のっぺりした灰色の床に椅子を置いて、黒い服を着たセイロスが座っていました。
そこは現実の世界ではありません。世界の裏側にある異空間です。どこまでも広がる薄暗い空間に、彼以外の姿はありません。
すると、どこからともなく女性の声が響いてきました。
「我が君! どこにおいでですか、我が君!? あなたのお望みのものをついに捕まえました!」
イベンセの声でした。
黙って座り続けていたセイロスの顔に、薄い笑みが浮かびました。
「ようやくか。思いのほか時間がかかった」
その声は相手には聞こえていないようでした。イベンセは彼を呼び続けています。
セイロスは誰もいない空間へ言いました。
「我が元へ来い、闇王」
とたんに周囲の景色が一変しました。薄暗いだけの何もない空間が、白い漆喰の壁で囲まれた広間になったのです。
広間の壁には黒曜石が横に長くはめ込まれていて、その上に金の線が描かれていました。床も磨き上げられた黒曜石で、一段高くなった場所に金と黒檀でできた豪華な玉座があります。セイロスはその玉座に座っていました。後ろには側近のギーが大剣を抱いて座り込んでいます。
セイロスが顔を上げると、ギーが気配に気づいて尋ねました。
「考え事は終わったのか、セイロス?」
この世界から異空間へ精神を飛ばしていたセイロスを、ギーは熟考をしているものと思って、傍らで警護を続けていたのです。来る日も来る日も、もう半月以上になります。
けれども、セイロスはそんな忠臣をねぎらうことはしませんでした。当然のことのように言います。
「間もなくイベンセがここに来る。出迎えに行け」
「イベンセが!?」
とギーは顔を輝かせました。すぐに跳ね起きて部屋の出口へ向かいます。
「よくここがわかったなぁ。でも、この広間に来るまでが迷路だからな。案内がなければイベンセだって迷うに決まってる……」
と嬉しそうにひとりごとを言いながら、兜からはみ出した前髪やあごひげを撫でつけて、部屋を出て行きます。
その足音が通路を遠ざかると、セイロスは空中へ言いました。
「入ってこい」
呼びかけに応じて姿を現したのは、赤と黒のドレスに黒い翼のイベンセでした。頭には二本の角が生えた闇の姿です。
彼女は周囲を見回しながらセイロスの前に降り立ちました。
「こんな場所に潜んでおいでだったのか──。これは光の連中にも予想外だっただろう」
けれども、セイロスは彼女の話に応えようとはしませんでした。ただ、当たり前のようにこう言います。
「ポポロを捕らえたな。引き渡せ」
イベンセは一瞬憤慨する表情になり、すぐにそれを消しました。内心を顔に出さないようにしながら言います。
「連中が追ってこないように、器(うつわ)は残してきました。捕らえてきたのはポポロの力だけです」
「充分だ。よこせ」
とセイロスはまた言いました。イベンセの手柄を褒めることも、苦労をねぎらうこともありません。
イベンセは口元を歪めました。唇に皮肉な笑みが浮かびます。
「私は我が君の命令に従って、ポポロを奪うことに成功しました。そんな私に褒美はないのですか?」
けれども、それでもセイロスが心動かされる様子はありませんでした。
「私がおまえに命令してからどれほど時間がたったと思う。遂行に時間がかかったことを詫びるならまだしも、厚かましくも褒美をねだるか、闇王」
けれども、その声にも怒りの響きはありませんでした。セイロスは当然のことを当然と言っているだけで、相手の気持ちなどまったく顧みていないのです。
イベンセは、はっきりと顔色を変えました。握った拳を震わせて言い返します。
「あなたは私の兵を取り上げ、その状態で命令を遂行しろと言われた。それがどれほど困難なことだったか、ご想像にはなれないのですか? サータマン王はあなたの命令に従わずに王都を攻めて、敗れて消えていったが、私はこうしてあなたが望むものを手に入れてきた。私には褒美をいただく権利があるはずです──!」
「おまえが望むものはわかっている」
とセイロスはイベンセの反論を冷ややかにさえぎりました。
「おまえが望んでいるのは闇の国の支配の継続だ。おまえは自分の国を私に奪われることを恐れている。闇の国に手出ししない契約を、私から引き出そうとしているのだ」
企みをあっけなく見破られて、イベンセはますます顔色を変えました。それでも拳を握って言い続けます。
「その通りです、我が君。だが、悪い契約ではないはずです。いかに万能なあなたであっても、世界のすべてを統べることは困難なのですから」
けれども、やはりセイロスは少しも心を動かされませんでした。ただ淡々と言います。
「世界は私のものだ。ポポロを渡せ。そして去れ、闇王」
イベンセは怒りに顔を染めました。憤慨したように背を向けて立ち去ろうとしますが、すぐに立ち止まりました。その場から動けなくなってしまったのです。
「ポポロを渡せ」
とセイロスが繰り返しました。その声は地の底から響いてくるようです。
イベンセは振り向きました。意思に反して体が勝手に動いていました。すんなりした腕を上げると、その指先から白いものがあふれ出します。白いものは床までこぼれ、ポポロになっていきます──。
ポポロが完全に姿を現し、イベンセの指先から白いつながりが離れると、イベンセは大きくよろめきました。セイロスの呪縛から解放されたのです。
「去れ」
セイロスの命令にイベンセは顔を怒りに歪め、黒い翼を広げて飛び立ちました。次の瞬間には広間から姿を消していきます──。
セイロスは玉座に座ったまま、後に残されたポポロを眺めました。
ポポロは髪をお下げに編んで長衣を着ていましたが、色がありませんでした。半ば透き通った幽霊のような姿です。
そんな彼女へセイロスは呼びかけました。
「こちらへ来い」
けれども、ポポロは反応しませんでした。黙って立っているだけです。
セイロスは先より少し強く繰り返しました。
「ここへ来るのだ、エリーテ」
すると。
人形のように無表情だったポポロが、突然嫌悪の表情に変わりました。激しく首を振り返します。
「嫌よ! あたし……あたしはエリーテなんかじゃないもの!」
とポポロは叫びました──。