞ」
ロキでした。まだ四歳にもならない小さな体ですが口調だけは一丁前です。箱馬車が停まっているのに気がついて尋ねます。
「お客さんかい? そういや、メール姉ちゃんやポポロ姉ちゃんたちが今日来るって言ってたか」
「うん。でも、この馬車はポポロたちじゃないんだ」
とフルートが言っているところに、馬車から二人が降りて来ました。たちまちロキは目をまん丸にします。
「……姉ちゃん……?」
ぽかんと開いた口からつぶやきが洩れます。
アリアンは目を涙でいっぱいにしていました。泣き笑いの顔でうなずきます。
ロキの目もうるみ始めました。小さな手を姉に伸ばして駆け寄ろうとします。
が、すぐにロキは立ち止まってしまいました。伸ばした手を背中に回すと、逆に後ずさります。
「ワン、どうしたんですか、ロキ?」
「本物のアリアンだよ。君に会いに、はるばるディーラから来たんだ」
とポチやフルートが言うと、ロキはますます後ずさって首を振りました。
「だ、だって、だってさ……おいら、もう昔のロキじゃないんだぜ……。生まれ変わってこんなちっちゃくなっちゃったし、顔も声も全然違うし。もう姉ちゃんが知ってるロキじゃないんだ……」
「でも、あなたはロキよ。私の大切な弟だわ」
とアリアンは言って地面に膝をつきました。ロキに向かって大きく両手を広げます。
「ねえちゃ──」
ロキはことばより先に駆け出しました。アリアンの腕の中に飛び込み、抱きしめられるとわんわん声を上げて泣き出します。
笑顔になったフルートやポチに、キースが言いました。
「アリアンはアリアンで、ロキは新しい家族と暮らしているんだから邪魔になっては悪い、と言って来ようとしなかったんだ。その気になればいつでも来ることができたのにね。似たような遠慮をしていたんだから、やっぱりきょうだいだね」
すると、ロキが急に泣くのをやめました。キースをじろじろ見上げて言います。
「あんたが姉ちゃんの恋人のキースだろ? 噂どおり二枚目なんだな。きっと女の人にすごくもてるんだろうけど、浮気して姉ちゃんを泣かせたりしたら承知しないからな」
「ロキ、失礼なこと言わないで!」
とアリアンが思わず叱ると、ロキはまた嬉しそうに姉の胸に顔をうずめました。
「へへへ……姉ちゃんは今でもやっぱり真面目で厳しいんだな。うん、こんな姉ちゃんと一緒なら、キースも浮気なんかできないよな」
キースは人差し指で頬をかきました。
「まあ、なんだその……精一杯善処するよ」
そのやりとりにフルートやポチはまた笑ってしまいます。
するとそこに、キャン、と子犬の鳴き声が響きました。ポチの声ではありません。声はキースが右腕に抱えていた籠(かご)から聞こえていました。
「それがそう?」
とフルートは尋ねました。また笑みがこぼれます。
キースはうなずいて、籠をロキの横に置きました。
「さあこれ。ぼくたちから君へのプレゼントだ」
「おいらに?」
とロキはまた目を丸くしました。籠には蓋がついていて留め具で開くようになっていたので、ちょっと苦労しながら開けてみます。
その間にアリアンは立ち上がって一歩下がりました。
声でわかってはいましたが、籠から飛び出してきたのは一匹の子犬でした。クリーム色のちょっと長めの毛並みをしていて、ロキに飛びつくとぺろぺろ顔をなめ始めます。まだ本当に小さな子犬でしたが、ロキのほうもまだ体が小さかったので、子犬の勢いに負けて尻餅をついてしまいました。子犬はロキにじゃれついて、顔や首や頭をなめ回します。
「よ、よせよ、よせったら……! ずいぶん人なつっこい犬だな! おいらは餌なんか持ってないんだぞ!」
ロキが閉口して悲鳴を上げると、ポチが言いました。
「ワン、違いますよ。その子はロキに会えて喜んでるんですよ」
「おいらに? でも、おいら、この犬に会うのは初めて──」
すると、さえぎるように、キャン! と子犬がほえました。
「初めてじゃない、って言ってますよ」
とポチがまた通訳します。
「そんなわけないだろ! おいら、今までこんな犬は見たことない──」
そこまで言って、ロキは今度は自分で話すのをやめました。自分にのしかかってのぞき込んでくる子犬をじっと見つめ、いぶかしい顔をしてから、アリアンに尋ねます。
「姉ちゃん、この子にもう名前はあんのか?」
「もちろんあるわ。当てられる?」
とアリアンが笑顔で聞き返します。
えっと……とロキは子犬を押し返しながら起き上がり、少し残念そうに言いました。
「名前、もうあんのか。なかったら、おいらがつけようかと思ったんだけど」
「なんてつけたかったの?」
と今度はフルートが訊きます。
ロキは顔をちょっと赤くしました。
「なんか、こいつの目を見てると思い出すからさ、グーリーって名前にしようかと──」
とたんにまた子犬がロキに飛びついてきました。キャンキャン賑やかにほえながらじゃれつき、ロキの顔をなめ、手をなめ、服をくわえて引っ張ります。
「なんなんだよ、本当に! しつけがなってないぞ! 助けてよ、姉ちゃん! ──姉ちゃん!?」
アリアンが顔をおおって泣いていたので、ロキはびっくりしました。その横でキースやフルートたちも驚いた顔をしています。
「すごいな。彼は犬のことばがわかるのかい?」
「ワン、わからないですよ。でも、わかったんだ」
「そういえば、グーリーがオオトナカイだったときにも、言ってることがなんとなくわかる、ってロキは言っていたっけ」
え? とロキはますます目を丸くしました。
子犬はロキのズボンの裾をくわえて引っ張り続けています。じゃれているのではなく、訴えているのです。
「え、え……えっ!?」
ロキは突然気がつきました。
人は死ぬと黄泉の門をくぐって死者の国に行き、神の元で安らかな眠りつくと言われていますが、闇のものは違います。黄泉の門をくぐったあと、再びこの世に生まれてきて、新しい命を生き直すのです。再び闇のものになることもありますが、ロキのように人間に生まれ変わることもあります。あるいは──
ロキは子犬をつかむように抱きました。
「グーリーか? ほんとにグーリーなのか!?」
キャン!
子犬が得意そうにほえました。尻尾をいっぱいに振っています。
ロキは歓声を上げて子犬を抱きしめました。
「本当にグーリーなんだな! おいらと同じく生まれ変わって──おいらと同じように、前世の記憶も持ってるのか! グーリー、また会えたな!」
キャン、キャェェン!
子犬はちょっと変わった鳴き方をしました。まるでグリフィンの鳴き声のようです。
キースが言いました。
「グーリーがロムド城に子犬として転生してきたのを、ユギル殿が占いで見つけたんだ。子犬に話を聞いてみたら、グリフィンのときの記憶を持っていた。グーリーが前の記憶をなくさないようにめちゃくちゃ努力したのか、誰かの偉大な魔力が働いたのか、どっちなのかはわからないけどね。あんまり小さいうちは長旅は無理だから、ある程度育つのを待ってから連れてきたんだ」
ちなみにキースは動物のことばがわかります。
アリアンもロキに言いました。
「グーリーがあなたと一緒にいたがったから、こうして連れてきたの。あなたのご両親にはフルートがあらかじめ話をしてくれたから、もうグーリーを飼っていいことになっているのよ」
「ちぇ、フルート兄ちゃんたちもグルだったのか。おいらにだけ全然知らせないでさ」
とロキは口を尖らせましたが、長くは続きませんでした。子犬が尻尾を振りながら町のほうへ行きたそうにしたからです。
「おいらたちの家に行きたいんだな? よし行こう、グーリー! 案内するぞ!」
ロキはグーリーと一緒に駆け出しました。
「姉ちゃん、キースも、また来てくれよな! おいらももうちょっと大きくなったら、グーリーと一緒に訪ねていくから!」
と姉たちに挨拶しますが、とたんに転びそうになりました。幼児は足が短くて頭が大きいので、前のめりになって転びやすいのです。子犬がとっさに支えようとしますが、こちらも小さいので潰されそうになります。
するとロキと子犬の体が途中で停まりました。
魔法を使ったキースが、やれやれ、と頬をかきます。
「馬車で君たちの家まで送ってあげるよ。フルートの友だちで犬を連れてきたと言えば、君のお母さんもぼくたちを怪しまないだろう? さあ、乗って」
キースに促され、アリアンに手伝ってもらって、ロキと子犬のグーリーは箱馬車に乗りました。アリアンとキースも乗り込みます。
「フルート、ぼくたちはロキたちを送ったら、このまま城に戻ることにするよ。ゼンや女の子たちに挨拶できなくて申し訳ないけど、城も今けっこう忙しいんだ」
とキースに言われて、フルートはほほえみました。
「大丈夫ですよ。ぼくたちもすぐロムド城に行きますから」
「そうだな。じゃ、また後ほど」
キースが手を振り、箱馬車は町のほうへ走り出しました。子どもと子犬の楽しそうな声が車輪の音と一緒に遠ざかっていきます──。
「ワン、ふたりとも嬉しそうでしたね」
とポチが尻尾を振って言いました。ロキと子犬のグーリーの姿が、なんとなくフルートと自分の姿に重なって見えたのです。
フルートはうなずきました。
「ロキは町の子どもの中ではどうしても浮いていたからね。同じ年頃の友だちがいなくて、いつもひとりだったんだ。でも、今度はグーリーがいるから大丈夫。ロキも淋しくないよ」
フルートも笑顔です。
そのとき、町とは反対の方角から別の馬車の音が聞こえてきました。道のない荒野を幌馬車が走ってきます。
「ひゃっほぅ、フルート! 連れてきたぞ!」
と元気のいい声が呼びかけてきました。
女の子たちを迎えに行ったゼンが戻ってきたのでした──。