ハルマスの上空で隕石が爆発したのを見て、トーマ王子はザカラス軍と共に引き返していました。
全速力で馬を走らせて、ようやく行く手にハルマスの砦が見えてきます。
砦の同盟軍は北や東の防壁の近くで激しく戦っていましたが、トーマ王子たちが近づく西側では戦闘は起きていませんでした。砦が出発のときと変わらなく見えて、ニーグルド伯爵が言いました。
「ご覧ください、殿下。ハルマスは無事です。心配ありませんでしたよ」
だから早く西の防御に戻りましょう、と暗に伝えますが、トーマ王子は首を振りました。
「何もなかったはずはない! 現に隕石が爆発したんだからな! 何があったのか確かめるんだ!」
「それなら俺がやってやる」
とシン・ウェイが呪符を投げると、それは一羽の鳥になって飛んでいきました。鳥の目に映るものを見るために、青年が目を閉じます。
とたんに彼は眉をひそめました。いぶかしそうに話し出します。
「砦の守備が強化されているぞ。青い光の障壁だ。ロムドの魔法使いや妖怪のしわざじゃなさそうだが……」
「魔法で防壁が強化されているんだな!? だとしたら、やっぱり敵の襲撃だ!」
とトーマ王子はどなるように言って、鎧の胸当ての下に手を突っ込みました。そこに術師のラクからもらった呪符の束がしまってあったのです。役に立ちそうな呪符はないかと探し始めます。
その間もシン・ウェイの鳥は飛び続けて、ついにハルマスの上空に近づきました。とたんに彼も大声になります。
「砦が闇の敵に襲われているぞ! 北の防壁の外で──いや、中でも乱戦になってる! 砦の中を闇の兵士が飛び回っているんだ!」
「メーレーン姫!!」
トーマ王子は叫ぶと一枚の呪符を引き抜いて読み上げました。とたんに王子の姿が馬の上から消えてしまいます。
「殿下!? どこにいらっしゃるのですか、殿下!?」
あわてふためくニーグルド伯爵の隣で、シン・ウェイは頭を抱えました。
「今のは場所移動の術だ……ラク殿、俺も使ったことがないような呪符を王子にやらんでくれ」
「場所移動!? 殿下はどちらに行かれたのだ!?」
と伯爵は詰め寄りました。
「そんなもん、決まり切っているだろう! 王子はメーレーン姫を助けに飛んでいったんだよ!」
シン・ウェイはどなり返して馬に鞭を入れました。ハルマスへ全速力で駆け出します。
ザカラス軍がその後に続きました。トーマ王子やシン・ウェイたちが大声でやりとりしていたので、何が起きたのか理解していたのです。彼らの王子を守るため、ハルマスへひた走ります。
ハルマスまでは、まだ馬で半時間ほどの距離がありました──。
一方、トーマ王子は狙いの通り、ハルマスの作戦本部の前に現れていました。高度な術にぶっつけで成功したのですが、それを喜ぶ余裕もなく本部の中へ飛び込みます。メーレーン姫の部屋は本部の二階にありました。そこにいてくれ、と祈りながら階段を駆け上がります。
すると、階段の下からワンワンワン、と激しくほえる犬の声が聞こえてきました。複数の女性の悲鳴も響きます。
「ルーピー!?」
王子は即座に階段を引き返しました。犬のルーピーのそばにはメーレーン姫がいるはずだったからです。争うような物音も聞こえてきます。
一階に戻って騒ぎのほうへ走ると、いきなり血まみれの場面に出くわしました。本部の通路で衛兵が闇の敵と戦っていたのです。トアひとりに対して、衛兵は三人いましたが、そのうちの二人が血を流して倒れていました。王子が見ている前で最後の衛兵もトアに切り裂かれて倒れます。
また女性たちの大きな悲鳴が上がりました。行き止まりになった通路の奥に数人の侍女がいたのです。彼女たちがしがみつくように守っているのはメーレーン姫でした。女性たちの前で白黒ぶちのルーピーが敵に激しくほえています。
作戦本部に侵入したトアは、翼で飛ばずに通路に自分の脚で立っていました。砦内の地面には聖なる守備魔法がかけられていて降りられませんが、建物の中なら平気だったのです。倒れた衛兵を踏み越えて女性たちへ近づいていきます。
「へへへ、いいな。人間の女を殺すのは初めてだ。人間の女のはらわたもピンク色か確かめてやる」
そんなひとりごとに女性たちがまた悲鳴を上げます。
メーレーン姫だけは目の前で起きていることがまだよく理解できないのか、大きな灰色の目を見張って立ちつくしていました。どちらにしても、侍女たちがしがみつくように抱きついているので、身動きすることもできなかったのです。
すると、唸っていたルーピーがトアに飛びかかりました。牙をむいてかみつこうとします。
が、トアはぶち犬をはね飛ばしました。ばっと赤い血が飛び散ります。トアは手にかぎ爪に似た鋭い武器を持っていたのです。
「ルーピー!」
メーレーン王女は犬に駆け寄ろうとしましたが、侍女たちがそれをさせませんでした。トアが迫ってきます。
すると、侍女の中から小柄なひとりが飛び出してきました。縮れた長い髪につややかな黒い肌──アマニです。他の侍女たちが怯える中、彼女だけはトアの前に立ちはだかってどなりました。
「うちのお姫様に近づくんじゃないよ、この悪魔! さっさとあっちに行きな!」
アマニは手にナイフを握っていました。トアが彼女へかぎ爪を振り下ろすと、ナイフで受け止めて払います。
とたんにかぎ爪の爪の部分がじゅぅっと音を立てて溶けていきました。アマニのナイフは聖なる武器だったのです。
トアは意外そうに爪を眺めると、ふん、と鼻で笑いました。
「そんな程度で俺と戦うつもりか。そら、これでも食らえ!」
トアは手に残っていたかぎ爪を外して投げました。アマニがナイフで払うと、かぎ爪は溶けましたが、そこへトアが隠し持っていた金属の輪を投げました。アマニの頭を横から直撃します。
アマニが倒れたので侍女たちはまた悲鳴を上げました。メーレーンもさすがに声を上げます。
トアは笑いながらアマニに近づきました。
「どれ、黒い女のはらわたは黒いかどうか確かめてやる」
その右手にいつの間にか新しいかぎ爪が現れていました。倒れて動かないアマニへ振り上げます──。
すると、アマニの前にいきなり木の壁が現れました。
トアのかぎ爪が壁を直撃して深い傷を作りますが、壁を破ることはできません。
「やった……間に合った!」
トーマ王子が冷や汗を拭っていました。この場面に使える術を呪符の束に探していて、時間がかかったのです。
トアの赤い目が振り向いて王子をにらみつけました。
「貴様のしわざか、小僧?」
「そうだ! さっさとここから出て行け!」
と王子は声を張り上げました。
ラクからもらった呪符の中に、魔法の障壁を張る術はありませんでした。一番効果がありそうだったのが、木の防壁を立てる術だったのです。その気になれば敵がすぐ壊してしまいそうだったので、王子はわざと自分のほうへ敵の注意を惹いていました。じりっと半歩ほど後ずさってみせます。
つられるようにトアは王子のほうへ動き出しました。
「魔法使いにしてはたいした魔力を感じない。新米だな」
と笑いながら近づこうとします。
ところが、木の防壁の向こうからメーレーン姫が声を上げました。
「そのお声! トーマ王子でいらっしゃいますの!?」
トアはまた木の防壁を振り向きました。防壁と言っても完全に通路をふさいでいるわけではありません。壁の両脇には隙間があって、そこから侍女たちの服などものぞいています。
ふん、とトアはまた笑いました。
「ガキより女を殺すほうが面白いな。どれ」
とまた通路の奥へ行こうとします。
その隙に王子はまた呪符の束をめくりました。最初に目についた攻撃の呪符を引き抜いて読み上げます。
すると、それは鋭い剣に変わりました。王子たちが使う剣より細身で長さは倍以上あります。
王子は剣を握って突進しました。こちらを向いているトアの背中を突き刺そうとします。
ところがすぐにトアが振り向きました。馬鹿め、と嘲笑って黒い障壁を張ります。飛んでかわそうとしなかったのは、王子を甘く見ていたからでした。さあ、刺してみろ、と言わんばかりに、障壁の向こうで胸を張ります。
その障壁を王子の剣はすり抜けました。まるで何も存在していないかのようにまっすぐ進んで、防具の上からトアの腹を突き刺します。
トアはすさまじい悲鳴を上げました。闇の魔法では防げない中庸の術を、彼は知らなかったのです。かぎ爪を振り上げて王子へ反撃しようとしますが、王子は長い剣を抑え続けました。トアが前進すれば押されてしまいますが、間に剣があるので距離は縮まりません。
すると、トアはいきなり羽ばたいて後ずさりました。王子が引きずられて倒れ、その拍子に剣を手放してしまいます。
トアは剣を腹から引き抜いて捨てました。いつもなら人間に負わされた傷はすぐ治るのに、この傷は治っていきません。
「よくも……よくもやったな! 死ね、小僧!」
とトアはわめきちらしました。倒れている王子へかぎ爪を振り下ろそうとします。
すると、王子が振り向きざままた呪符を投げました。呪符が投げ矢になってトアの胸を貫きます。
トアはどす黒い血を吐いてばったり倒れました。投げ矢に心臓を貫かれたのです。そのまま息絶えてしまいます。
王子は床から起き上がりました。今さらながら全身が震えてきて、すぐには立ち上がれません。尻餅をついたまま震えながらあえいで、トアの背中から突き出ている投げ矢を眺めます。
それはラクではなくシン・ウェイからもらった呪符でした。とっさに王子が使ったのは、今まで慣れ親しんでいたシン・ウェイの呪符だったのです。
木の防壁の向こうから、またメーレーン姫の声が聞こえてきました。
「トーマ王子! トーマ王子! 大丈夫でいらっしゃいますの!?」
とても心配している声でした。
王子は我に返ると、できるだけいつものような声を出そうとしました。
「もちろん大丈夫だ。敵は倒したよ」
とたんにまた女性たちの声が上がりました。今度は歓声です。
ところが、メーレーン姫だけは必死に言い続けました。
「トーマ王子、ルーピーが大怪我をしました! アマニも倒れて動きませんの! 頭から血が出ていますわ! お願いです、助けてくださいませ!」
そうだった! と王子はやっと本当に我に返りました。こんなところで腰を抜かしている場合ではなかったのです。
「待っていて! 今行くから!」
王子はラクにもらった束の中に治療の呪符を探しながら、木の防壁の向こうに駆け込みました──。