「角笛の音がやみました」
リーンズ宰相が外の変化に気がついて言いました。
城壁や街壁でひっきりなしに吹き鳴らされていた角笛が止まると、急にあたりが静かになったような気がします。
「城下の避難が終了したのだろう。角笛隊も敵が接近すれば標的にされるからな。いつまでも吹いているのは危険だ」
とロムド王は答えました。いつものように執務室の机に向かって座り、積み上げられた書類に目を通しています。その姿だけを見れば、いつもとまったく変わりがないのですが、今、王都ディーラはサータマンやルボラスの連合軍に包囲されて、激しい戦闘の最中でした。耳を澄ませば、静かに思えた気配の中にたくさんの攻撃や魔法の音が聞こえます。
そこへひとりの兵士が入ってきて、リーンズ宰相に何やら知らせてから、すぐにまた部屋を出て行きました。
宰相は王に言いました。
「城下の住人は皆、避難所になっている貴族の屋敷や城の地下室に避難を終えたそうです。陛下のご推察どおりです」
「そうか」
とロムド王は言いました。目は相変わらず書類を眺めています。
部屋の中が沈黙になると、外からの音がさらにはっきり聞こえるようになりました。何かがぶつかるような衝撃音、攻撃魔法が空を切り裂いて敵へ飛ぶ音、兵士と兵士が鬨(とき)を上げながら激突する音も伝わってきます。
宰相は落ち着かない様子になって、部屋の隅に控える魔法使いを見ました。王の警護についている魔法軍団のひとりで、枯葉色の長衣を着た男性です。
彼は同時に戦況を伝える役目も担っていましたが、宰相と目が合うと黙って首を振り返しました。魔法使いたちは敵の妨害で千里眼が使えなくなっています。唯一、深緑の魔法使いだけが全体の戦況を見られるのですが、そちらから知らせが入らなければ、枯葉色の魔法使いも何も伝えられないのでした。
宰相は部屋の中央に浮いている白い球体を見上げました。遠見の石ですが、こちらもまったく作動しなくなっていました。ハルマスにいるユギルが片割れを持っているのですが、昨夜から声も聞こえなければ映像も映し出さなくなっていたのです。これも敵の妨害に違いありませんでした。
宰相は思わずつぶやきました。
「無事に脱出されたでしょうか」
誰が、とは言わなかったのですが、ロムド王はすぐに答えました。
「もちろんだ。トウガリのすることに間違いはない」
やはり書類から目は離しません。
宰相はそんな主君を眺めました。大国の王らしく落ち着き払っているように見えますが、宰相の目には、王があきらめてしまっているように映っていました。悟ってしまっている、と言っても良いかもしれません。ユギルが占いで告げてきた運命を受け入れて、そのときが来るのを静かに待っている──そんなふうに見えるのです。
もっと運命にあらがってほしい、と宰相は思っていましたが、彼がいくら言っても王が取り合わないことも、長年の付き合いからわかってしまっていました。どんなに説得して、生き延びるために努力してほしいと訴えても、「落ち着け、リーンズ」と逆に諭されて終わりにされてしまうのです。
宰相は密かに溜息をつきます──。
そこへまた扉をたたいて誰かがやってきました。
扉の外には衛兵が立っていて、怪しい人物は絶対に近づけないようになっています。
入りなさい、と宰相が答えると、扉が開いて二人の人物が現れました。手前のひとりがえんじ色のドレスををつまんでお辞儀をします。
宰相と王は驚きました。
「メノア! トウガリ! 何故そなたたちがここにいるのだ!?」
とロムド王が尋ねます。
メノア王妃はドレスの裾を揺らしながら執務室に入ってきました。その後ろで今度はトウガリが深々と道化のお辞儀をします。
「これはこれは、さすがはわたくしめたちが敬慕してやまない偉大なる国王陛下。ディーラがこのような状況にあっても少しもあわてずいつものように堂々とされているお姿は、不安に打ちのめされ右往左往するわたくしめたちにまこと安心をお与えくださいます──」
とうとうと口上を述べながらトウガリも執務室に入ってくると、後ろで扉が閉まりました。とたんに部屋がまた静かになります。トウガリが口上をやめたのです。代わりに彼は床に片膝をつき、王へ頭を下げて言いました。
「お許しください、陛下。メノア様のご希望に逆らうことができませんでした」
王は非難するように道化を見ました。王妃が承知しなかったら、さらって逃げろと言ったではないか──そう考えているのですが、口に出すことはできませんでした。当のメノア王妃がここにいます。
すると、王妃が王へ言いました。
「トウガリをお責めにならないでくださいませ、陛下。私がロムド城に残りたいと言い張ったのです。陛下の頼みであれば、兄上は必ずすぐに援軍を送ってくださいますわ。ザカラス城へ救援を求めるお役目は他の者へお願いいたします──」
そういう話で王妃を城外へ逃がそうとしたのか、とリーンズ宰相はトウガリを見ました。王妃が受け入れそうな理由でしたが、それでも王妃は承知しなかったのです。
「メノア様は陛下のおそばにいることをお選びになりました。どうかメノア様のご希望をお聞き届けください」
とトウガリも王へ言います。
そんな様子をキースは通路の物陰から見ていました。執務室の中を透視していたのです。
「馬鹿だなぁ、君は……」
と思わずつぶやいてしまいます。
君とメノア王妃を安全なところまで逃がしてやるよ、と先ほど彼が言ったとき、トウガリはしばらく悩んでからこう言ったのです。
「メノア様を起こしてさしあげてくれ。城に危険が迫っているから陛下がメノア様を逃がそうとしていることを、メノア様に教える。それが陛下のご希望であることもな。そのうえでメノア様にどうしたいかお伺いしてみる」
「それでも王妃様が城に残ると答えたら? これは陛下が君にくださったチャンスなんだぞ。それに、さっき見ていた様子から察するに、王妃様だって君のことは憎からず思ってるようじゃないか。それなら迷うことなく王妃様を連れて逃げるべきだろう」
彼が熱心に勧めると、トウガリは微笑するような顔になりました。
「そうか、傍目にもそんなふうに見えたのか。それなら俺は本望だな」
「本望?」
「ああ、本望だ。かなうわけもない願いだとずっと思っていたのに、ひょっとしたら、いつの間にかかなっていたのかもしれないんだからな──。だが、俺の一番の願いはメノア様に笑顔でいていただくことだ。メノア様のご希望に従わないで、それが実現するはずはないんだよ」
そこで、彼はメノア王妃にかけた眠りの魔法を解きました。
トウガリはロムド王が王妃に危険が及ぶことを恐れていること、だからこそ城から離れてほしがっていることを伝えました。ロムド王自身が、自分は死ぬかもしれないと考えていることも教えます。
王妃は驚きながら話を聞いていましたが、すっかり聞き終えると、静かに言いました。
「ありがとう、トウガリ。よく話してくれました。陛下のお気持ちはよくわかりましたが、私はやっぱり城に残ります。私はロムド国王妃です。陛下がこの戦いで命を落とされるかもしれないというならば、最後まで添い遂げるのが妃としての私の務めです。私を陛下の元へ連れていってください」
普段は誰に対してもほんわりと優しく穏やかに接する王妃が、このときは意外なほどきっぱりとした顔をしていました。
そんな王妃へトウガリはひざまずき、頭を下げて承知したのです──。
「本当に馬鹿だな、君は」
とキースはまたつぶやいてしまいました。
今もトウガリはロムド王に対して片膝をつき、頭を下げていました。見た目は奇抜な道化でも、その姿はまるで王に忠誠を誓う騎士のように見えます……。
メノア王妃は王の足元まで行くと、床の上にドレスを広げて座り込み、王を見上げてほほえみました。天使の笑顔と人々に呼ばれる笑みが、ふわりと優しく広がります。
「陛下。陛下は今、勇者殿たちやオリバン殿下たちに戦場を頼んで、おひとりでロムド国の命運を背負っておいでです。それはきっと、とても孤独で重い戦いでございましょう。妃の私も陛下の重荷を代わりに背負って差し上げることはできません。ですが、私がおそばにいることで、ほんの少しでも陛下のお心が和むようならば、私はずっと陛下のおそばにいようと思います。どうか、おそばに置いてくださいませ。陛下のお心を少しでも穏やかにできれば、私は本当に幸せです」
王妃のことばは穏やかですが力がありました。人を偽ることをしない人が、心の底からそう思って伝えることが生む力です。
ロムド王は思わず立ち上がり、かがんで王妃の手を取りました。こちらも真剣に言います。
「王妃よ、あなたはまだ若い。わしはこの戦いで死んでももう惜しくはない歳だが、あなたはそうではない。あなたはこの先もずっと生きて幸せにならなくてはいけないのだ」
すると、王妃はまたにっこりと笑いました。
「私はこの国に嫁いできて、陛下のおそばにいられて、ずっと幸せでした。今も陛下のおそばにいられて幸せです。どうぞ最後までおそばに置いてくださいませ」
そんな王妃のことばをトウガリはひざまずいたまま聞いていました。彼はメノア王妃の道化でした。王妃の笑顔と幸せを守ることが、彼の生涯の務めなのです──。
「あなたは……」
とロムド王は言って、それきりことばが続かなくなりました。王妃を抱き寄せると、溜息をひとつついてから言います。
「わかった。そばにいるがいい。その代わり、身辺警護の者たちから離れてはならない。リーンズ、この部屋の警護を増やせ」
「承知いたしました!」
と宰相は思わず声を弾ませました。これまでずっとあきらめを漂わせていた王が、王妃が来たことで、急に運命に逆らい始めたように見えたのです。枯葉の魔法使いに魔法軍団の増員を頼んでから、外の通路にいる衛兵にも増強を命じようとします。
すると、そこに立っていたキースが執務室に入ってきました。
「ぼくも陛下たちをお守りしますよ。少しはお役に立てるでしょう」
「それはありがたい。ぜひお願いします」
と宰相は心から喜びました。
キースがやってきたので、トウガリは立ち上がって、そっと言いました。
「つきあわせて、すまんな」
「いいさ。ぼくたちだって陛下にこれまで本当に助けていただいているからね。それに、友だちに死なれるのも絶対にごめんなんだ」
トウガリは肩をすくめると、こっそりと王と王妃のほうを見ました。王妃の笑顔につられて王が笑顔になっているのを見て、自分も思わずほほえんでしまいます。
「馬鹿だな」
とキースはまた言って、苦笑いしてしまいました──。