深夜。
ハルマスの砦は静まりかえっていました。
門の前では夜通しかがり火が焚かれ、砦の中もあちこちに灯りがともっているので、完全な暗闇ではありませんが、見張り以外は皆寝ている時間帯なので、砦全体が静寂に包まれています。
月のない夜でした。空が曇っているので星も見えません。わずかな灯りに照らされて砦はほの赤く光っていました。その後ろにはリーリス湖があるのですが、真っ暗闇なので、どこまでが夜でどこからが湖なのか判別できません。
そんなハルマスへ音もなく忍び寄る人影がありました。地上ではなく空を飛んで近づいていきます。夜の中に白く浮かぶ細身の男──幽霊のランジュールです。
やがてランジュールはふわりと停まると、腕組みしてハルマスを眺めました。
「うん、確かにかなぁり頑丈に守ってるよねぇ。あの城壁……じゃない、防壁？ には光の魔法が流してあるしぃ、砦の中からも光の魔法の気配が濃厚だよねぇ。天の魔法使いたちが守りを固めたんだろぉなぁ」
実際に光の魔法の防壁を巡らしたのは、天空の国の貴族たちではなく、ヒムカシからやってきた妖怪たちだったのですが、ランジュールにはそんなことはわかりません。まだハルマスまで距離があって声を聞きつけられないのを良いことに、ひとりごとを言い続けます。
「あったりまえなんだけど、闇王サマにもらった魔獣は闇の怪物なんだよねぇ。あそこには勇者くんも皇太子くんもいるらしいから、魔獣を盛大にプレゼントしてあげたいんだけどさぁ。これだと砦に入り込むだけで、みぃんな大怪我しちゃうよねぇ。このあと闇王サマの軍隊も攻めに来るんだけど、それも入れないよねぇ。困ったよねぇ」
困ったと言いながらも、ランジュールはあまり困ったような顔をしていませんでした。空中にふわふわ浮いたまま腕を組み脚も組んで、まるで安楽椅子に座っているような格好でハルマスを眺めています。
すると、シ、とすぐそばから声がして、大蜘蛛の幽霊がランジュールの肩先に姿を現しました。身を乗り出して主人の顔をのぞき込みます。
うふん、とランジュールは笑いました。
「久しぶりだったねぇ、アーラちゃん。最近出てきてくれないから、具合でも悪いのかと心配してたんだよぉ。元気でいてくれて良かったぁ」
シ、シ、シ、と大蜘蛛のアーラは鋭く鳴きました。抗議するような声だったので、ランジュールは目を丸くしました。
「えぇ？ 自分の出番がなくなったから落ち込んでたんだってぇ？ どぉしてそんなこと思ったのさぁ。アーラちゃんはボクの大事なペットなのにさ……え、闇王サマが強い魔獣をいっぱいくれただろぉって？ やだなぁ、アーラちゃんったら、やきもち妬いてたのぉ？ うふふ、かわいいなぁ」
シシシシシシ！！ アーラは鋭く鳴き続けました。人間の女性のことばに翻訳したら、さしずめ「ばかばかばかばか！！」と怒っているような感じです。
「ごめん、ごめぇん、アーラちゃん」
とランジュールは笑いながら謝り、大蜘蛛の頭を撫でて言いました。
「ボクがいっちばん大好きでいっちばん頼りにしてるのは、もちろんアーラちゃんだよぉ。でもね、あの光の軍団の砦を攻撃するには、闇王サマからもらった魔獣を使うほぉがいいんだなぁ。だぁって、あそこには勇者くんたちがいるし、光の魔法使いもいっぱいいるからねぇ。そぉんな危険な場所に大事なアーラちゃんを送り込むなんてできないよぉ。ふふふ」
大蜘蛛はたちまち機嫌を直しました。嬉しそうにランジュールの肩に収まり直すと、シ？ とまた鳴きました。今度は尋ねるような声です。
「これからどぉするのかって？ もっちろん、あれを破って砦に魔獣を送り込むよぉ。これから来る闇王サマたちが攻めやすいよぉにしておかなくちゃねぇ」
シ、シ？ とアーラはまた鳴きました。どうやって？ と尋ねたようです。
「うふん。お邪魔なのはあの防壁。もっと言えば、あそこに流れてる光の魔法だからねぇ。あれをなくしちゃえばいいってこと──あのコたちでねぇ」
ランジュールが振り向くと、暗がりの中で地面が急に盛り上がり始め、土の中から次々と生き物が這い出してきました。カブトムシくらいの甲虫ですが背中に生きた目がひとつついています。
「ね、わかったぁ、アーラちゃん？ 闇虫の団体さんを連れてきたんだよぉ。闇虫のご馳走は光の魔法だからねぇ。これで砦の防壁を食い破って、そこから魔獣を送り込むってわけ。いい作戦だろぉ？」
夜の大地からは無数の闇虫が這い出していました。地面が真っ黒に埋め尽くされるほどの数ですが、あたりが夜に包まれているので、ハルマスの砦からは見えません。
「さぁて、それじゃそろそろ行こっかぁ」
とランジュールは椅子に座った格好から身を起こしました。闇虫の大群をまた振り向いて言います。
「いぃい？ 狙いはあそこ、光の砦だよぉ。みんなが大好きな光の魔法がたんとあるからねぇ。食べて食べて、お腹いっぱい食べたら分裂して増えて、魔法をぜぇんぶ食べ尽くすんだよ。じゃぁ、しゅっぱぁつ！！」
ランジュールが大袈裟な身振りで手を振ると、ザザザーッと雨のような音を立てて闇虫の大群が突進を始めました。向かう先は夜にぼんやり浮かび上がっているハルマスの砦です。
ランジュールもアーラを肩に乗せたまま空を飛び始めました。闇虫と一緒に砦を目ざしながら命令を続けます。
「防壁に着いたら、いくつかのチームに分かれるんだよぉ。敵さんに気がつかれても、全部一度には倒されないよぉにね。だいじょぉぶ。あそこには光の魔法がたぁっぷりあるから、減らされたって、すぐまた数が増えるからね──どぐぇ！！」
ランジュールが突然変な声を上げて吹き飛びました。行く手に目に見えない何かがそびえていて激突したのです。
大蜘蛛のアーラも肩から吹き飛ばされますが、くるりと宙返りすると、蜘蛛の糸をパラシュートにしてふわふわと降りました。着地すると、踏み潰されたカエルのように地面でぺったんこになっていたランジュールに駆け寄ります。
「あいたたたぁ……」
ランジュールは平たくなった体で起き上がりました。幽霊なので怪我などはありません。ぶるっと全身を震わせてまた元通りの姿になると、いぶかしそうに行く手へ腕を伸ばします。
「あいたっ！」
また見えない何かに手を弾かれて、ランジュールは声を上げました。今度は脚を伸ばしてつま先でつんつんと行く手を確かめ、口を尖らせます。
「見えない壁があるよねぇ。しかもこれって幽霊専用だよ。やだなぁ、なんか覚えがあるよ、これぇ」
ランジュールがぶつぶつ言っていると、行く手に淡い光が湧き上がって、二人の人物が現れました。黒みがかった薄い紫の長衣を着た男性と、濃い紫の長衣を着て黄色い巻き毛に細い紫のリボンを結んだ幼い少女です。少女は男性の右肩に座って、男性の頭に片腕を回しています。
ランジュールはげんなりした表情になりました。
「やっぱりキミだったのかぁ。幽霊専門のお嬢ちゃん」
「あたしの名前は紫の魔法使いよ。そしてこっちは鳩羽（はとば）の魔法使い。覚えなさいよ」
と少女が大人びた調子で言いました。二人はロムドの魔法軍団に所属する魔法使いなのです。
ランジュールはますます嫌そうな顔になりました。
「ボクはキライな人の名前は覚えないことにしてるんだなぁ。お嬢ちゃんはボクの邪魔ばっかりするからキライだよ。だいたい、どぉしてキミたちがここにいるのぉ？ 都のお城にいるとばかり思ってたのにさぁ」
「もちろん、あなたを退治するために派遣されてきたのよ。さあ、おとなしく黄泉の門をくぐって死者の国へ行きなさい！」
少女が右手を伸ばすと白い柳の杖が現れ、先端から紫の星が飛びました。ランジュールを直撃しようとします。
「うぁっとっとっとぉ……！」
ランジュールは大きく体をよじって攻撃をかわしましたが、少女が続けざまにまた星を撃ったので、ひぇっと叫びました。体勢を戻せなくてよけきれなかったのです。魔法の星を食らいそうになります。
すると、大蜘蛛のアーラが糸を飛ばしてランジュールを絡め取りました。引き寄せて攻撃から守ります。
ランジュールは大蜘蛛にひしと抱きつきました。
「あああ、ありがとぉぉ、アーラちゃん！ おかげで命拾いしたよぉ！ さすがはボクのパートナーのアーラちゃん！」
「命拾いって、あなたもう死んでるじゃない！ そっちの蜘蛛もよ！ 死者はおとなしく死者の国に行きなさいってば！」
と少女は立て続けに星を繰り出しましたが、大蜘蛛はランジュールをしがみつかせたまま、素早くそれを避けていきました。距離が開いて星が届かなくなると、いきなり振り向いて少女へ大量の糸を吐きかけます。
「おっと、紫に手出しはさせないぞ」
と鳩羽の魔法使いが手を上げました。とたんに蜘蛛の糸が薄紫の障壁にさえぎられて霧散します。
「アーラちゃん、バックバック！ もっとバック！」
とランジュールが大蜘蛛を後ろへ引っ張ったところへ、薄紫の障壁が光の槍に変わって襲いかかってきました。アーラが飛び退いたあとの地面に突き刺さり、閃光を放って消えていきます。
「まぁったくもぉ。キミってお医者さんのハズだよねぇ。それなのに攻撃も得意なんだから、ホントずるいよねぇ」
「ぼくだって魔法軍団の一員だからね。それにぼくは紫の護衛役だからね」
と鳩羽の魔法使いは答えました。その胸には医者の神ソエトコの象徴が揺れています。
ランジュールはアーラと一緒にさらに後ずさりました。
「うぅん、これはまずいよねぇ。絶体絶命、逃げたほうがいいかしらんねぇ、アーラちゃん？」
とアーラを振り向きますが、その瞬間、行く手を横目で見て口の端でにやりと笑いました。細い目がきらりと光ります。
すると、行く手の夜の中、鳩羽や紫の魔法使いよりもう少し砦に近い場所で、次々明るい光が湧き上がりました。何もなかった地面が急に光り出したのです。
光に照らされて無数の黒い集団が浮かび上がりました。吸い寄せられるように光に群がっていく様子が見えます。
紫の魔法使いが振り向いて顔をしかめました。
「やだっ！ 何よあれ！？」
「闇虫の集団だ。砦の防御の魔法を食い破らせようと、ランジュールが送り込んでいたんだ」
と鳩羽の魔法使いが答えます。
ランジュールのほうは明るくなった野原に目を丸くしていました。
「なになに、あれぇ？ 光の魔法？ でも攻撃力も防御力も、なんにもない魔法だよねぇ？ なんであんなもの仕掛けておいたのさぁ？」
魔法はただ野原のあちこちを光らせるだけだったので、闇虫は平気でそこに集まっていました。大好物の光の魔法があふれているので、群がって食い始めます。
「ひょっとして防御魔法のかけ損ないかなぁ？ だったら闇虫たちのちょぉどいいご飯になって嬉しいけどなぁ」
そう言いながらもランジュールはまだ怪訝（けげん）そうでした。闇虫は光の魔法を食いながら分裂を始めていました。ぞくり、と数が増えると、また光に群がって食い進んでいきます。
「やだ！ すごい数よ！ 早くなんとかしないと！」
紫の魔法使いが焦っていると、どこからか野太い声がしました。
「心配は無用。そら──！」
どん！！
いきなり地響きがして、地面が光っていた場所にぽっかり穴が開きました。光に群がっていた闇虫がいっぺんに中に落ち込んでしまいます。
ああっ！？ と驚いたランジュールは、空中に現れた三人目の魔法使いにまた驚きました。
「あぁあ、キミって、ロムド城の四大魔法使いの──！」
青い長衣を着た武僧がそこにいたのです。
青の魔法使いは、じろりとランジュールをにらんでから、地面の穴へこぶだらけの杖を振りました。たちまち穴の中が赤く光って、大きな炎が次々吹き上がってきます。
ランジュールは悲鳴を上げ、地面から飛び上がって空中を跳ね回りました。
「なんてこと！ なんてこと！ 闇虫を全部焼いちゃったねぇ！？ 餌で呼び寄せて穴に落とすなんてぇ！ ひどいひどいひどい……！！」
金切り声でわめくランジュールのすぐそばに、鳩羽の魔法使いが現れました。肩には黄色い巻き毛の紫の魔法使いが乗っています。
少女はまた柳の杖を突きつけました。
「さあ、今度こそ観念して死者の国に──」
うひゃぁ、と素っ頓狂な声を残して、ランジュールは姿を消していきました。幽霊蜘蛛のアーラも一緒です。
少女は頬を膨らませて口を尖らせました。
「またあいつに逃げられちゃったわ。こんどこそ引導を渡したかったのに」
そこへ青の魔法使いがやってきて声をかけました。
「いやいや、上出来だったぞ、二人とも。ランジュールと闇虫を見事撃退したからな」
部下たちの前なので、話し方が普段と少し違っています。
鳩羽の魔法使いは上官に一礼してから、まだ燃えている野原の穴を振り向きました。
「何もかも勇者殿のおっしゃっていたとおりでしたね。本当にランジュールがやってきたし、闇虫で砦の防御を破ろうとしました」
「え、これって勇者様の作戦だったの？」
と何も知らなかった少女が驚きます。
青の魔法使いはうなずきました。
「そうだ。ランジュールが闇王に協力していると知って、闇王より先にこの砦を攻撃してくるだろうと予想されたのだ。光の防壁を闇虫で破ろうとしてくるだろう、という予想も当たった。だから、餌を仕掛けて闇虫を一網打尽にする作戦がうまくいったのだ」
へぇぇ、と少女はまた驚きました。
「勇者様ってただの人間のはずよね？ 魔法使いでも占者でもないのに、どうしてそんなにいろいろわかるのかしら。すごいわ」
少女がとても感心したので、青の魔法使いはちょっと笑いました。
「確かに勇者殿はすごい。軍師並みの頭脳を持っているともっぱらの噂だ。だがな、紫、勇者殿にはもう心に決めた方がいらっしゃるのだから、勇者殿を好きになってはいかんぞ」
紫の魔法使いはたちまち真っ赤になりました。上官をにらんで言い返します。
「あたしは勇者殿なんて好きになったりしません！ あたしは大きくなったら、鳩羽の奥さんになるんですから！」
お？ と青の魔法使いは鳩羽の魔法使いを見ました。
「紫はいくつだ？ 鳩羽は？」
鳩羽の魔法使いは苦笑いで肩をすくめました。
「紫は八つ、ぼくは三十四です。まあ、こんなふうに言ってもらえるのは、せいぜいあと一、二年のことでしょう」
「あたしは本気だったら！ だから、あたしが大人になるまで、鳩羽は誰とも結婚しちゃだめなのよ！」
と少女はむきになって言い張り、小さな脚で鳩羽の胸を蹴ります。
二人の大人は笑ってそのやりとりを終えると、改めて周囲を見回しました。
「闇虫はこれで全部退治できたでしょうか？」
「罠をまぬがれた奴がいるかもしれんな。一匹でも残っていると、そこから増えて防御を食われる。明け方まで徹底的に調べるとしよう」
「承知しました──。紫、ランジュールは今夜はもう来ないだろうから、君は砦に戻って寝ていいよ」
鳩羽からそんなふうに言われて、少女はまた怒りました。子ども扱いされたと感じたのです。
「あたしも一緒に調べるわよ！ あたしだって魔法軍団の一員なんだから！ 降ろしてよ！」
と、かがんだ鳩羽の肩から飛び降ります。
鳩羽の魔法使いと青の魔法使いは顔を見合わせて、やれやれ、と苦笑いしました。子どものことだからしかたない、と目と目で言い合っています。
少女はますますふくれっ面になりました。
「みてなさい。将来絶対にステキな女性になってやるんだから」
とつぶやくと、闇虫を見つけ出すために、夜目が利くミミズクの霊を呼び出しました──。
