その朝、フルートはポチと一緒にハルマスの砦を巡回していました。まずポチに乗って砦の防塁と湖の防御網の上を飛び、異常がないのを確認してから砦の中に降りて、歩いてあちこちを見て回ります。
エスタ軍が兵舎にしている建物の前を通りかかると、入り口の階段に大柄な男が座っていて、白いライオンのたてがみをすいていました。オーダです。フルートたちを見て、よぉ、と櫛(くし)を持った手を上げます。
「早くからご苦労だな。朝飯前なのに、もう見回りか?」
「朝食の後に会議があるから今のうちにね」
とフルートは答えて、吹雪の白いたてがみをなでてやりました。吹雪が猫のようにゴロゴロと咽を鳴らします。
フルートは金の鎧兜を身につけていますが、オーダのほうはまだ私服姿でした。立ち上がって二度三度と体を伸ばし、肩を回してウォーミングアップしながらフルートに話しかけます。
「間もなくここに闇の軍勢が攻めてくるんだってな。敵さんはどのへんまで来てるんだ?」
「今はまだイシアードにいるみたいだ。駐屯していたエスタ軍からイシアード王を奪い返して、イシアード城に滞在していることまではわかったよ。でも、なにしろ闇王の軍勢だからね。動き出したら、あっという間にここまで攻めてくるだろう」
「イシアードに行ってたのは、うちの国王軍だったな。自分たちが貴族の出なのを鼻にかけていつもいばっていたんだが、闇王にこてんぱんにやられちまったってわけか。まったく情けないな──。おい、フルート、今度は俺たちエスタの辺境部隊にも出番をよこせよ。前回は兵站(へいたん)部隊の護衛だったし、途中でハルマスに引き返したから、俺たちにゃ出番がまったくなかったんだ。俺たちは傭兵だから、戦果を出さんことには給料が上がらないんだ」
「闇王の軍勢が攻めてきたら、きっと激戦になる。エスタ軍の本隊はまだ闇の森にいるし、オーダたちの部隊にも活躍してもらうことになると思うよ」
「おう、そう来なくちゃな」
とオーダは言って笑いました。階段に立てかけてあった大剣を取り上げて、ぐっと前に突き出して見せます。
そこへ宿舎の中からオーダを呼ぶ声がしました。朝食の準備ができたのです。
「今朝の飯当番は誰だ?」
とオーダが尋ね、返事の名前を聞いてすぐに階段を上がり始めました。
「あいつの飯はうまいから、ぐずぐずすると他の連中に食われちまうんだ。じゃあな、フルート。戦闘が始まったらまた会おうぜ」
と吹雪を連れてたちまち建物に消えていきます。
「ワン、オーダは相変わらずですね」
とポチが言ったので、フルートはほほえみました。
「激戦を前にして張り切ってくれてるんだから、ありがたいよ」
彼らはさらに歩いて病院の前までやってきました。修道院のような造りの建物ですが、中には魔法医や魔法医の卵が大勢いて、戦闘で負傷した人たちの手当てをしているのです。ハルマスにはそんな病院が通り沿いにいくつも並んでいました。
フルートたちがその前を通り過ぎようとすると、中から修道女が出てきてフルートとぶつかりそうになりました。山のような洗濯物を抱えていたので、前がよく見えなかったのです。
「あら、これは金の石の勇者様。失礼しました」
と修道女は言いました。フルートのほうがはるかに年下ですが、丁寧な口調です。
「患者の洗濯物ですね。まだ大勢いるんですか?」
とフルートは尋ねました。
「もうそんなにはおりません。大勢が治療を受けて元気になりましたからね。勇者様の出番はございませんよ」
修道女に釘を刺すように言われて、フルートは苦笑しました。以前フルートは負傷した兵士たちを金の石で治そうとして、力を使い果たして倒れたことがありました。またそんなふうになると大変だから勇者様は手を出さないでください、と言われているのです。
「近いうちにまた大きな戦闘が起きます。負傷者も前回以上に出てしまうかもしれないので、よろしくお願いします」
とフルートが言うと、修道女はにっこり笑いました。
「もちろんです、勇者様。私たちはそのためにここに遣わされているのですからね」
病院の魔法医や患者の世話をする修道女や修道士は、直接戦場で戦うようなことはありませんが、大事な砦の一員でした。
山のような衣類やシーツを抱えて、修道女が水場のほうへ歩いて行きます。
すると、今度はどこからか、ぷんと、とても良い匂いが流れてきました。朝食の時間帯なので砦のあちこちからおいしそうな匂いが漂ってくるのですが、ひときわ良い匂いがフルートとポチの鼻をくすぐります。
匂いのするほうを見て、ポチが言いました。
「ワン、あそこにいるの、ハルマスの漁師さんたちですよ」
「本当だ。それに、一緒にいるのって、ヤダルドールの町の人たちじゃないか?」
十数人の男たちが宿舎になっている建物の前に集まっていたのです。外に作られた竈(かまど)を囲んで何かを焼いています。
「ワン、魚の匂いですね。それから貝と芋と──」
とポチが匂いで食材を当てていると、男たちのほうでも気がついて手を振ってきました。
「勇者の坊ちゃん方! おはようございます!」
「お二人だけですか? こっちで朝飯はいかがです?」
彼らは犬のポチもちゃんと勇者の一員として見てくれています。
フルートたちはそちらへ歩いて行きました。竈では火が赤々と燃え、魚や野菜がじゅうじゅう音を立てて焼けています。
日焼けした漁師たちが話しかけてきました。
「うまそうでしょう? 今朝、わっしらが湖から獲ってきた、新鮮獲れたてのヒメマスでさ」
「こっちは、うちのかかぁの畑で穫れた芋とカブですよ。で、こん人たちが面白い料理を知ってるって言うんで、作ってもらってるんでさ」
と一緒にいるヤダルドールの男たちを示したので、今度は彼らが話し出しました。
「面白いと言っても、我々の国では普通に食べられているものなんですけどね」
「勇者の皆さんも、うちの町にいたときに食べたことがあるでしょう? 揚げパンですよ」
竈に渡した網の上には浅い鍋もかけてあって、熱した油の中で大きな丸いパンが揚げられていました。揚げたての熱々が皿に載せられ、はいどうぞ、と漁師やフルートたちに差し出されます。
「ワン、ほんとに揚げパンだ。これおいしいんですよね」
「ヤダルドールでは辛いソースもよく出ましたよね」
とポチとフルートが言うと、別の鍋で温められていた赤いソースがさっと差し出されました。
「もちろん、ありますよ。揚げパンにはこれがなくちゃね」
「なんだいこりゃぁ?」
「真っ赤っかじゃないかね」
とハルマスの漁師たちがさっそく揚げパンをちぎってソースにたっぷりひたし、ぽんと口に放り込みました。あっという間でフルートたちが止める暇もありませんでした。たちまち、辛い辛い! 口が燃える! と大騒ぎが始まります。
「唐辛子がたっぷり入ったソースなんです。でも、ロムドでは唐辛子は食べられてないですからね。ほんの少しつけるだけでいいんですよ」
とフルートは言い、揚げパンをちぎって唐辛子のソースに少しだけひたしました。口に入れると、パンのほんのりした甘さと唐辛子の刺すような辛さが絶妙に絡み合って広がります。
「うん、おいしい」
「でしょう? この材料だけはヤダルドールから持ってきたんですよ。これがなくちゃ俺たちの一日が始まりませんからね」
とヤダルドールの男たちは胸を張ります。
ハルマスの漁師たちも、今度は慎重に少しだけソースをつけて口に運び、うん、うまい、と言い出しました。
「辛いがうまいな。こりゃあ酒がほしくなる」
「朝っぱらから飲むわけにゃいかんなぁ」
「わっしらが持ってきた魚や芋につけてもうまいぞ。あんたらもやってみろ」
と漁師たちに言われて、今度はヤダルドールの男たちが、どれどれ、と焼き上がった魚や芋に手を出します。
「なるほど、これはいい」
「確かに芋にも合うな」
「揚げパンに魚とカブを載せると最高だぞ」
「パンがもうないな。早く次を作ってくれ」
竈の周りがますます賑やかになっていきます。
フルートとポチは楽しそうな一同に別れを告げてその場を離れました。また歩きながら話します。
「ワン、漁師さんたちはロムド人だし、ヤダルドールの人たちはカルドラ人だけど、もうすっかり仲良しなんですね」
「湖に防御網を張るときに協力したからかな。なんだか嬉しいね」
カルドラはサータマンの同盟国なので、カルドラ人は敵国の人間ということになるのですが、ハルマスではそんなことはまったく関係ありませんでした。一緒に闇と闘いハルマスを守っていれば味方で友だちなのです。
「ワン、この戦いが終わったら、ロムドでもカルドラの料理がはやるかもしれませんね。ぼくは唐辛子は苦手だけど、揚げパンはまた食べたいな」
とポチが笑います。
彼らはそろそろ砦の外れまで来ていました。通りの先に門があって、分厚い扉が閉められています。ハルマスの西の門です。
門の見張りに会釈で挨拶をしてから、向きを変えて南へ進んでいくと、間もなく砂浜に出ました。リーリス湖が朝日にちらちら光りながら、小さな波を岸に寄せています。
すると、ポチが耳を動かしました。
「ワン、音楽が聞こえますよ?」
「え、音楽?」
とフルートも驚きました。耳を澄ますと、確かに砂浜の先の林から楽器の音が聞こえてきます。こんな朝早くに誰だろう、と彼らは林に入り、三人の兵士が演奏しているのを見つけました。それぞれに縦笛と柄の長い弦楽器と小さな竪琴を持っています。
兵士たちは地面に座り込んで熱心に演奏していましたが、ひとりが顔を上げ、たちまち演奏をやめて立ち上がりました。
「こ、これは金の石の勇者殿!」
えっと他のふたりも演奏をやめ、フルートたちを見て飛び起きました。そうやって立ったところを見ると、彼らは別の国の兵士たちでした。ひとりはロムド軍の、ひとりはザカラス軍の、もうひとりはテト軍の防具を着けています。
「演奏のお邪魔をしてすみませんでした」
とフルートが丁寧に謝ると、兵士たちは恐縮して言いました。
「邪魔だなんてとんでもない」
「こんな時間に練習して、こちらこそ申し訳ありません。ただ、ここしか時間がなくて」
「できるだけ迷惑にならないように、湖に来ていたんですが──」
「みなさん別の国の人同士ですよね。一緒に練習していたんですか」
とフルートが言うと、三人は照れたような顔になってうなずきました。
「実はメーレーン様の歌の伴奏をしたいと思っていまして」
「メーレーン姫の?」
「はい、毎晩食事のときにメーレーン様がうたってくださるんですが、砦のみんなが大喜びで聴いていまして。それなら姫様がうたいやすいように伴奏をつけて差し上げよう、ということになって、楽器を持ってきていた我々がこうして練習していたんです」
とロムド軍の兵士が笛を見せたので、へぇっ、とフルートとポチは感心しました。
「メーレーン姫の歌はそんなに人気なんですか?」
「そりゃあもう!」
と熱心にうなずいたのは、ザカラス軍の兵士でした。手にした竪琴をつま弾いて言い続けます。
「姫様は砦にいる人間の故郷の歌をよくご存じなんです! ザカラスの民謡も、子守歌も! そりゃあお上手だ!」
「テトの祭り歌もうたってくださいます! ただ、あの歌は楽器がないとリズムをとるのが難しいから、これで手伝って差し上げようと思って!」
とテト軍の兵士も自分の楽器をたたいて見せました。リュートに似ていますが、もっと柄が長くて洋梨を半分に切ったような共鳴体がついています。サジという、テト独特の楽器だという話でした。
そこへ砦の中のほうから銅鑼(どら)の音が聞こえてきました。角笛の音も響きます。朝食の合図です。
兵士たちがあわてて帰り支度を始めたので、フルートは言いました。
「がんばってくださいね。皆さんがメーレーン姫と演奏するときには聴きに行きます」
「そりゃぁ光栄です!」
「今夜、初めて伴奏する予定なんです。砦の中央の大食堂で」
「よければ勇者殿たちも聴きに来てください」
と兵士たちは照れながら口々に言い、フルートたちへ敬礼してから、それぞれの宿舎へ引き上げていきました。楽器を抱えて帰っていく後ろ姿は、なんだかとても楽しそうに見えます。
それを見送って、ポチとフルートは話し合いました。
「ワン、いつの間にか砦の人たちはみんな仲良くなっていたんですね」
「それも最近のことのような気がするな。もしかすると、本当にメーレーン姫のおかげなのかもしれない」
歌や音楽は国境を越えて人を楽しませることができます。メーレーン王女がうたう各国の歌を聴くうちに、兵士たちも国や所属の違いを超えて、同じ仲間同士という気持ちになってきたのかもしれません。
すると、湖の沖のほうから、びゅぅいっと鋭い口笛が聞こえてきました。
ポチは耳をぴんと立てました。
「ワン、ゼンたちが戻ってきましたよ!」
湖の向こう岸からこちらに向かって飛んでくる大きな鳥がいたのです。メールの花鳥です。
フルートとポチは手を振りながら、また湖の砂浜へ駆け下りていきました──。