霧の中に川が横たわっていました。
幅は広いのですがゆるやかな川です。とろりとした水銀のような水が音もなく流れています。
霧の中を歩いてきた彼は、川の手前で立ち止まりました。かぶっていた青いフードを背中に押しやると川を眺めます。
川向こうも霧で真っ白でしたが、風もないのに霧が流れていました。薄れてできた切れ間に見えたのは、黒い門でした。川を渡った先に立っています。
彼は腕組みして門を眺め、やがて納得がいったようにうなずきました。
「なるほど……ここは狭間(はざま)の世界ですか」
彼は青の魔法使いでした。目の前に流れているのはこの世とあの世を隔てる川、川向こうに見えているのは黄泉の門だと察したのです。
彼はその場に立ち尽くして考え続け、またひとりごとを言いました。
「どうもいけませんな。敵と戦うときに背後ががら空きになる、と白には何度も叱られたというのに。結局ちっとも直らなかった」
敵に刺された背中や胸はもう全然痛みませんでした。傷痕もありません。護具で戦って疲労困憊(ひろうこんぱい)していたはずなのに、その疲れもまったく感じません。
青の魔法使いは頭をかきました。
「皆に謝らなくてはならないのに、それもできそうにない。白にえらく怒られそうだが……それもどうやら無理なようだ」
川の上の霧が晴れ、向こう岸がよく見えるようになっていました。荒れ地に黒い門が立っていますが、両脇には塀も柵もありません。両開きの鉄格子の門だけが、ぽつんと存在しています。
同時に川の水もどんどん下がって川底の石が見えるようになってきました。歩いて渡れるくらい浅い流れになります。
彼は溜息をひとつつくと、青いフードをまたかぶりました。音も立てずに流れている川へゆっくり歩き出します。
すると、不意に目の前に光が湧いて人の姿に変わりました。
白い長衣に淡い金髪を後ろで束ねた女性──白の魔法使いです。行く手をふさぐように青の魔法使いの前に立ちます。
「白」
と彼は目を見張り、すぐに苦笑しました。
「やはり最後にあなたを夢に見ましたか」
「私が夢だとどうしてわかる」
と白の魔法使いが聞き返してきました。遠いどこかから響いてくるような声です。
彼は静かに答えました。
「あなたは優れた魔法使いだが、死にゆく魂を追いかける能力は持っていないからですよ、白。それができるのは紫だが、あの子はハルマスで留守番していますからね……。狭間の世界は夢の世界に近いので、人はそこで最後の夢を見るという。あなたにもう一度会いたいと私が願ったから、あなたは現れたんです」
それに対して白の魔法使いは何も言いませんでした。ただじっと彼を見つめています。
そんな彼女を彼は見つめ返しました。厳しい中に優しさを秘めた顔や、純白の長衣に包まれたすらりとした体を、目に焼き付けるようにいとおしく眺めます。
すると、彼女がまた口を開きました。
「怠慢だ、青。四大魔法使いがここで戦いから抜けていいと思うのか?」
彼は苦笑しました。いかにも彼女が言いそうなことだと思ったのです。
「すみません、白。だが、どうしようもない。私は死んでしまいました」
彼女はまた何も言わなくなりました。ただ彼を見つめています。
彼はそっとその肩を抱こうとしましたが、手が彼女の体を突き抜けてしまいました。夢を抱くことはできなかったのです。
彼は彼女へ淋しくほほえみました。
「未練がましくて申し訳ない……。そろそろ行きますよ。門が待っていますのでね」
川向こうには黒い門が立ち続けていました。両開きの鉄格子が静かに開き始める気配がしています。
彼女はまだ行く手に立ちふさがっていました。突き抜けて通ることもできたのですが、彼は彼女を避けて歩き出しました。川の岸へ向かい、浅い流れを渡ろうとします。
すると、背後からまた声がしました。
「あの約束はどうするつもりだ、青?」
彼は立ち止まって額を押さえました。また苦笑いをして頭を振ります。
「最後の最後にこれを思い出すとは、本当に私も未練がましい……。確かにあなたは、すべての戦いが終わったら私の妻になってもいい、と言ってくれた。だが、あれは実現することがない約束でした。それはわかっていたのですよ」
「何故だ?」
と彼女が聞き返してきました。相変わらず遠いどこかから聞こえてくるような声です。
彼は足元の水銀のような流れを見つめました。
「たとえこの戦闘がすべて終わっても、ロムドが敵から狙われないような平和はやってこないからですよ。ロムドは今や大陸随一の先進国で、国力も財力もエスタやザカラスをしのぐほどになった。たとえ今回の戦いに勝ってつかの間の平和が訪れたとしても、必ずまたロムドを狙った戦いが起きます。魔法軍団は常に必要だし、その長はあなたしか考えられない……。あなたは人生のすべてを神に捧げた神官だ。結婚をすれば神官ではなくなってしまうし、魔法も使えなくなってしまう。それはいけない。あなたはロムドと魔法軍団にいなくてはいけない魔法使いだ。私との結婚など、最初からできるはずがなかったんです」
背後から声がしなくなりました。彼の説得に幻の彼女も消えていったようで、気配もしなくなります。
それでも彼は話し続けました。
「私は幸せでしたよ、白。いつかあなたを妻にできるかもしれないという、とてもいい夢を見させてもらった。夢を見ながらあなたや、赤や深緑や勇者殿たちと戦うことができたのだから、これ以上の幸せはありませんでした。心から感謝しています」
彼が説得しているのは自分自身の心でした。未練に後ろ髪を引かれそうな気持ちに区切りをつけて、また歩き出そうとします。
すると、それを低い声が追いかけてきました。
「私は結婚もしないのに未亡人にならなくてはいけないのか?」
彼は目を丸くしました。彼女の幻はまだ後ろにいたのです。しかも、普段なら絶対に言いそうにないことを言っています。
「結婚しなければ未亡人などとは──」
と彼は振り向き、そのまま絶句しました。
白の魔法使いは先ほどと同じ場所に立って彼の方を向いていました。その頬を光るものが伝っています。
「ひょっとして……泣いているのですか、白?」
と彼は尋ねました。これまで彼女の涙を見たことがあっただろうか、とうろたえながら考えます。魔法軍団の長として、いつも必要以上に毅然としていた彼女です。泣き顔など絶対に人に見せませんでした。もちろん仲間の四大魔法使いにも見せなかったのです。どうして見たこともない泣き顔を夢に見るのだろう、と考えます。
「おまえには泣いていないように見えるのか?」
と白の魔法使いが聞き返してきました。少し拗ねたような声です。
彼はますます面食らいました。
「いや、もちろん見えますが……どうして泣くんですか? あなたらしくもない」
とたんに彼女は眉をつり上げ、泣きながらにらみつけてきました。
「おまえがあんまり身勝手だからだ! おまえとの結婚は許されない? いい夢が見られて幸せだった? 勝手なことばかり言うな! 私自身の気持ちはどうなる、フーガン!?」
本名で呼ばれて青の魔法使いは驚きました。怒りに目を燃やし涙を流している彼女を見つめ、ためらいながら尋ねます。
「まさか……本物のあなたですか、マリガ……?」
自分も本名で呼ばれて、白の魔法使いは泣き顔のまま笑いました。
「私には確かに死者を呼び戻す力はない。だが、妖怪たちが駆けつけて力を貸してくれている。魔法軍団も深緑も──。皆が待っているのに、こんなところでひとり脱落しようとするのは怠慢だと言っているんだ」
彼は思わず駆け戻り、白の魔法使いの前に立ちました。おそるおそるまた手を伸ばすと、今度は彼女に触れることができました。細い腕をつかむこともできます。
彼女はまた笑いました。
「やっと私を捕まえたな。手間をかけさせて。さっさと戻ってこい」
言うと同時に彼の腕をつかみ返して、ぐいと前に引きました。彼の巨体があっけなくばったりと地面に倒れます。
とたんに、彼の体は地面を突き抜けました。どこまでもどこまでも落ちていく感覚がして周囲が暗くなり──
次に目覚めたとき、彼は大勢に囲まれて、丘陵地に横たわっていました。
彼をのぞき込んでいたのは妖怪たちと魔法軍団の魔法使いたちでした。彼が口を開く前に、いっせいに話し出します。
「隊長!」
「青の隊長が帰ってきた!」
「ああ、よかった──!」
「危にゃいところだったよね」
魔法使いや妖怪が口々に安堵する中、青の魔法使いと目が合った天狗が重々しく言いました。
「故障していた宙船を修理してハルマスに戻る途中、帰投中だった魔法軍団に追いついたので乗せてきたんだ。化け猫が赤の魔法使いの声を聞きつけたんだが、傷を治しても生き返らないから、仲間に反魂(はんごん)の術を使ってもらった」
すると、天狗の隣でのぞき込んでいた妖怪が、にやりと笑いました。ひげの濃い恐ろしげな顔の大男で、冠のような帽子をかぶっています。
さらに隣にいた雷獣が説明しました。
「こいつは閻魔(えんま)。人間たちは地獄の番人だとか、死んだ奴を天国と地獄に振り分ける裁判官だとか言うが、実際には霊専門の術が得意な妖怪なんだ」
「ところが反魂の術を使ってもらっても隊長が帰ってこないから、白の隊長にも協力していただいたんですよ」
と部下の魔法使いが言います。
青の魔法使いが狭間の世界でのやりとりを思い出して何も言えなくなっていると、赤の魔法使いが自分の部下に担がれてやってきました。まだかなり消耗していますが、生き返った彼を見て、ほっとした顔で横に座りました。
「あまり脅かすな、青。あのまま帰ってこないんじゃないかと思ったぞ」
「心配をかけて申し訳ない」
と青の魔法使いは素直に謝りました。敵にやられた傷はすっかり治っていましたが、赤の魔法使いと同じように、力はまだ回復していなかったので、横になっているしかありませんでした。
そんな彼に赤の魔法使いはまた言いました。
「あの白を泣かせたんだ。城に戻ったらちゃんと責任をとれよ」
青の魔法使いはたちまち赤くなりました。
「見ていたんですか……?」
「おまえのところに案内するのに、閻魔に力を貸したからな。深緑も白に力を貸していたぞ」
やや、と彼はますます赤くなりました。思わず頭をかこうとしますが、まだ手に力が入りませんでした。
「無理するな。黄泉の門の前から帰ってきたばかりなんだ──。だが、俺の言ったとおりだっただろう? 約束した相手がいると、男は石にかじりついてでも生きて帰ろうとするんだ」
「そうらしいですな。私の場合は皆に助けられましたが」
と青の魔法使いは言って、遠く離れたロムド城にいる白の魔法使いへ想いをはせました──。