ロムド国の西に広がる大荒野。
その中を東西に貫く街道を一台の馬車が走っていました。
馬車と言っても、荷車に毛が生えたような質素なものです。手綱を握っているのは若い農夫でした。屋根のない座席に妻が小さい息子を抱いて座っています。シルの町に住むロキと、その両親でした。
「どうだい? ロキは車酔いしていないか?」
と父親が尋ねたので、母親は答えました。
「大丈夫よ。珍しがってきょろきょろしてるもの」
「そりゃよかった。ラトスの町はもうすぐだからな」
と父親は行く手を見ました。町は丘の陰になっていてまだ見えませんが、荒野のあちこちで赤や白の花が咲き乱れていました。大荒野は一年で一番美しい季節を迎えているのです。
甘い花の香りがする風に吹かれて、ロキの両親は話し続けました。
「ラトスも久しぶりよね。オッジの店にいい布があるといいんだけど。あんまり高くなくて見栄えのいい奴がさ」
「いとこの結婚式に着る晴れ着を作るんだろう? あんまりけちけちするなよ。去年の葡萄酒がいい値段で売れたから、懐(ふところ)はちょっと温かいんだぞ」
「そうはいかないよ。ロキに新しい靴を作ってやるのに、革も買わなくちゃいけないんだし、麻糸も塩も買うんだからさ」
「やれやれ。うちの奥さんは堅実だな」
と父親が苦笑します。
ロキはそんな会話は聞き流して、馬車の縁にしがみついて外を見ていました。シルを離れてこんなに遠くまで来たのは初めてでした。流れていく景色を飽きることなくも眺めます。
「だって、北の大地じゃどこまで行ったって雪と氷の白だったもんな。闇の国は論外だし」
とロキは心の中でつぶやきました。闇の民から生まれ変わった彼は、前世の記憶を持っています。トジー族として育った北の大地や、その後連れて行かれた闇の国と、目の前に広がる荒野では、景色がまるで違いました。荒野は雨が少ないので森はありませんが、街道沿いに水路が流れているので、大きな柳の木が街道に影を落とし、連なる丘は薄緑の草におおわれていました。リリカと呼ばれる赤や白の花も咲き乱れています。小高い丘の上からは一頭の鹿がもの珍しそうにこちらを眺めています──。
と、鹿は急に何かに気づいたように背後を振り向き、飛び退くように丘を駆け下りていきました。あっという間に見えなくなってしまいます。
「オオカミかな?」
とロキは心の中で言いました。昔、北の大地の雪原をオオトナカイになったグーリーと駆け回り、雪オオカミから逃げたことを、懐かしく思い出します。
とはいえ、本当にオオカミの群れが襲ってきては大変なので、ロキはそちらの監視を続けました。鹿がいた丘が背後になったので、馬車の後ろへ移動します。
すると、本当に黒っぽい集団が丘の間に見えました。オオカミではありません。馬に乗った集団が荒野を東へ駆けていくのです。集団は鎧兜を着けた戦姿をしています。
「……?」
奴らはなんだろう? とロキは考えました。以前、シルの町にロムド正規軍の兵士が来たことがありますが、彼らは銀の鎧兜を着けていました。防具の色が違うのですから、ロムド兵ではありません。
「父ちゃん、戦争が起きてるのか? どことどこが戦ってるんだ?」
とロキは御者席の父親へ尋ねました。馬車の車輪の音に邪魔されて二度三度と言い直しているうちに、武装した集団は丘の向こうに見えなくなってしまいました。
「この子ったら、また変なことを言い出したよ」
と母親は溜息をつきました。ロキは今四歳ですが、とてもその年齢とは思えない、変に大人びたことを言い出すので、風変わりな子どもと思われているのです。
「一歳半までひと言も口をきかなかった子なんだ。話してくれるだけで上等じゃないか」
と父親は笑うと、もっと年上の子に話すような口調で息子に答えました。
「戦争は国の東のほうで起きているらしいな。フルートたちが皇太子殿下と一緒に戦っているらしい。春先に怪物がシルや他の町にやってきただろう? あれも敵が送り込んできたものだったそうだ」
「じゃ、敵は闇のものなのか?」
とロキは驚きました。春先の事件のことは彼もよく覚えています。結局シルの町は無事だったのですが、直後に闇虫が町の防御を食い破ろうとしたので、駆けつけたフルートたちと一緒に退治したのです。けれども、フルートたちは闇の敵が襲ってきているとは一言も話していませんでした。
「兄ちゃんたち、おいらが参戦したがると思って黙ってたな……」
ロキが密かに歯ぎしりすると、父親が安心させるように言いました。
「大丈夫、戦争が起きているのは東部だからな。怪物もフルートの仲間が飛んできて退治してくれたおかげで、いなくなった。西部は平和なんだよ」
ほんとか……? とロキはまた心で言いました。先ほど見かけたのは異国の兵士たちです。武装した人々が軍馬で西部を駆けていること自体、もう平和とは言えないような気がします。
「じゃあ、さっきの兵隊さんたち、フルート兄ちゃんたちの応援に行くのに走ってたのかなぁ!?」
とロキは声を大にして言いました。四歳の子どもが、怪しい軍勢が東へ向かった、と言っても本気にしてもらえないのはわかっていたので、わざと無邪気を装ってみます。それで父親たちが疑問に感じてくれることを期待したのですが、残念ながらそうはなりませんでした。
「ああ、きっとそうだろう。他の国からも援軍が集まっているらしいからな」
と父親は言って、あとは馬車を走らせるほうに集中してしまいました。石畳が壊れて走りにくい場所にさしかかったのです。がたがたと馬車が激しく揺れます。
母親が注意しました。
「口を閉じといで! しゃべってると舌をかむよ!」
ロキは泣きそうになって歯を食いしばりました。幼い子どもの体は、何かあるとすぐに大泣きしたい気持ちになってしまうのです。
武装した集団はもう荒野の向こうへ走っていってしまいました。あれが味方でありますように……。ロキとしてはそう祈るしかありませんでした。
馬車がラトスの町中に入り、中央にある広場にさしかかると、役所の前に人だかりができていました。誰かが大勢に向かって何かを話しています。
「何事だろう?」
と父親は馬車を近づけましたが、話が聞こえる距離まで近づく前に、人々がいっせいに散り始めました。話が終わってしまったのです。集まっていたのはラトスの住人でした。青ざめた顔で自分の家や店に駆け戻って行きます。
人々が散った後に看板が立っていたので、父親は馬車を降りて見に行きました。母親もロキを抱いて追いかけてきます。看板にはおふれがきが貼ってありました。国王の紋章も押印されていたので、両親が話し合います。
「こりゃ国王陛下の勅令(ちょくれい)じゃないか」
「お城のお使いがおふれに来てたんだね。シルにも来たのかしら?」
「ああ。今頃シルの広場にも看板が立ってるかもな──」
「父ちゃん、母ちゃん、なんて書いてあるんだよ!?」
とロキは焦れて尋ねました。彼はまだ学校へ行っていないので、文字が読めなかったのです。
「待て待て、今読んでやるからな。えぇと……なんだって!? またか!?」
「ほんとだ、なんてことだろ! あんなこと、西部じゃもう起きないと思ってたのにさ!」
両親は看板を読んであわて始めましたが、ロキにはさっぱり状況がわかりません。父ちゃん、母ちゃん! と一生懸命呼びますが、両親は青ざめておろおろしているだけです。
すると、役所の前で話し合っていた二人が騒ぎを聞きつけました。上等な服を着た中年の女性と、明るい水色の長衣を着た男性です。男性のほうがロキの両親に話しかけてきます。
「陛下のご命令はそこに書かれたとおりです。この西の街道を敵の軍勢が通過していきます。サータマン王に率いられた大軍勢が予想されるので、抵抗してもかなわないでしょう。一刻も早く安全な場所に避難してください」
「安全な場所って、どこにさ!?」
と母親が金切り声を上げて息子をぎゅっと抱きました。あまり強く抱きしめられたので、ロキは思わず、痛いっ! と言ってしまいます。
立派な身なりの中年女性が言いました。
「シルへ避難しなさい。あそこなら敵は絶対攻めてこない、と言われています。私も今そう命じたところです」
女性はラトスの町長だったのです。
ロキの両親はぽかんとしました。
「ぼくたちはそのシルから来たんだけれど」
「そういや、去年の戦いのときにも、近くの町の人間がシルに避難してきたよね……」
ロキは密かにうなずいていました。シルの町はフルートの故郷なので、親しい人を敵の人質にされないように、泉の長老が聖なる力で守っています。周囲には土塁も水堀もありませんが、西部でもっとも安全な場所だったのです。
「シルの方だったのですね。では今すぐ町にお戻りください。街道の要所は我々魔法軍団と正規軍で守りますが、大変な激戦になることでしょう」
と水色の長衣の男性が言いました。彼はロムド城の魔法軍団の一員でした。
青ざめたり安堵したり忙しく顔色を変えていたロキの父親が、それを聞いて急に納得した顔になりました。
「では、さっき見かけたのは、やはり正規軍の兵隊さんだったんですね」
「見かけた? どこで?」
と魔法使いが聞き返してきました。
「ラトスにつく直前です。兵隊が向こうへ走っていった、と息子が言ったものですから」
魔法使いはますます怪訝そうになりました。
「向こうとはどちらですか? 正規軍がこの付近に到着するのは、もうしばらく先のことになります。私は先触れに来たのです」
「東だよ! 丘の向こうの荒野を東に走っていったから、おいら、戦場の応援に行く援軍かと思ったんだ!」
とロキはすかさず言いました。とても四歳児のことば遣いではなかったのですが、魔法使いはそこは気にせず、女町長と話し出しました。
「今頃、この街道を東に向かう援軍がいるでしょうか?」
「援軍を出すとしたら、街道の西の国境を守るリーバしかありませんが、あそこはすでに領主殿が兵を率いて東へ駆けつけています。領地を守る最低限の兵士か残していないのに、さらに援軍を送るでしょうか。それに、最近このラトスを軍隊が通ることはありませんでしたよ」
軍隊を見たのが幼いロキだったと知って、女町長は半信半疑になっていました。子どもの見間違いでは、と言わんばかりの口調です。
ロキは泣きたくなるのをこらえながら、また言いました。
「違わい! 兵隊は街道を走ってったんじゃないよ! 街道から離れた荒野を丘に隠れながら走ってったんだ!」
これ、ロキ! と母親があわてて彼の口を押さえました。偉い人たちに無礼な言い方をしたと思ったのです。実際、女町長はむっとした顔つきになりましたが、魔法使いのほうは真剣な表情になりました。
「軍隊が街道を通らずに荒野を東へひた走った。それは味方の動きではないな……」
水色の魔法使いは長身をかがめてロキをのぞき込みました。
「君、走っていった兵隊の格好は覚えているかい? 例えば鎧や兜の色や形は見えなかったか?」
「魔法使い殿! まだ年端もいかない子どもですよ! そんなものがわかるはずがないでしょう!」
と女町長は呆れましたが、水色の魔法使いは首を振りました。
「あなたは金の石の勇者の一行をご覧になったことがありませんか? あの方たちも非常に若い。まだ子どもと言っても良い年齢なのに、立派な勇者なのです」
「フルート兄ちゃんたちはおいらの友だちだよ!」
とロキは母親の手を振りほどいて叫び、また口をふさがれてしまう前に急いで言いました。
「鎧はよくわかんなかった! 馬に乗って砂埃をたててすごい勢いで走っていったから! でも、兜は見えた! 黒っぽい緑色で、こう、下に布を巻いてたぞ!」
「サータマン軍だ!!」
と魔法使いと女町長は同時に叫びました。さらに魔法使いは言い続けます。
「馬で疾走していったということは疾風部隊か! 街道を通らずに東へ向かったな! いかん!」
魔法使いが腕を上げると、手の中に長い杖が現れました。それでドン、と地面を突きながら言います。
「協力感謝します。この上は早くシルにお戻りください」
魔法使いの姿が彼らの前から消えていきました。ロムド城へ飛んで戻っていったのです。
あとには呆気にとられた女町長とロキの両親、そしてロキが残されました。ロキはほっとして、声を上げて泣き出してしまいました──。