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第28巻「闇の竜の戦い」

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106.憤慨

 どこまでも広がる薄暗い空間の中で、イベンセはようやく探していた相手を見つけました。赤いドレスをひるがえして空から舞い降りますが、そこは地上と呼べるような場所ではありませんでした。のっぺりとした灰色の平面が床のように広がっています。

 そこに黒い椅子を置いて、黒い服を着た男が座っていました。豪奢な椅子ですが現実のものではありません。男もイベンセ自身も生身の体ではありませんでした。現実の世界の裏側にある、この世とは異なる場所なのです。

 彼女は椅子の前に立って男に言いました。

「何故私の兵に手を出した!? 私の兵をどこへやった!?」

 怒りをあらわにしてにらみつけますが、男は顔色ひとつ変えませんでした。逆に冷ややかに言い渡します。

「誰に向かってそんな口をきいている、闇王。私はおまえの主だぞ」

 もちろん、その男はセイロスでした。冷静な声の中に圧倒的な力があります。

 イベンセは思わず青ざめて身震いしました。押し寄せてくる威圧に、体が意思に関係なく膝をついて、セイロスへ頭を垂れてしまいます。

 彼女は屈辱感に歯ぎしりしながら、必死に抵抗しようとしました。

「何故……私の兵を奪われたのですか、我が君!? あと少しで敵の砦を陥落させられましたのに……!」

 その気はないのに、ことばづかいも敬語になってしまいます。

 けれども、セイロスの口調は冷ややかなままでした。

「誤解をするな。あれは私の兵だ。私が自分の兵をどう使おうと、おまえの知ることではない」

 イベンセは、かっと血の色の瞳を燃え上がらせました。顔を上げて反論しようとします。

 あれは私の兵だ──!!

 とたんに相手が放つものに圧倒されて息ができなくなりました。反論はことばになりません。またうつむいてしまうと、やっと息ができるようになりました。闇のものである彼女は、闇の権化のセイロスに逆らうことはできないのです。

 

 彼女は息を整え、顔は床に向けたままで言いました。

「あなたが兵を取り上げたので、兵は残りわずかです。最後に残っていた将軍も、あなたが奪い去りました。これではあなたの命令を遂行できません。一部で良いので兵をお返しください」

 兵士がいなくては戦えないのは、人間も闇の民も同じでした。ハルマスの砦を陥落させろと命じたのはセイロスだったので、兵力を返せ、と彼に迫ります。

 ところが、セイロスはそっけなく言いました。

「それはできん」

 彼女はうつむいたまま目を見開きました。セイロスのことばに、不可能だ、というニュアンスを聞き取ったのです。自分の軍勢がすでにこの世に存在していないことを悟ります。

 絶句している彼女に、セイロスは冷ややかに言い続けました。

「兵はおまえの国から補充しろ。二日以内にハルマスの砦を包囲するのだ」

 あまりに理不尽で無理な命令でしたが、本人はそうとは思っていないようでした。当然のことを言っただけという声に、イベンセはまた身震いしました。怒りで爆発しそうですが、顔を上げることができませんでした。セイロスはあまりにも圧倒的です。

「行け」

 セイロスの命令が彼女を吹き飛ばしました。椅子に座った彼が灰色の床と共に遠ざかっていきます。

 彼女は黒い翼を広げて停まろうとしましたが、できませんでした。何もない空虚な世界を飛ばされて、やがて世界の果てから現実の世界に戻ってきます──。

 

 こちらの世界では、イベンセは荒野にいました。

 丘の上で我に返って周囲を見回します。

 低い丘の麓(ふもと)には、部下の兵士たちがうずくまっていました。その数わずか数十名です。それが彼女に残された兵力でした。

 彼女は握った拳を震わせました。怒りに翼の羽根が逆立ち、稲妻が表面を走って空へ放電します。

 それを見て兵士たちはいっそう寄り集まりました。闇王の逆鱗に触れないように小さくなっています。

 彼女は歯ぎしりしました。

「よくも──よくも、よくも──!」

 セイロスの前では口に出せなかった呪詛(じゅそ)が飛び出します。

 すると、目の前にいきなり幽霊が現れて、空中をぐるぐる飛び回り始めました。

「ああもぉ、ああもぉ、ああもぉさぁ──!!」

 イベンセに負けないくらい怒った声でわめくと、彼女にぐいと顔を突きつけて言います。

「どぉしてボクの魔獣をもってっちゃったのさぁ、闇王サマ!? せぇっかく天空の国の魔法使いたちを足止めしてたのに! なんにも言わずに一匹残らず連れてっちゃうなんて、ひどすぎると思わないぃぃ!?」

 イベンセは苦い顔になって幽霊を見ました。

「おまえもか、ランジュール。それは私のしたことではない」

「闇王サマがやったんじゃないぃ!? じゃあ誰が──って、わかった! まぁたセイロスくんのしわざだぁ!!」

 ランジュールは金切り声を上げると、透き通った手で髪をかきむしり、空中で地団駄を踏みました。

「どぉしてこうなのかなぁ、あのおじいちゃんは!? ボクのモノを勝手にとっていって、どんどんダメにしちゃうんだからぁ! 味方のモノは全部自分のモノだと思ってるのかしら!? ボクはもうセイロスくんの味方でもないのにぃぃ!!」

 イベンセは渋い顔のままそれに答えました。

「私も兵の大部分を奴に奪われた。大がかりな魔法の生贄(いけにえ)にされたらしい」

「生贄!? じゃぁボクの魔獣たちもそれに使われたのぉ!? セイロスくんめぇ!! 今度っていう今度は、ボクも堪忍袋の緒が切れたよぉぉ!!!」

 本当に自分の体を腹から真っ二つにして、上半身と下半身で空中を跳ね回るランジュールに、イベンセは苦々しく言い続けました。

「奴の内にいる竜は闇の権化だ。世にあるすべてのものは自分のものだと考えているし、その奥に常に破壊の衝動を抱えている。闇の竜は破滅そのものの存在だからだ。だから、同じ闇に属する我々のことも破滅へ向かわせようとする」

 ランジュールはぴたりと宙で立ち止まると、またひとつの体になって戻ってきました。

「セイロスくんは闇の民も破滅させようとしてるわけぇ? それなのに、どぉして協力してるのさぁ?」

「奴が闇の竜だからだ。闇の眷属(けんぞく)の我々は逆らうことができない」

 苦い声の中に強い怒りが混じります。

 ふぅん? とランジュールは細い目を光らせました。

「そぉいえば、歴代の闇王サマがフノラスドを育ててたのって、闇の竜に対抗するためだったよねぇ? 闇の竜が復活したら闇の国を支配されるから、闇の竜のそっくりさんを育てて、本家を追っ払おうとしてさぁ。クンバカルナもフノラスドの代わりに育ててたって、前に言ってなかったっけぇ? それなのに今はもぉセイロスくんに逆らえないって思ってるんだぁ──?」

 伺うように聞き返してくるランジュールに、イベンセは顔を歪めました。美しい顔にぞっとするような凶悪さをのぞかせて言います。

「闇の国は私の王国だ。誰にも破壊はさせん。それが闇の竜であってもだ」

「へへぇ、どぉするのかなぁ? ボクもセイロスくんには、とっことん愛想が尽きたんだけどさぁ。ボクにも一枚かませてもらえるかしらん?」

 ランジュールも細い目のとぼけた顔に、ひやりとする残酷さをのぞかせました。どこか似たもの同士の二人です。

 

 イベンセは少し凶悪さを引っ込め、考える顔になりました。

「確かに奴は絶対な力を持っている。力で考えれば奴にかなうはずはないが、我々のほうが勝っていることもある」

「へぇ? それってなぁにぃ?」

「他人と協力することだ──。闇の民は基本的に個人主義だが、自分の目的を達成するためなら、同じ目的の他人と協力することができる。だが、純粋な闇である闇の竜には、そもそもそれができない。勝機はそこだ」

「ふぅん、いいねぇ。それって、セイロスくんを出し抜くのにボクの力も借りたいってコトだよねぇ? 喜んで協力しちゃうよぉ。相応の見返りがあればね。うふふふ……」

 女のように笑う幽霊に、美しい闇王は言いました。

「金の石の勇者とロムドの皇太子の魂はおまえに与えると約束した。それ以外におまえが望むものといえば、強力な怪物だろう。セイロスに奪われたとしても、私には闇から新たな怪物を生み出すことができるからな」

「うんうん、いいね、いいねぇ。セイロスくんをぎゃふんと言わせるついでに、強力な魔獣がもらえるんだから文句なし。それでいこぉか。で、手始めはぁ? 何からすればいいのかなぁ?」

「手始めは敵の砦の包囲だ。奴に命じられたからな」

 えぇ? とたちまち疑わしい顔になったランジュールに、彼女は艶やかに笑って見せました。

「私は奴から私の国を守ると言ったぞ、ランジュール。おまえの協力が必要なのだ。一緒に来い」

「うふふ、何か企んでるねぇ、闇王サマ? いいよ、一緒に行ってあげるよぉ。どんな作戦なのか楽しみだなぁ」

 行くぞ、とイベンセは改めて声を張り上げました。丘の麓の部下たちにも命じたのです。ぼろぼろになった闇の兵士たちが立ち上がってきます。

 彼女がさっと手を振ると、全員の姿が消えました。イベンセは元より、ランジュールも闇の兵士も荒野からいなくなってしまいます。

 空っぽになった荒野を乾いた風が駆け抜けていきました──。

2022年3月22日
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