その日、ロムド国の王都ディーラは大変な賑わいに包まれていました。
五月初め、ロムドの各地では花祭りと呼ばれる春の祭りが開かれます。ディーラでも広場に常緑樹の枝を飾ったポールが立てられ、その周りで男女が踊っていました。通りには店や屋台が軒を連ね、見世物小屋が立ったので、晴れ着を着た人々が大勢繰り出しています。花を敷き詰めた大通りを女神像を載せた神輿(みこし)が通っていく昼過ぎ、祭りは最高潮になります──。
ディーラは二年前から幾度も敵の攻撃を受けていました。特に昨年は短い間に二度も敵の飛竜部隊に襲撃され、都のあちこちを破壊されました。その傷跡はまだ完全に修復されてはいなかったし、人々の暮らしもまだ元の落ち着きを取り戻してはいません。さらに、南へ馬で半日程度しか離れていないハルマスでは、今も戦いが続いています。彼らを襲う真の敵が、闇の国の軍勢と魔王のようなセイロスという男だということも伝わっています。
けれども、だからこそ、ディーラの住人は祭りを盛大にとりおこなったのでした。
敵が闇のものでは、普通の人間にはとても対抗できません。闇を倒すことができるのは、神と神がもたらす光だけです。人々は祭りの中で光の女神ユリスナイに、闇の敵を退けてください、と願いました。ハルマスで闇と戦っている金の石の勇者たちの勝利も心から願います。祭りで大勢が賑やかにすればするほど、祈りが通じて勇者たちの力になるのではないか。人々はごく自然にそう考えたのです。
そんな街の様子を、銀鼠(ぎんねず)と灰鼠(はいねず)の姉弟の魔法使いが、空飛ぶ絨毯の上から眺めていました。
元祖グル教を信仰する彼らにとって、花祭りは異教徒の祭りです。一緒になって祈ったり楽しんだりする気持ちにはなれませんでしたが、都の警戒に当たらなくてはならなかったので、空から祭りを見守っていたのです。
「ああ、ほら、あそこにも勇者たちの像があるわよ。あそこの広場にも。びっくりね」
と姉の銀鼠が呆れたように言いました。ディーラの通りや広場に、にわか作りの金の石の勇者たちの像が建っていて、人々が花や祈りを捧げていたのです。
弟の灰鼠は肩をすくめました。
「すごい人気ぶりだよな。まさかこんなにみんなの信頼を回復するとは思わなかったよ」
金の石の勇者たちが闇の手先ではないかと人々から疑われていたのは、つい三ヶ月ほど前のことです。
「そりゃあ、あれほどたくさんの味方を大陸中から集めてくればね。闇のものにあんな真似はできるわけがないんだもの。嫌でも信じるしかなかったでしょ」
空にいる彼らには、祭りで賑わう都の外側も見えていました。城壁の外には牧草地や畑が広がっているのですが、そのあちこちに軍隊が駐屯していたのです。各国から集まってきた援軍のうち、ハルマスに行かずにディーラの警備に残った部隊です。賑やかな祭りの音が聞こえてきても、彼らは持ち場から動こうとしませんでした。武装して周囲を見張り、ハルマスから招集があればすぐに出動できるように待機しています。
「白様がハルマス行きの魔法部隊を選抜しているわ。あたしたちも選ばれるかもしれないわね」
と銀鼠が言ったので、灰鼠はうなずきました。
「隊長はもうハルマスに行っているもんな。ぼくたちの魔法は闇の敵に有効だし、選ばれるんじゃないかな」
彼らは赤の魔法使いの部隊に所属しています。
「ハルマスにはユギル様も行ってらっしゃるのよ。あたしはぜひハルマスに行きたいわ!」
姉が急に華やいだ声になったので、弟は呆れました。
「まだ諦めてなかったの? いくら姉さんでもユギル殿は無理だって。一番占者殿なんだぞ」
「うるさいわね。ひょっとしたらってことがあるかもしれないでしょう!」
「万が一だってありえないよ。絶対無理だ!」
空飛ぶ絨毯の上で喧嘩が起きそうになったとき、ウィィィ、と空の中で大きな音が響きました。姉弟がはっとしてそちらを振り向きます。
「はい、あたしたちはここにおります!」
「なんの御用でしょう、アーラーン!?」
彼らに力を与えている神が話しかけてきたのです。
ボォォォォ……
アーラーンはまた彼らに何かを話しました。空で風が唸るような音ですが、彼らには言われていることがわかります。
聞き終えた姉弟は、顔を見合わせると、うなずいてロムド城へ急行していきました──。
ロムド城の南の守りの塔の最上階に、女神官の白の魔法使いが立っていました。祭りの喧噪はここにも届いていますが、彼女は賑やかな窓に背を向けて、ひとりごとを言っていました。
いえ、ひとりごとではありません。北の塔にいる深緑の魔法使いと心話で話していたのです。
「──というわけで、つい先ほど銀鼠と灰鼠がサータマン側の動きを知らせてきた。ミコン山脈の麓に軍隊が集結していて、山脈を越え始めたらしい。総勢十万か、それ以上。サータマン軍だけでなく、カルドラ国やルボラス国の軍隊も共に行動している。かなりの大軍だ」
「それをシュイーゴの住人が知らせてきたというのかね。彼らが信じる神の力を使って」
「そうだ。彼らの神のノワラがアーラーンに伝え、アーラーンが銀鼠と灰鼠の二人に伝えてきた。金の石の勇者たちに知らせてほしい、と言ってきたらしい」
「ほい、神々の連係プレイというわけじゃな。勇者たちもまったく顔が広いの。異国の神々とも知り合いとは」
と深緑の魔法使いは感心しました。その姿は離れた北の塔にあるのですが、白の魔法使いにははっきりと見えていました。深い緑色の長衣を着て長い樫の杖を握った、背の高い老人です。
「青から勇者たちに知らせてもらうのがよかろう。青は今ハルマスに戻っておるからの」
と老人が言ったので、女神官はすぐにうなずきました。
「深緑が起きてくる前に、青には知らせておいた。今頃勇者殿たちにも伝わっているだろう。ただ、陛下のお耳にも入れておいたほうが良いと思うのだ。どうやら、ミコン山脈を越えてくる軍勢を、サータマン王自身が率いているらしい」
「敵の親玉がいよいよお出ましかね! 最後までサータマン城の奥の間に隠れて、欲にまみれた命令を出すだけかと思うとったが!」
「王自身が出るしかなくなったのだろう。南大陸からルボラスまで参戦してきたのだからな」
と女神官は皮肉っぽく笑います。
「だが、サータマン王がじきじきに出陣したとなれば、敵の戦力も相当じゃぞ。軍隊だけでなく、魔法使いも大勢連れているじゃろう。以前イール・ダリにやられかけたのを忘れてはおらんじゃろう、白?」
過去の苦戦を話に出されて、女神官はちょっと渋い顔になりました。
「奴はもう死んだ。だが、もちろん忘れてはいない。あの国の魔法使いは闇の力を借りてくるからな──」
そこまで話して、女神官は急に、待て、と言いました。鋭い目を部屋の入り口に向けてから、すぐに緊張を解きます。
「トウガリ殿ですか。どうぞお入りください」
塔の階段を上りきって、最上階の扉に手をかけようとしていた道化は、目を丸くしながら中に入ってきました。
「話し声がしていたようだが、深緑殿とお話中でしたか? 邪魔だったら出直してきますが」
トウガリは道化の化粧と服装をしていましたが、ここには女神官しかいなかったので、道化の口上は使わずに普通に話していました。
「いや、大丈夫だ。トウガリ殿こそ、今頃どうしてここに? 王妃様のサロンにいる時間のはずでは」
「メノア様は陛下と春祭りの見物に出かけられました。お戻りになるまで、道化の出番はありません」
とトウガリは言いました。そのまま塔の窓辺に歩み寄って、城下町で繰り広げられている祭りを見下ろします。ちょうどそのとき正門前で角笛が鳴り、人々の歓声が上がりました。ロムド王とメノア王妃が祭りに出てきたので、市民が喜んで大歓迎しているのです。
「トウガリ殿はここから見張りを?」
と女神官がまた尋ねると、道化は首を振りました。そのまま、ためらうように沈黙になります。
心話の向こうで深緑の魔法使いが首をひねりました。
「どうも様子が変じゃな。白、そっちへ行くから、わしを引っぱれ。闇魔法の影響で場はまだ乱れとるが、そっちとこっちで引き合えば行けるじゃろう」
そこで女神官は床に杖を立てて、見えない魔法の手を伸ばしました。それをつかんで、深緑の衣の老人が姿を現します──。
「こりゃトウガリ、何か言いたいことがあって来たんじゃろう。はよう言わんか」
と老人にせかされて、道化は彼らに向き直りました。また少しためらってから、こう言います。
「陛下のご様子が変なのです」
陛下の? と二人の魔法使いは驚きました。夜勤に就くために先ほど起きたばかりの老人が、尋ねるように女神官を見ましたが、彼女は首を振りました。
「今朝方、謁見室で拝見したときには、お変わりの様子はなかった。執務も普段通りにこなされていたし」
「見た目にはいつも通りの陛下です。だが、なんだかおかしい」
とトウガリは言って、また窓の外を見ました。王と王妃は警備兵に付き添われて大通りに神輿(みこし)を見に行ったようで、市民の歓声は遠ざかっていました。
「花祭りを見に行こう、と言い出されたのは陛下なんです。例年は王妃様のほうが陛下をお誘いするのが恒例だったのに……。今年、王妃様はハルマスに行ったメーレーン様が心配で、祭りの気分になれずにいらっしゃった。ところが、陛下がじきじきに王妃様の部屋に入ってきて、祭りに誘い出されたんです。これまでなかったことです」
老人と女神官は思わず顔を見合わせてしまいました。
「それは、ふさぎこんでいる王妃様を陛下が心配されたからではないのか? そう変なこととも思えないが」
と女神官が言うと、トウガリはまた黙り込んでしまいました。何かを話そうかどうしようかとためらっています。
深緑の魔法使いは鋭く目を光らせて、ずいと前に出ました。
「年寄りは気が短いんじゃ! 言うべきことがあるならさっさと言わんか! それとも、わしがこの目でおまえさんの心から真実を見抜いてやろうか?」
魔法使いらしい脅しに、トウガリは苦笑いしました。
「そうですね。あなた方は私の気持ちをご存じだから、今さら隠すこともなかった──。実は、半月ほど前、陛下から呼ばれて、おかしなことを言われたのです。自分に何ごとかあったらメノアを頼む、と言われました」
二人の魔法使いは顔色を変えました。頼む、というのが単に王妃を守れという意味ではないことを察したのです。
「トウガリ殿、貴殿はメノア様に何をされたのだ!?」
と女神官が厳しい口調になったので、道化は真っ赤になって首を振りました。
「神にかけて、何もしておりませんよ! 私はいつも通りにメノア様にお仕えしてました! 急に陛下から呼び出されたと思ったら、じきじきにそんなことを言われたんです。自分に何ごとかあればメノア様が危険になるから、城から連れ出して逃げろとも言われました。メノア様が承知しなかったら、さらってでも逃げろ、と言われたんです」
魔法使いたちはまた驚きました。
「……確かにそれはご様子がおかしいの」
「陛下は何かをお考えなのだろうか? 宰相殿には伺ってみたのか?」
「もちろん真っ先に聞きましたよ! 陛下もお歳だから先のことが心配になってきたんでしょう、とはぐらかされました!」
「そりゃ、ますますもっておかしなことじゃ。普段の宰相殿なら一緒になって陛下を心配するじゃろうからな」
と深緑の魔法使いが言ったので、トウガリは声をひそめて言いました。
「陛下の身に何か起きるんじゃないでしょうか。どうも、そんなふうに思えてしかたないのです」
「占いに出たとでもいうのかね? じゃが、ユギル殿はハルマスじゃぞ」
「いや、陛下とユギル殿は遠見の石で連絡がとれる」
と白の魔法使いは言い、同時に先ほど入ってきたサータマン軍の動きを思い出しました。これは偶然のタイミングなのだろうか、と考えてしまいます。
「……ハルマスに選抜隊を送り出すのは、見合わせたほうがいいのかもしれない」
と女神官はつぶやくように言いました。