ハルマスの砦でも時が過ぎ、暦は五月になりました。砦の人々は次の襲撃に備えて警戒を強めていましたが、予想に反して敵はまだ姿を現していませんでした。
いつものように朝食の後で会議室に向かいながら、ゼンが言いました。
「セイロスも闇王も全然動き出さねえよな」
「ホントだよね。すぐにもまた攻めてくるかと思ったのにさ」
とメールも言いました。ランジュールがハルマスに闇虫を送り込もうとしてから一週間以上が過ぎています。ランジュールを撃退されて慎重になっているのかもしれませんが、それにしてものんびりしているように感じられます。
フルートは考えながら歩いていました。
「闇王の軍勢はサータマンからの部隊と連動して攻撃してくるはずだ。サータマン軍の第一陣はもうロムドに入ったはずだから、闇王軍も動き出す頃だと思うんだけど……」
すると、ポポロが申し訳なさそうな顔になりました。その気になれば彼女はサータマン軍の様子を見ることができますが、そこにセイロスがいたら捕まる危険があるので、敵の透視を禁止されていたのです。
犬たちがポポロの足元にすり寄って言いました。
「ワン、心配しなくても大丈夫ですよ」
「そうよ。昼間は飛竜部隊が警戒してくれてるし、夜はレオンたちが見張ってくれてるんだもの。敵が近づいてきたら、すぐにわかるわ」
一行が会議室に入っていくと、そこにはもう砦の主要な人々が揃っていました。オリバン、セシル、ワルラ将軍、竜子帝とリンメイとラク、青の魔法使い、赤の魔法使い、トーマ王子と家来のニーグルド伯爵とシン・ウェイ、それにユギル──
フルートたちはいっせいに占者に駆け寄りました。
「ユギルさん!」
「久しぶりだな!」
「ずっと部屋にこもってたもんね」
「ワン、占いの結果が出たんですね?」
ユギルは銀の髪を揺らしてうなずきました。
「サータマン軍の動きを把握できましたので、皆様にお知らせに上がりました」
普段から細身の占者ですが、このときにはいっそう痩せて細くなっているように見えました。端正な顔には沈んだ影が漂っていますが、居合わせた人々は、占いに疲れたせいだろうと考えていました。フルートたちも遠慮して、それ以上は話しかけずに会議の席につきます。
オリバンが口火を切りました。
「今朝はいくつか報告することがある。一番の関心事はユギルの占いの結果だが、その前に、いつものようにイシアード城の様子をラク殿から知らせていただこう」
闇王に奪われたイシアード城を、ホルド国の間者が偵察して、ラクの弟子を通じてラクに知らせていたのです。
黄色い服に黄色い頭巾をかぶり、同じ色の布で口元を隠した術者は、椅子ではなく床の上に直接あぐらをかいて座っていましたが、指名を受けて話し出しました。
「わしのほうの報告はいつもと変わりません。闇王の軍勢が突然イシアード城を襲撃して、駐屯していたエスタ軍から城とイシアード王を奪還したわけですが、その後、城や王からはなんの音沙汰もないようです。エスタ国王軍は何度も突撃を試みましたが歯が立たず、ついに撤退しました。闇の軍勢が城に駐留するようになってから、不気味な姿の怪物や闇の民が都に多数出没するようになって、被害者も少なからず出ているので、民はひどく怯えているようです。昼間でも外を出歩く者が極端に減ったので、イシアードの都は廃墟のようになっているという話です」
「セイロスがいたという情報はないんですね? あるいは、四枚翼の巨大なドラゴンを見たという情報は?」
とフルートが尋ねました。
「ございません。イシアードの都に出没する闇の民は、闇王軍の兵士でしょうが、怪物のほうは闇の軍勢が放つ気配に周辺から引き寄せられてきたもののようです」
とラクが答えます。
ラクの報告はそれで終わりだったので、次に青の魔法使いが話し出しました。
「私のほうには今朝早く、闇の森にいる部下たちから報告が入りました。闇の森の残党退治が完了したので、これからハルマスに帰投するとのことです。魔法軍団だけでなく、エスタ軍やメイ軍も一緒ですが、妖怪軍団だけは途中で不時着した宙船を修理して、それに乗って帰ってくるから、少し遅れるだろうと言っていました」
「とすると、一番最初に戻ってくるのは、ロムドの魔法軍団かな? みんな空間移動してこれるもんね?」
とメールが言ったので、武装の魔法使いは微笑しました。
「さようですな。ただ、さすがに闇の森からは距離があるので、一足飛びというわけにはいきません。何度か転移を繰り返さなくてはならんし、体力も使うので、戻ってくるまでには数日かかるでしょう」
「エスタ軍やメイ軍はもっと時間がかかるわよね?」
「ワン、馬や徒歩で移動するからね」
と犬たちが話し合います。
闇の森に行っている味方は、ハルマスに戻ってくるまでもうしばらく時間がかかるということです。
「他に報告がある者はいないか?」
とオリバンに尋ねられて、今度はワルラ将軍が口を開きました。濃紺の防具の老将軍です。
「ロムド城からの報告ですが──」
とたんにユギルがぴくりと小さく反応しました。表情は冷静なまま、黙って椅子に座っています。
「サータマン軍がハルマスに攻めてくるというので、援軍の準備が進んでおります。最終的には二万の戦力がこちらに投入される予定です」
「うまくタイミングを合わせられれば、攻めてきたサータマン軍を我々とロムド軍で挟み撃ちにできるな」
とセシルが言いました。
ユギルはやはり何も言いません。
「ウ、ダン、エン、ル。シロ、ウ、イシリニナタノ」
と赤の魔法使いが言い、青の魔法使いが通訳しました。
「そう、状況に合わせて、ロムド城に残留している魔法軍団からも援軍を送る、と白が言っとります。最大二十五名ほどよこすつもりのようです」
「戦闘になれば天空の魔法使いの部隊も来るんだろう? ものすごい数の魔法使いだ」
とトーマ王子が感心すると、シン・ウェイが笑いました。
「その魔法使いの中に俺と王子も入っているんだぞ。俺たちは中庸(ちゅうよう)の術で参戦だ」
シン・ウェイはトーマ王子の護衛なのですが、王子の兄のような気分になっているので、今ではどこでもため口でした。王子のほうも慣れっこで、それこそ弟のようにちょっと口を尖らせて言い返します。
「ぼくの術なんてたかがしれてるじゃないか。ぼくは自分で術を生み出すことができない。呪符を読むことしかできないんだからな」
「そりゃ俺が作った呪符の威力が弱いからだ。あんたのせいじゃない。俺はラク殿のような強力な術師じゃないからな」
シン・ウェイに名前を出されて、ラクがほほえみました。
「ザカラス皇太子が中庸の術を使えるようになったことは、我々の間では大変な驚きで語られております。なにしろ判別するのも発音するのも難しい古代ユラサイ文字を、ごく短期間で覚えて読んでいるのですから、実に優秀であられる。中庸の術の使い手にも、呪符を読むのが得意な術師と、呪符を作るのが得意な術師がいて、読むのが得意な術師の中には呪符を他人に作ってもらっている者がおります。皇太子殿下もそう割り切ればよいのです──。のちほど、わしが作った呪符をいくらかお届けしましょう。シン・ウェイの呪符と一緒にお使いになるとよろしい」
「本当か!? ありがとう、感謝する!」
とトーマ王子は目を輝かせました。感謝のことばがすんなり出てきたので、やりとりを聞いていたゼンが笑いました。
「いいじゃねえか、トーマ王子。昔はありがとうのあ、の字も言えなかったような奴だったのによ」
「な、なんだと!? ぼくを侮辱するつもりか! 失敬な!」
「褒めてんだよ。素直に喜べ」
恥ずかしさから昔の高飛車が顔を出しかけた王子をゼンがいなします。
そこへ入り口の外から、ワン、と犬が吠える声がしました。だめよルーピー、とたしなめる声も聞こえてきます。
トーマ王子は目を見張り、入り口へ飛んでいって扉を開けました。薔薇色のドレスの少女が立っていたので、ぱっと赤くなります。
「やっぱりメーレーン姫……。どうしてこんなところに?」
王女はドレスの裾をつまんで会議室の一同へお辞儀をすると、トーマ王子に話しかけました。
「メーレーンは朝食がすんだので、お散歩のお誘いに来ておりました」
「ぼ、ぼくを?」
「はい。メーレーンだけでなく、ルーピーもトーマ王子がご一緒だと喜びますから。でも、お話し合いの最中でしたから、このまま失礼しようと思ったら、王子のお声にルーピーが喜んで吠えてしまいました」
ルーピーが王子の脚にすり寄って尻尾を振ったので、トーマ王子はまた真っ赤になりました。す、すみません、と会議室の面々に謝ります。
オリバンはまた頭痛がするように頭を抱えていましたが、セシルは優しくほほえんで言いました。
「メーレーン姫、ちょうどトーマ王子に関係がある話が終わったところでした。一緒に散歩されるといいでしょう。よろしいでしょう、ニーグルド伯爵?」
と補佐役の貴族に確認します。
「え、で、でも……」
とトーマ王子はとまどいましたが、メーレーン姫のほうは顔を輝かせました。
「まあ、嬉しい! メーレーンはちょうどいいところに参りましたのね!」
と、にこにこしながら王子を見上げます。
いやでも……と赤い顔でまだためらっている王子に、フルートも笑顔で言いました。
「行ってきていいですよ。メーレーン姫はこのハルマスの陰の功労者です。毎晩みんなのために一生懸命歌ってくれてるんだから、散歩くらい思いどおりにしてもらいましょう」
そこで、トーマ王子とメーレーン姫は、ルーピーとシン・ウェイをお供に部屋を出て行きました。
ニーグルド伯爵が一同へ深々と頭を下げて詫びました。
「皇太子殿下がわがままを申し上げて申し訳ありませんでした。この後の相談の内容については、私がしかと承りますので」
「いや、わがままを言っているのは我が妹だ。トーマ王子には妹につき合わせてしまって申し訳ない」
とオリバンが謝り返します。
「トーマ王子はきっと迷惑なんて思ってないよね」
「うん。絶対喜んでると思うわ……」
メールとポポロがこっそり話し合い、部屋全体がなんとなくほのぼのした空気に包まれます──。
けれども、それもつかの間のことでした。
「次はわたくしの番でございますね」
とユギルが言ったので、部屋の全員はたちまち真剣な顔で銀髪の占者に注目しました。
「サータマン軍の動きを把握できたと言いましたよね? ロムドのどのあたりまで来ましたか?」
とフルートが尋ねると、占者は首を横に振りました。
「まだそこまで到達しておりません。今ようやくサータマン国を抜けて、ミコン山脈に足を踏み入れたところでございます」
それを聞いて、一同は驚きました。
「サータマン軍は半月前に都から出陣したはずだ。第一陣はとうの昔にミコン山脈を突破したのではなかったのか?」
とオリバンが確かめると、犬たちも言いました。
「ワン、そうですよね。第一陣はすごく速かったから、きっと疾風部隊だろうって話し合っていたのに」
「疾風部隊ならとっくにミコン山脈を越えてるはずよ」
フルートは少し考えてからまた尋ねました。
「ひょっとして、ミコンの魔法使いたちが敵を足止めしてくれたんですか?」
「いいえ、勇者殿。大司祭長が武僧軍団や聖騎士団を率いて同盟軍に参戦されたので、ミコンには都を守る最低限の魔法使いしか残っておりません。サータマン側の麓まで下りて戦闘をするような力はないのでございます」
というのがユギルの返事でした。
では、どうして? と全員が不思議に思うと、占者は厳かに続けました。
「ミコン山脈の味方が、わたくしたちの時間稼ぎの手助けしてくださったのでございます」
「だが、ユギルは今、ミコンの聖職者たちにサータマン軍と戦う力はない、と言ったではないか!?」
とオリバンがまた聞き返しました。わけがわからなくなっています。
「ミコン山脈には、神の都以外の場所にも味方がいるのでございます。勇者殿たちと縁ある方々のご協力です」
とユギルは遠いまなざしで静かに言いました──。