その夜遅く。
作戦本部の自室でユギルはテーブルの占盤にじっと目を落としていました。
部屋には彼以外誰もいませんでした。本部の中は兵士がひっきりなしに往来しているのですが、オリバンの命令でユギルの部屋には誰も近寄らなかったので、あたりはしんと静まりかえっています。
ユギルは溜息をつくと、顔にこぼれかかる長い銀髪をかき上げ、その手で占盤の表面を撫でました。すると、彼にしか見えない象徴が、拭われたように占盤の上から消え、また浮き上がってきました。方向や方角、時間や事象の関わりを示す線や模様に象徴が重なって、ユギルにこれからやってくるだろう未来を示してみせます──。
ユギルはまた深い溜息をつきました。
「やはり同じか」
とつぶやくと椅子の背にもたれ、部屋の天井を見上げてしまいます。
彼は先ほどから幾度となく占いをやり直していたのです。条件を変え、未来の行動を変え、何度も何度も占い直しているのですが、出てくる結果はほとんど変わりませんでした。それほど確実な未来だったのです。
「何故こうなるまで……」
ユギルはまた言いかけて唇をかみました。苦い後悔が心の中を充たしています。
ロムド城の一番占者、中央大陸随一の占い師、と評価される彼であっても、決して万能ではありません。この世界の動きをすべて把握できるわけではないし、特定のことについて深く占おうとすれば、おのずと占いが及ぶ範囲も狭まります。
彼はハルマスに来てから、主にイベンセの居場所を追ってきました。サータマンを離れたイベンセの象徴を世界に探し続け、ようやくイシアードにいることをつきとめたのです。それ以外のことにユギルが気がつけなくても、しかたのないことでしたが、やっぱり後悔に襲われてしまいます。
ユギルはそのまま天井を見上げていましたが、遠くで警備兵が就寝準備の角笛を吹き鳴らすのを聞いて、椅子から身を起こしました。
「占いの結果をお知らせしなくては……」
のろのろした動きで隠しから取り出したのは、磨き上げた白い球のような遠見の石でした。作動させて宙に浮かべると、じきに石から緊張した声が聞こえてきました。
「ユギル殿ですか。こんな時間にいかがなさいました? ハルマスで緊急事態ですか?」
ディーラのロムド城にいるリーンズ宰相の声でした。
こちらから向こうの様子は見えなくても、向こうからはこちらが見えています。ユギルは石へ首を振って見せてから、声を抑えて言いました。
「宰相殿、陛下はお近くにおいででしょうか? お伝えしなくてはならないことがございます」
それだけで宰相は何かを察したようでした。余計なやりとりはいっさいないまま、話し手はロムド王に代わりました。
「わしはここだ。ここにはわしとリーンズ以外は誰もいない。占いの結果が出たのか?」
「御意」
とユギルは頭を下げ、そのまま顔を上げられなくなりました。すぐ目の前の占盤にくっきりと浮かんでいる未来をどう伝えたものか、わからなくなってしまったのです。ユギルの部屋とロムド城の間で沈黙が流れます──。
すると、ロムド王がまた話しかけてきました。
「その様子からすると、ひどく悪い予兆であるようだな。どこの、誰に対する未来だ。勇者やオリバンたちに危険が迫っているのか?」
「それもございます……。今回の戦いが始まってから、勇者殿や殿下たちにはずっと凶暴な闇がつきまとっております。同盟軍の味方が駆けつけて共に戦っているので、それ以上近づくことができずにおりますが、隙を見せればそこから狙いを定めて襲撃してまいります」
だからこそ、ユギルは遠見の石を届けるという理由にこじつけて、このハルマスまでやってきたのでした。勇者の一行やオリバンたちに迫る闇の危険をいち早く察して払うために──。
「だが、それは以前からわかっていたことのはずだ。そなたがそれほど心配しているからには、新たな事態が起きるのだな?」
とロムド王は言い、彼がうつむいたまま黙っていると、静かに言いました。
「わしに死の予兆が現れたか」
ユギルは、ぎょっと顔を上げ、遠見の石越しにロムド王から見つめられているのを感じてたじろぎました。思わずまたうつむいてしまいます。
石の向こうからリーンズ宰相の仰天した声が響いてきました。
「ま、ま、まことですか、ユギル殿!? 陛下に何が起きると言われるのですか!? どうしたらそれを避けられると──!」
「落ち着け、リーンズ」
とロムド王は宰相をたしなめ、それでもユギルが黙っていると、急に厳しい声に変わりました。
「ユギル、そなたはこの国の一番占者だ。そなたには、この国に起きる出来事を、良いも悪いも包み隠さずわしに伝える義務があるのだ。知らせよ。わしはいつ、どのようにして死ぬのだ? これから何が起きる」
ユギルはうつむいたまま顔を歪めました。その脳裏をロムド王と過ごした過去の場面がよぎっていきます。王に見いだされてロムド城へやってきたときのこと。強情を張っていっこうに城になじまない彼を、宰相と共に守ってくれたこと。高い塔からロムドの平原を見せて「この国を守るために、そなたの力を貸してほしい」と言ってくれたこと。どんなときでも、どんな内容でも、彼の占いを必ず信じてくれたこと──。そんな王を父のように思って慕ってきた日々が、走馬灯のように流れます。
けれども、再びユギルが頭を上げたとき、彼はもう厳かな占者の顔に変わっていました。遠くから響くような声で話し出します。
「陛下のおっしゃる通りでございます。サータマン国から、かの国の王が軍を率いてディーラへ攻めてまいります。敵軍にはかの国に加担する諸国の兵も加わっております。ディーラは敵に包囲され、城下は火に包まれ、ロムド城は崩落いたします。ディーラをおおう戦火の中に、陛下の象徴が消えていくのが見えております」
サータマン王が! とまた宰相の声が聞こえてきました。動揺していますが、ロムド王のほうは自分が死を予言されても冷静な声のままでした。
「ディーラは我が国の都だ。そこに暮らす市民も守らねばならぬ。ディーラの壊滅を防ぐ手段はないのか?」
「へ、陛下のお命をお守りする方法はないのですか!? たとえば、ハルマスから勇者殿や殿下に駆けつけていただくというのは──!」
と宰相も必死で尋ねてきましたが、占者は首を振りました。
「ハルマスにも闇の軍勢が攻めてまいります。その状況で勇者殿や殿下にディーラを守ってもらうことはかないません。今から備えれば、ディーラとサータマン軍は互角に戦えることでしょう。ですが、たとえそうしたとしても、陛下につきまとう死の影は消えないのでございます」
そこまで話して、ユギルは頭を下げました。そのまままた顔を上げられなくなってしまいます。テーブルの占盤では繰り返し同じ未来が浮かんできていました。サータマン軍と激しく戦うディーラ。たとえ戦闘が互角になったとしても、王の象徴は戦火に消えていきます。それをあらかじめ知らせてしまえば、フルートやオリバンたちが王を助けに駆けつけます。そして、彼らも王と共に命を失っていくのです。
短い沈黙の後、ロムド王は静かに言いました。
「よく知らせた、ユギル。ただちにディーラの守りを強化しよう。リーンズ、ゴーラントス卿と白の魔法使いをここへ。ただし、わしに出ている予兆については絶対に他言無用。ユギルもだ。勇者やオリバンたちにも、ワルラにも、ディーラへサータマン軍が来ることを決して知らせてはならぬ。彼らには彼らの戦場があるのだ」
陛下……と宰相がつぶやく声が聞こえました。立ちつくしてしまっているようでした。
ユギルも顔を上げられずにいました。ロムド王が彼を見つめている気配がします。遠く離れたロムド城から、慈しむようなまなざしを彼に向けているのを感じます。
「申し訳ございません、陛下」
とユギルはうめくように言いました。占者としての声は、すでに彼から離れていました。
「わたくしがそちらへ戻れば、あるいは陛下のお命をお救いできるかもしれない、と占いには出たのでございます。けれども、それは……」
「そなたがハルマスを離れれば、勇者やオリバンが死ぬことになるのであろう。それはならん!」
と王はきっぱりと言い切り、何も言えなくなったユギルへ話し続けました。
「オリバンはこの国の未来、勇者たちはこの世界の未来だ。未来を守るために、彼らは生きねばならぬ。命令だ、ユギル。なんとしても彼らを守れ!」
「御意……」
とユギルは答えました。こうなることはわかっていたのですが、胸が潰れる想いがします。
すると、ロムド王は急に穏やかな口調になりました。
「それに、わしが死ぬとも限ったことではないであろう──。ユギルの占いは必ず当たるが、それでもユギル自身が言うではないか。戦争は移り変わりが激しいので、未来の姿も激しく変わっていくのだ、とな。運命の女神の機嫌次第では、わしも命拾いするかもしれぬ」
明るくそんなことを言うのは、自分のためではなく、宰相やユギルの心の痛みを軽減させるためでした。覚悟を決めている王の顔が、ユギルには見える気がします。
「承知いたしました」
とユギルは答えて、遠見の石の通信を切りました。それが限界でした。
ユギルは占盤に拳をたたきつけ、声を殺して泣き出しました──。