カルドラ国の港街セイマの、港から数えて八番目の通りに居酒屋がありました。「イリーヌ亭」という看板が風に揺れています。
まだ日が高かったので、店は開いていませんでした。黒っぽいドレスの中年の女性が、奥のカウンターにひとりで座っているだけです。彼女がこの店の主人のイリーヌでした。長いキセルで煙草をふかしては、煙が揺らめく様をぼんやり眺めています。
すると、ガタン、と急に入り口の扉が鳴ったので、彼女は跳ね起きました。
「あんた!?」
と期待を込めて振り向きますが、入り口には誰もいませんでした。扉も閉まったままです。
外では看板がばたばたと音をたてていました。海から吹く風が強い日だったのです。扉が鳴ったのも風のしわざのようでした。
イリーヌは溜息をついてまた椅子に座りました。ぷかりと一服してから、煙と一緒に愚痴を吐き出します。
「ほんとにあの人ったら、今頃どこでどうしているんだろ。あの坊やたちがロムド城に戻ったと聞いたとたん、手伝ってくるって言って出ていって、それきり手紙のひとつも寄こさないんだからさ……」
店の片隅には、彼女の夫の剣が立てかけてありました。不用心だからお守り代わりに置いていく、と残していったのです。
「あれを持っていきゃ良かったんだよ。使い慣れた剣だったんだからさ。どこかで調達するって言ったって、慣れた剣ほどいい武器なんてないはずなんだ。不用心なのはあんたのほうだよ」
と彼女はひとりごとを言い続けました。文句は心配な気持ちの表れです。
窓の外では風が唸り、看板を揺らし続けていました。
店の扉はもう二度と鳴りませんでした──。