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第28巻「闇の竜の戦い」

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123.地下室

 ディーラの屋敷の地下室で、ジュリアは幼い息子を抱いて、ついたての陰から出てきました。豊かな栗色の髪を綺麗に結い上げた、落ち着いた雰囲気の女性です。やってきた乳母に息子を渡して言います。

「アンディはお腹がいっぱいになったわ。おむつも替えたから、あとはお願いね」

 ジュリアは赤ん坊に乳を飲ませていたのです。乳母が心得て受け取ると、赤ん坊はすぐに眠ってしまいました。代わりに乳母のそばにいた小さな女の子がジュリアに駆け寄ってドレスにすがります。

「お母ちゃま、あの音はなぁに? ドーン、ドーンって……」

 大きなすみれ色の瞳が怯えています。

 ジュリアは小さな娘を抱き寄せて、優しく話しかけました。

「あれはね、お城の魔法使いたちが、敵を追い払うのに魔法を使っている音ですよ、ミーナ。私たちを守ってくださっている音なの」

 そのことばに安心した顔になったのは、娘のミーナだけではありませんでした。屋敷の地下室には城下町や都の周辺から避難してきた人々が大勢いて、屋敷の奥様が話していることに耳を傾けていたのです。ほとんどが粗末な格好をした町民や農民で、ジュリアと同じように幼い子どもを連れている母親も何人もいました。

 ジュリアはそんな母親たちに言いました。

「ここに避難して二時間になるわ。あなたたちも赤ちゃんにお乳をあげたかったら、あそこを使っていいわよ」

 上品で優しげな姿の割には、飾り気のないはっきりした物言いだったので、人々は目を丸くしました。先ほどから子どもがぐずっていた母親が、おそるおそる尋ねます。

「あの、奥様、本当に使ってよろしいんですか……?」

「ええ、どうぞ。おむつも置いてあるから好きに使いなさい」

 これには他の母親たちも喜びました。地下室の一角を仕切った授乳室へ、赤ん坊と一緒にいそいそと入っていきます。

 ジュリアは部屋の隅のベンチに娘と一緒に座りました。同じようなベンチは地下室の中にいくつもあって、老若男女が座っていました。ベンチではなく石の床に敷物を敷いて、その上に家族で座っている人々もいます。

 地下室の入り口には分厚い扉がありました。奥の壁際にはワインや食料の樽が並んでいます。地下なので窓はまったくありませんが、四隅の壁に掲げられたランプが部屋を照らしていました。

 ジュリアは娘を抱き寄せてまた話し出しました。

「あれも魔法の道具ですよ。灯り石という魔法の石で作ったランプを、北の峰のドワーフたちがお父様にプレゼントしてくださったから、お父様がここにおつけになったの。明るいし空気も悪くならないから、助かるわね」

 話がだいぶ理解できるようになっていたミーナは、灯り石のランプをしげしげと見ました。ランプは優しい光と一緒に大きな安心も地下室に放っているようでした。

 

 すると、急にランプの灯りが大きく揺れました。同時に、ずずん、と地響きを伴った重い音がします。

 人々はいっせいにはっとして、天井を振り仰ぎました。音は上のほうから聞こえたのです。ミーナもまた母親のドレスにしがみついてしまいます。地響きはやみましたが、どん、どんという魔法攻撃の音は頭上で続いていました。気のせいか、先ほどより大きくなっている気がします。

 そこへ、入り口から屋敷の下男が飛び込んできました。階段を駆け下りてきたのです。息せき切って背中で扉を押し閉めると、中の人々へ言います。

「巨大な獣がお庭に降りてきました! 背中に敵の兵士が何人も乗っていて、屋敷に入り込もうとしています! ここが見つかるかもしれません!」

 人々は真っ青になりました。逃げようと思っても、ここは地下室です。他に行ける場所はありません。

 ついたての陰の授乳室から、母親たちが子どもを抱いて飛び出してきました。ただならない雰囲気に赤ん坊たちが激しく泣き出します。

 地下室の中はパニックになりました。

「赤ん坊を黙らせろ!」

「敵に気づかれるぞ!」

 血相を変えてどなる大人たちに、小さな子どもたちが怯えて、こちらも泣き出してしまいます。

「泣くな!」

「泣いたら敵に殺されるぞ! 黙れ!」

 大人たちに脅されて子どもたちは頭を抱えてうずくまりました。必死で泣くのをこらえようとしますが、恐怖のほうが勝ってしまいます。

 ミーナも母のドレスにしがみついて泣きじゃくります。

「お母ちゃま、こわい、こわい……!」

 とうとう息子のアンディまでが目を覚まして大泣きを始めてしまいました。乳母がいくらなだめても泣きやみません。

 子どもたちの泣き声と大人の怒声が響き渡る地下室で、ジュリアは立ちすくんでしまいました。この部屋には五十人あまりが避難しています。いくら彼女が気丈でも、これだけの人数を一度に落ち着かせることはできません。

 とうとう乳母までが金切り声を上げました。

「やっぱりあのとき実家にお戻りになるべきだったんですよ! それなのに、お嬢様が都に残るなんておっしゃるから! あそこなら東の国境に近いから、敵もやってこなかったでしょうに……!」

 乳母がお嬢様と呼んでいるのは、ミーナではなくジュリアのことでした。ジュリアの乳母でもあった彼女は、ミーナが生まれたときにディーラの屋敷に呼び寄せられていたのです。

「やめてちょうだい、ばあや。私がいなかったら、屋敷に避難者を受け入れられなかったのよ」

 とジュリアは言いましたが、その声は赤ん坊の泣き声にかき消されてしまいました。地下室はものすごい騒ぎです。

 すると、扉に耳を押し当てていた下男がまたどなりました。

「敵が来ます!」

 鎧兜がぶつかり合うガチャガチャという音が、階段を降りてこちらに近づいていたのです。

 人々は口をつぐみました。いっせいに地下室の奥へ下がりますが、樽が並んだ向こうは石の壁なので、それ以上逃げることができませんでした。子どもたちは母親や父親に強く抱きしめられましたが、赤ん坊だけは泣き続けていました。ガチャガチャガチャ。重い鎧の音が迫ってきます──。

 

「よし、ここだ!」

 飛象に乗ってやってきたルボラス軍の傭兵は、地下へ通じる階段の奥に扉を見つけて声を上げました。浅黒い肌にひげ面の七、八人の男たちです。扉の奥から複数の赤ん坊の声が聞こえるのを確かめて言い合います。

「やっぱりこの中にいるな」

「鍵を下ろしてやがる。破るぞ」

 ひとりが分厚い扉を幾度も蹴飛ばすと、鍵が壊れて扉が勢いよく開きました。傭兵たちが武器を手になだれ込んでいきます──。

「ありゃ?」

 傭兵たちは目を丸くしました。

 入り口の先にあったのは灯りに照らされた地下室でした。ベンチや床にはたった今まで大勢がいた痕が残っていますが、人の姿がまったくなかったのです。

「そんなわけはない!」

「どこかに隠れているぞ、探せ!」

 そこで彼らは部屋を隅々まで探し回りました。壁際に並ぶワイン樽の陰やジャガイモが入った樽の中をのぞいたり、隠し通路や隠し部屋があるのでは、と壁や床をたたいて確かめたりしましたが、どこにも人はいませんでした。地下室はもぬけの殻です。

「そんな馬鹿な……」

「そうだ。たった今まで赤ん坊の声が聞こえていたんだぞ。逃げる暇なんてなかったはずだ」

 傭兵たちがなんとなく薄気味悪くなっていると、ふいにまた赤ん坊の声が聞こえてきました。

 ホギャァホギャァ……。

 ホギャァ、ホギャァ、ホギャァ。

 オンギャア、オンギャア。

 ひとつの泣き声にたちまちいくつもの泣き声が重なりますが、赤ん坊はどこにも見当たりません。傭兵たちは必死であたりを見回しました。

「どこだ!? どこから聞こえてくる!?」

 けれども声の出どころはつかめませんでした。泣き声が反響して、部屋全体から泣き声が聞こえてくるようです。

「まさか幽霊……?」

 とひとりが口走ったので、全員がぎくりとしました。いっそう身構えて周りを見ます。

 すると、別のひとりがいきなり剣を振り回し始めました。

「隠れてないで出てこい! 幽霊だろうがなんだろうが、俺がたたき切ってやる!」

「馬鹿よせ!」

「こんな狭い場所で振り回すな!」

 仲間たちは剣が当たりそうになってあわてました。三人がかりで取り押さえますが、それでも男が暴れたので、肘が仲間の兜に当たりました。剣が手からすっぽ抜けて石の床に落ちます。

 すると、彼らの目の前で剣が消えていきました。石の床に吸い込まれるように見えなくなっていったのです。

 彼らはあわてました。

「俺の剣を返せ!」

 と床を殴りつけますが、床はびくともしません。

「ここに隠し部屋があるんだ!」

「こじ開けろ!」

 彼らは剣の柄や地下室にあった木材などで苦労しながら床から敷石をはがしました。重たい石の板をどかします。

 が、彼らの予想に反して、そこに隠し部屋などはありませんでした。あったのは堅く締まった土の層です。そこに消えていったはずの剣も見当たりません……。

 ホンギャァ、ホンギャァ、ホンギャァ。

 少しの間静かになっていた赤ん坊の声が、また響き出しました。

 男たちは青ざめた顔を見合わせました。泣き声は確かに土の中から聞こえていたのです。

 彼らの故郷のルボラスには、死んだ母親と一緒に埋められた赤ん坊が墓の下で泣く、という怪談がありました。全員がそれを思い出して、思わず後ずさります。

 やがて、ひとりが回れ右をすると、ものも言わずに地下室から飛び出していきました。それをきっかけにして他の傭兵たちもいっせいに逃げだします。後を追ってくる赤ん坊の幽霊に捕まらないように、階段を駆け上がり、逃げて逃げて、屋敷から飛び出していきます──。

 

「よぉし、全員が出ていったな」

 誰もいなくなったはずの地下室に甲高い声が響いて、敷石をはがした土の中から右手が出てきました。子どものように小さいのですが、骨張ってしわの寄った老人の手です。地面をつかむように押さえると、よっこらしょ、と手の続きが出てきます。子どもよりもっと小さな体に長い灰色のひげ、金属のように光る緑の服を着たノームの老人──鍛冶屋の長のピランです。

 彼は左腕をまだ土の中に残したままでした。

「もういいぞ。みんな出てこい」

 と言いながら、左腕も地中からぐいと引き抜くと、その先からジュリアとジュリアに抱かれたミーナ、さらに赤ん坊のアンディを抱えた乳母までが出てきました。畑の中から人参でも抜くように地中から地下室に引っ張り出します。

 ジュリアたちは床に座り込みました。地中から出てきたのに、服は少しも土に汚れていません。

 ミーナが母親に尋ねました。

「お母ちゃま、急に暗くなってまた明るくなったわ。夜が来てまた朝になったの?」

 アンディも、暗い地中から明るい場所に戻ってきて安心したのか、乳母の腕の中で眠り始めました。もう泣いていません。

 地下室にはピランの弟子のノームたちが次々床から姿を現していました。師匠と同じように、手には人々をつかんでいて、無造作に地中から引き上げていきます。全員がノームたちによって地中に避難させられていたのです。地面の中などという思いがけない場所に連れていかれて、誰もが呆然と座り込んでいます。

「助けてくださってありがとうございます、ピラン様。あの……」

 ジュリアがとまどいながら感謝をすると、ノームの老人は、かっかっかっと笑いました。

「敵の連中がディーラに侵入したからな。ゴーラントス卿は留守だし、あんたが難儀しているんじゃないかと思って、弟子たちと地面を通って駆けつけてきたんだ。危機一髪だったな」

 ピランはエスタ国王付の鍛冶屋の長ですが、ゴーリスとは顔見知りの仲でした。ジュリアとも黄泉の門の戦いのときに一緒に戦っています。ゴーリスがディーラを離れているというので、心配して様子を見に来てくれたのでした。

「皆を救ってくださって、本当にありがとうございます、ピラン様」

 とジュリアは立ち上がってお辞儀をしました。ミーナもそれにならって、小さな手でドレスをつまんでお辞儀をしてみせます。

 ノームの老人は目を細めて喜びました。

「おうおう、本当にかわいい。そっちには生まれたばかりの跡継ぎがいるし、ゴーラントス卿もさぞ心配しながらこちらに向かっているだろう。この後も身の安全を図って、元気な姿を見せてやらんとな」

 さて、そのためには……とピランが考え始めたところに、いきなり大きな音が響き渡りました。

 ガシャーーン

 まるでどこかに巨大な錠を下ろしたような音です。

 同時に、敵の傭兵が開けっぱなしで行った扉がひとりでに動いて勢いよく閉まります。

 ほう、とピランは感心しました。

「なるほど、そう来たか。これなら簡単には侵入できんな」

 と満足そうにうなずきます。

 なにがどう「なるほど」なのかわからなくて、ジュリアたちはノームの老人を見つめてしまいました──。

2022年5月19日
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