フルートたちは不意を突かれました。
ハルマスが苦戦に陥っていると聞いて、襲撃を指揮しているのはイベンセだと思い込んでしまったのです。
ハルマスにいるはずのイベンセが彼らのところへ現れるとは、誰も予想していませんでした──。
空高く連れ去られたポポロとの間には見えない障壁がありました。犬たちも花鳥もそれ以上進めなくなっています。
フルートとゼンは障壁を攻撃しました。光炎の剣で切りつけ、光の矢を放つと、空の中で光が発生して、一瞬ですがその場所に黒い壁が浮かび上がります。驚くほど分厚い壁で、空のはるか上の方まで続いていました。光の武器の攻撃でほんの少し消滅しますが、全体にはとても及びません。
「ポポロ!」
「ポポロ──!」
メールとルルが必死で呼ぶ中、フルートはゼンにどなりました。
「攻撃を繰り返せ! 障壁を破るぞ!」
「おう!」
ゼンもどなるように応えて、フルートと一緒に障壁の同じ場所へ攻撃を続けます。
空の上ではポポロがイベンセを振りほどこうとしていました。彼女の背後に現れたイベンセは両腕で彼女を抱きかかえ、大きな翼を羽ばたかせて宙に浮いています。がっちりと抱いているので、ポポロからは二本のすんなりした腕と風にはためく黒いドレスの裾しか見えません。
「放して! 放して!!」
ポポロは懸命に身をよじっていました。以前イベンセに腕をつかまれたときには力を吸い取られましたが、今は力を吸い取ってきません。あたしを連れ去るつもりなんだ! と気がついて、ぞっとします。
彼女を連れ去ろうとする先にはセイロスがいます。
「私の元へ来い、エリーテ」
セイロスの声が聞こえた気がして、死にもの狂いでもがき続けます──。
すると、ポポロは急にくるりと反転させられました。イベンセが彼女の向きを変えたのです。イベンセに両肩をつかまれたまま、正面から向き合う格好になります。
改めて見るイベンセは、闇王だというのに、本当に妖艶な女性でした。プロポーションの良い体を赤と黒のドレスで包み、長い黒髪を風に揺らしています。大きく開いた襟元からは豊かな胸が、ドレスの裾のスリットからはなまめかしいくらい白い脚がのぞきます。頭の両脇にはねじれた二本の角が、背中には大きな黒い翼がありますが、それでも綺麗な人だとポポロは思いました。同性の彼女が見てもそう思える人物だったのです。
すると、イベンセが言いました。
「おまえはポポロだ。エリーテではない」
意外なことばにポポロは目を見張りました。イベンセの姿はしたたるような色っぽさなのに、話す口調は妙に男性的です。そのギャップにも驚きます。
イベンセは血の色の瞳でポポロの目をのぞき込んで続けました。
「だが、セイロスはおまえを欲している。おまえの中のエリーテを待っているのだ」
ポポロはどきりとしました。何かに心臓をつかまれてしまったように、ぎゅっと胸が痛くなります。
「あたしはエリーテなんかじゃないわ! あたしの中にもエリーテなんかいないもの!」
と言い返します。
空の上は妙に静かでした。障壁に囲まれて、周囲の音が届かなくなっているのです。けれども、ポポロの耳には仲間たちの声がずっと聞こえていました。
「ポポロ!」
「ポポロ!!」
「イベンセを振りほどけ、ポポロ!」
必死に彼女に呼びかけています。
魔法がもうひとつ残っていたら、とポポロは思いました。そうすれば、イベンセを吹き飛ばして脱出できます。イベンセは後を追ってくるかもしれません。でも、その一瞬さえ作れたら、きっとフルートたちが助けてくれるのです。ほんの一瞬、イベンセの手を振りほどくことができたら──。
けれども、彼女はもう今日の魔法を使い切っていました。三度目の魔法の奇跡が起きないかと、必死で念じてみますが、やっぱり魔法は発動しません。
そんな彼女を見て、ふ、とイベンセが笑いました。つややかな紅い唇の端から白い牙がのぞきます。
「手段もないのに抵抗を試みているのか。かわいい娘だ」
馬鹿にされたと感じて、ポポロは泣きそうになりました。魔法の暴走を止められない役立たず、と周囲からそしられた過去が、何故か急に脳裏に浮かびます。たちまち自信がなくなって、相手が怖くなってきます。
そう。相手は闇王なのです。美しいのは見た目だけのこと。先の闇王だった父を殺して新しい闇王に成り上がり、闇の国と兵士と怪物たちを支配している人物です。ポポロのような出来そこないに、かなうはずはないのです──。
すると、フルートの声がまた聞こえてきました。
「負けるな、ポポロ! 振り切って逃げるんだ!」
ポポロは、はっとしました。いつの間にかイベンセに心をつかまれそうになっていたのです。自分をのぞき込む血の瞳から目をそらし、イベンセの腕をつかんで引き外そうとします。
「残念、支配しそこねたか」
とイベンセはまた笑いました。ポポロが全力で抵抗しても、まったく気にする様子はありません。ポポロはイベンセの腕に爪を立てましたが、闇の民のような鋭い爪ではないので、効果はありませんでした。イベンセは力も男のように強くて、ポポロの力ではとても振り切れません。
このままじゃ連れ去られる、とポポロは焦りました。こんなとき、フルートはどうするかしら──ゼンは──メールは──。必死で仲間たちの顔を思い浮かべ、それまで彼女があまりやったことがなかった抵抗を試みました。イベンセにつかまれたまま、両脚を上げて相手を蹴飛ばしたのです。
それはイベンセにも少し意外な抵抗だったようでした。腹に蹴りを食らって一瞬後ろに下がり、その拍子に片手がポポロの肩から外れます。
ポポロは両手でイベンセのもう一本の腕をつかんで引きはがそうとしました。それでも外れないので、ポチやルルがするように、腕にかみついてやろうとします──。
とたんに、ぐっとポポロの体が上昇しました。イベンセが一本だけの腕で持ち上げたのです。ポポロの顔をもうひとつの手で捕まえて、彼女に向き直らせます。
顎を押さえられて、ポポロは顔が動かせなくなりました。もちろんかみつくこともできません。
泣きそうになりながらにらみつけるポポロに、イベンセはまた笑いました。
「必死だな。本当にかわいい娘だ。だからセイロスも執着するのだろう」
ポポロは首を振ろうとしました。セイロスなんて知らない! 大嫌い! と叫ぼうとしますが、顎をつかまれているので話すこともできません。
そのとき、足元が急に騒がしくなりました。フルートを乗せたポチ、ゼンを乗せたルル、メールを乗せた花鳥が、ポポロとイベンセに向かって急上昇してきたのです。間をさえぎっていた闇の障壁には大きな裂け目ができていました。フルートとゼンが攻撃を繰り返して、ついに突破したのです。
イベンセは少し呆れた顔になりました。
「連中の執念も相当なものだな。よほどおまえを奪われたくないらしい」
「ポポロ!」
「ポポロを返せ!」
勇者の一行が叫びながら上昇してきます。イベンセに向かって光の矢も飛んできます。
ふふん、とイベンセはまた妖艶に笑いました。
「いいだろう、おまえを返してやる。いただくものをいただいたらな」
ポポロの体が、ぐいとイベンセに引き寄せられました。ポポロは必死で押し返そうとしましたが、やはり力ではかないません。顎をつかまれているので、顔をそむけることもできません。イベンセの美しい顔が迫ります。
と、イベンセの口がポポロの口をふさぎました。紅い唇が薄紅色の唇と重なり合います──。
はぁ!? とフルートたちは思わず呆気にとられました。
彼らの頭上で、イベンセはポポロに口づけをしたのです。あまりに意外なことに、思わず空中で停止してしまいます。
すると、イベンセを押し返そうとしていたポポロの手が力をなくしました。抵抗しなくなった体をイベンセが抱いて、さらに深く唇を重ねます。
目を見張ったポポロの顔がみるみる青ざめ、さらに血の気を失って白くなっていったので、仲間たちは我に返りました。
「やっべぇ!」
「あいつ、ポポロの力を吸い取ってるよ!」
「なにするのよ! ポポロを放しなさい!」
彼らはまた突進を始めました。先頭を飛ぶのはフルートでした。剣を握ってまっしぐらに向かいます。イベンセをにらみつける顔は鬼のようです。
すると、イベンセはポポロから唇を離しました。顎をつかんでいた手も離したので、お下げ髪の頭がぐったり垂れ下がります。ポポロは意識を失っているようでした。イベンセの腕に力なく抱かれています。
そんなポポロをイベンセは空中に放り出しました。同時に周囲を包んでいた闇の障壁も消したので、ポポロは空から地上へ墜落していきました。小石のようにまっすぐ落ちて行きます。
「ポポロ!!」
フルートは即座にポチと向きを変えました。同じくUターンしたゼンたちやメールと一緒にポポロの後を追います。
それを見送って、イベンセは笑いました。紅い唇を桃色の舌でちろりとなめます。
「それでは行くとしよう。あの方の元へな」
そんなつぶやきを残して、イベンセは消えていきました。後には夕暮れが迫った空が広がります。
地上近くでは、フルートがようやくポポロに追いついて抱きとめていました──。