中央大陸を南北に分断するように延びているミコン山脈。
その険しい峰々の頂は雪で白く輝いていますが、山肌は中程まで薄緑色におおわれていました。五月になって山も春を迎えていたのです。
新緑が柔らかな木陰を作る森の中に、大規模な軍隊が留まっていました。サータマン国とカルドラ国とルボラス国による連合軍です。歩兵や騎兵だけでなく、兜のような防具をつけた戦象たちもいます。
戦象部隊の中にはひときわ豪華な防具の象がいて、背中にきらびやかな鞍を置いていました。鞍には四本の柱と屋根があるので、桟敷(さじき)と言ったほうが良いのかもしれません。そこに分厚いクッションを重ねて、クッションよりもっと厚みのある体を乗せているのは、サータマン王でした。特製の鎧兜を身につけ、軍隊を指揮するための房つきの錫(しゃく)を持っています。半月型の大きな刀もありましたが、それは桟敷の片隅に無造作に置かれていました。王自身は同じ桟敷に乗り込んだ美女に酌をさせながら、今日何度目かの酒と食事を楽しんでいました。城にいても遠征に出ても、することはまったく変わらないサータマン王です。
そこへ二頭の馬がやってきて、先の馬から兵士が言いました。
「陛下、将軍がおいでになりました」
「ようやく来たか」
とサータマン王は言うと、酒の器を美女に押しつけて、象の足元に来た男をじろりとにらみました。
「何故まだこんなところにいる、マグラン将軍。疾風部隊は半月も前に城を出たのだぞ。今頃もうロムドのディーラに到着していておかしくないはずだ」
馬を下りた将軍は、は、と言って王の前にひざまずきました。兜を脱いだ頭を下げながら言います。
「おそれながら、陛下、行く手をミコン山脈の雪解けの洪水に阻まれて、越えることができずにおりました。洪水は大河となって麓を東西に流れていて、流れが激しく、馬で乗り入れると押し流されてしまいます。森の木を切り出して橋を架けようとしたのですが、それも片端から流されてしまいました」
「大河のような雪解け水だと?」
とサータマン王はいぶかしい顔をして、別の戦象に乗っていた大臣を振り返りました。
「ミコン山脈の雪解けの洪水は、もっと早い時期に起きるのではなかったか?」
「さようでございます。雪解けによる洪水のピークは三月から四月頭にかけて。五月になれば、もう水が引いて跡に若草が生えてくる頃でございます」
と大臣が答えたので、将軍は顔を上げて必死に訴えました。
「嘘ではありません! どうぞご自身の目でお確かめください! 音を立てて流れる激流でございます! 船も流されます! 回り道も試みましたが、西へ向かえば敵のザカラス国を通過することになるし、東へ向かえば異教徒の本拠地であるミコンへ至る道を通ることになります。雪解けの水が引くのを待つしかありませんでした」
「それでわしらの本隊が追いついたというわけか」
とサータマン王は言うと、いきなり将軍をどなりつけました。
「愚か者! 雪もさほど多くなかった年に、それほどの洪水が起きるわけがなかろう! 忌々しい異教徒の悪しき術のしわざだと、何故気がつかん!?」
象が王の大声に驚いて暴れそうになったので、首に乗った象使いがあわててなだめました。象に踏まれそうになった将軍も飛び退いて逃げます。
サータマン王はいまいましく舌打ちしました。マグラン将軍は疾風部隊を率いる大隊長なのですが、機転も度胸も今ひとつ足りません。これまでの戦いで疾風部隊の半数以上が戦死したり捕虜になったりしたので、疾風部隊の質が下がっているのです。
象が落ち着きを取り戻すと、王はまた大臣を振り向いて言いました。
「魔法使いたちを派遣しろ。どうせあの忌々しい異教徒どもの魔法だ。跡形もなく打ち砕いて先へ進むぞ」
「御意」
と大臣は答え、伝令に同行の魔法使いを呼びに行かせました──。
森の木々の間を音を立てて流れていた水が、急に水位を下げて地中に消えていったので、隠れて見守っていた男たちは驚きの声を上げました。
「気づかれたか」
と言ったのは、紫の服を着て丸い帽子をかぶった老人でした。他の男たちはごく普通の格好をしていますが、この老人は聖職者の格好をしています。
「どうする?」
「先回りして連中を足止めするか?」
と男たちが言いましたが、老人は首を振りました。
「あの軍勢にはサータマン王の部隊だけでなく、他国の軍隊までが一緒になっている。わしらの力ではもうこれ以上の足止めはできん。ここまでじゃ」
彼らはシュイーゴという町の住人でした。紫の服の老人は元祖グル教の僧侶です。
シュイーゴは別名を水の町と言って、以前はサータマン国側のミコン山脈の麓にあったのですが、サータマン王が元祖グル教を迫害するので、今はミコン山脈の中に新たな町を開いて暮らしていました。
ミコン山脈は神の都ミコンの支配下にあって、ミコンの神々と彼らが信じているグルの神々は相容れることがありません。それでも彼らがミコンの側で暮らせるようになったのは、金の石の勇者たちのおかげでした。猿神グルが絡んだ戦いで、勇者やミコンの大司祭長たちと協力して、敵の攻撃を防いだのです。
「勇者たちの力になりたかったんだがなぁ」
とシュイーゴの住人のひとりが残念そうに言いました。フルートたちが初めてサータマンを訪れたときに、水に落ちた娘を彼らに救われた父親でした。
元祖グル教の僧侶は穏やかに言いました。
「悲観することはない。わしらはサータマン軍の疾風部隊を一週間以上足止めすることができた。ノワラの神がグルと共に力を貸してくださったおかげじゃ。闇と戦う光の戦士たちにとって、大きな時間稼ぎになった、とノワラは言っておる」
「それでも、もう少し足止めしておきたかったな……。敵はものすごい数だったじゃないか。十万? もっといるかな?」
「サータマン王もいたな。きらきらした象に乗っているから、すぐわかった。これを勇者たちに教えることができたらなぁ」
と他の男たちも残念そうに言います。
彼らがいる場所から勇者の一行がいるハルマスまでは、とても長い距離がありました。険しいミコン山脈も越えていかなくてはならないので、サータマン軍の先回りをして知らせに行くことは難しかったのです。
僧侶は森の中を見透かすように眺めました。彼にはノワラの神が憑いています。その力を借りて、はるか彼方の軍勢の様子を観察して言います。
「兵の数は多いが、あの男──セイロスはおらんようじゃ。わしの術を破ったのも、王に同行してきたグル教の魔法使いじゃな」
猿神グルの戦いのときに彼らはセイロスとも対峙していたので、顔を知っていたのです。
「とすると、人数は多くても、あれは普通の軍隊だということなんだな」
と男のひとりが言うと、僧侶はまた首を振りました。
「それはそうだが、サータマン王の軍勢だけではない。カルドラ国の旗があったし、ルボラス国の旗もあった。サータマン王に援軍がついておるんじゃ。油断はならん、とノワラが警告しておる」
「やっぱり勇者たちに知らせたほうがいい! ぼくが行こう! 山を登って西の巡礼の道からミコンの都を越えていくよ! それなら敵の先回りができるかもしれない!」
と若い父親が言いました。娘をフルートたちに助けられた恩があるので、一生懸命です。
けれども、僧侶の老人はやっぱり首を振りました。
「ミコンの大司祭長殿はわしらがミコンの麓に暮らすことを許可してくれたが、ミコンの人間が皆そんなふうに思ってくれているわけではない。わしらを憎むべき異教徒と思っている者も多いから、都を抜けてロムドへ行くことはできん。先回りは不可能じゃ──。どうしたらよいか、ノワラに尋ねてみるとしよう。何か良い知恵を与えてくださるかもしれん」
町に戻るぞ、と言われて、男たちはしかたなく歩き出しました。途中で何度も振り向きますが、洪水の魔法が消えた森を進んでいく軍勢を見ることはできませんでした。
ノワラ、ノワラ、と僧侶の老人は歩きながらつぶやき続けていました。元祖グル教の僧侶は、神々の中から特定の神を自分の身に下ろして力を借りることができます。彼の神はお告げの神のノワラでした。自分たちを救ってくれた勇者の一行の手助けをするにはどうしたらよいか、心の中で真剣に問いかけます。
すると、昼間の森のどこかから、ホゥホホゥ、と鳴き声がして、大きな灰色の鳥が飛んできました。大きさが人間ほどもあるフクロウですが、その姿は僧侶にしか見えません。ノワラの神が呼びかけに応えて現れたのでした──。