北の峰の南側の麓で、ドワーフの洞窟の正面入り口が開きました。
切り立った岩壁にはめ込まれた鉄の扉が真ん中から開いて、隙間からゼンの頭が出てきます。
ゼンはその格好で周囲を見回しました。夜が明けて、あたりは明るくなっていました。風向きも変わったので、煙が薄くなって見通しが利きます。山火事はまだ続いているのですが、このあたりに火は及んでいませんでした。
ゼンは洞窟を振り返って言いました。
「大丈夫だ。ベヒモスはこっちには来てねえぞ」
すると、扉が大きく開きました。ゼンとメールとルルを先頭に、大勢の村人が外に出てきます。背が低くて逞しい体つきのドワーフたちです。男だけでなく、女も大勢います。
そのとき、ドォン、と地面が大きく揺れたので、ドワーフの女たちは悲鳴を上げました。しっ、静かにしろ、と男たちが叱ったので、にらみ返して言います。
「しかたないじゃないか。一晩中、あんなのに揺すぶられてきたんだからさ!」
「洞窟が潰れるんじゃないかと、気が気じゃなかったんだよ!」
「あたしゃ悪酔いしたみたいに気分が悪いよ」
メールも地下で同じように怖い思いをしていたので、無事外に出られて、ほっとしていました。まだ少し青い顔をしています。
洞窟を脱出した村人たちは百人あまりもいました。しんがりにドワーフ猟師たちが出てくると、ゼンは言いました。
「風が南から吹いてるから、今のうちに移動できるぜ」
「まず安全な場所へ避難だ。風が変わらないうちに行くぞ」
と答えたのはビョールでした。他の猟師たちに合図をして村人を囲み、ビョールを先頭に歩き出します。
洞窟の正面入り口の前には道が延びていて、人間の住む場所へ続いているのですが、彼らはその道をたどりませんでした。萌える若葉に薄緑色に染まった森を進んでいきます。
ルルがゼンに尋ねました。
「道を通らないの? 歩きにくいんじゃない?」
「道は高い場所から見えるから目立つんだよ。ベヒモスに見つかるかもしんねえからな」
とゼンは言ってから、首を傾げました。
「とはいえ、親父はみんなをどこへ連れて行くつもりなんだ? 山から離れねえと、火が来るかもしれねえってのに、逆に登ってるぞ」
ビョールは村人たちを先導して、山の斜面を登りだしていたのです。若者から中年までの男女の集団で、老人や子どものドワーフは混じっていません。
ルルは洞窟を振り向きました。
「残った人たちは大丈夫かしら? 煙が入り込まないといいんだけど」
「星の花を残してきたから大丈夫だよ。留守の間、洞窟を守るって言ってくれたからさ。さ、あたいたちも行こうよ」
とメールが言いました。青かった顔が、ようやく普通の顔色に戻っています。
ところがそのとき、先を行く集団の中で大きな悲鳴が上がりました。女だけでなく男も叫んでいます。
同時に、ウォンオンオン!! と犬が吠える声も聞こえてきました。
ゼンたちは、はっとしました。
「やっぱり待ち伏せしてやがったか!」
「あれ、ただの犬の声じゃないわよ!」
「怪物かい!?」
口々に言いながら、騒ぎのほうへ駆け出します──。
森の中でドワーフたちに襲いかかったのは、十数頭の大きな犬でした。全身真っ黒な毛におおわれていて、目も鼻先も黒いので、犬の形の影が動いているように見えます。
ビョールたちドワーフ猟師は仲間を守って刀を抜き、飛びかかってくる犬に切りつけました。影のように見えても実体はあるので、切られれば悲鳴を上げるし、紅い血しぶきも飛びます。が、その傷はみるみる治っていきました。猟師のひとりが命中させた矢も、あっという間に体から押し出されて抜けてしまいます。
「闇の犬だぞ!」
「首を切り落とすんだ!」
と猟師たちは言い合いましたが、小柄な彼らに対して犬が大きすぎて、なかなか近づけませんでした。前年の落ち葉がたっぷり降り積もった森の中なので、火をかけて焼き尽くすこともできません。
攻めあぐねる猟師たちの頭上を、一頭の犬が飛び越えました。後ろの村人たちへ襲いかかったので、男女が悲鳴を上げて逃げ出します。
そこへ、しゅっと音を立てて花の蔓が飛んできました。村人に食いつこうとしていた犬の口に絡みつきます。
駆けつけたメールが胸の前で腕を交差させて犬を見据えていました。腕ををさっと広げると、蔓がまた生き物のように動いて、犬の全身を縛り上げてしまいます。
「そのままそいつを逃がすな!」
とゼンが飛び出して弓弦を引き絞りました。光の矢を命中させると、闇の犬は、ギャン、と鳴いて消滅していきます。
「いいぞ、ゼン、メール! そのままみんなを守れ!」
とビョールが言って、また村人たちの先導を始めました。他の猟師はその場に留まって犬と戦い続けます。
「私はあっちを守るわね」
とルルは風の犬に変身しました。村人を追いかける闇の犬を風の刃で切り捨てます。
「メール、犬どもの動きを止めろ! 片っ端から消してやる!」
とゼンが言ったので、メールはまた手を動かしました。その動きに誘われるように、周囲から何十本もの花の蔓が伸びてきて闇の犬に絡みつきます。
身動きがとれなくなった闇犬へ、ゼンは次々光の矢を命中させていきました。ついでにルルが倒した犬も矢でとどめを刺します。
あっという間に敵が全滅したので、猟師たちが感心して集まってきました。
「やるな、ゼン! 百発百中じゃないか!」
「しばらく会わないうちに腕を上げたな」
「そっちのお嬢さんもだ。草が操れるのか」
と口々に話しかけてきます。
「こいつは花使いなんだよ。お袋が森の民だったからな」
とゼンは答えましたが、すぐにまた緊張した顔に戻って首に手を当てました。野生の勘がまたちくちくと危険を知らせ始めたのです。
「油断するな! また来やがる──」
言いかけたところへ、本当にまた、ウォンウォン!!! と激しい犬の声が聞こえてきました。別の場所で待ち伏せていた闇犬が、騒ぎを聞きつけて集まってきたのです。東からも西からもやってきて、たちまち百頭以上の大群になります。
「ちょっと! 多すぎよ!」
ルルは文句を言いながら切り払っていきましたが、攻撃をかわした闇犬がルルにかみついたので、キャン! と悲鳴を上げて飛び退きました。風の体は物理攻撃を素通しにしますが、同じ犬の仲間の攻撃だけはまともに食らってしまうのです。ルルの体から青い霧のような血が噴き出します。
それを見て、犬たちはルルにも攻撃するようになりました。宙にいるルルへ飛びかかってくるので、ルルは近づけなくなって高い場所へ避難します。
守る者がいなくなったドワーフたちへ、闇犬がまた攻撃を始めました。吠えたててドワーフを一カ所へ集めると、取り囲んで襲いかかろうとします。
すると、そこへ今度は大量の花が飛んできました。雨のような音を立てながらドワーフを取り囲み、色とりどりの壁を作って犬が近づけないようにします。
もちろん、それはメールのしわざでした。春の森には彼女に操ることができる花がたくさん咲いていたのです。
ゼンがルルを呼んで背中に飛び乗りました。
「怪我は大丈夫か?」
「こんなのかすり傷よ。それより早く片付けなさいよ。ベヒモスに騒ぎを聞きつけられるわよ」
「わぁってらぁ──」
ゼンとルルは上空に舞い上がると、花の壁を食い破ろうとしている犬へ連射しました。光の矢に貫かれた犬は、あっという間に霧になって散ってしまいます。
やがて、闇犬は一匹残らず消滅しました。
メールが花を戻して壁が消している間に、ゼンは父親の元へ飛びました。
「親父、どこに行こうっていうんだよ? 安全な場所に行け、ってフルートが言ったのを忘れたのかよ?」
「むろん覚えている。だから行くんだ」
とビョールはぶっきらぼうに答えると、村人を率いてまた歩き出しました。やはり、山の麓ではなく中腹を目ざしています。
そこへメールや猟師たちがやってきたので、ゼンは地上に降りました。黙々と山を登っていく父親たちを、頭をかいて見送ります。
「そっちに安全な場所なんてあったかよ? ったく、相変わらず説明が足りねえ親父だな」
すると、猟師のひとりが横を通り過ぎながら、ゼンの背中をばん、とたたきました。
「お頭がどこに向かってるのか、まだ分からないのか、ゼン? まだまだだな」
「なんだよ、それ──!」
ゼンが憤慨している間に、猟師たちも山を登っていってしまいました。集団に追いつくと、また村人たちを守って進んでいきます。
メールがゼンに話しかけました。
「ねえ、おじさんたちがどこに行こうとしてるのか、あたいにも分かってきた気がするよ。ゼンはわかんないのかい?」
「全然わかんねえ!」
とゼンが腹を立てると、メールは黙って左手を広げて、手の甲をゼンに向けてみせました。ゼンは目を丸くしてそれを見つめ、じきに、あっと声を上げました。
「そうか! あそこか!」
「え、どこ? どこの話をしてるのよ?」
と、ひとりわけがわからないルルが聞き返します。
ところが、ゼンが答えようとしたところに、また、ずしんと地響きが伝わってきました。足元が揺れますが、山を揺るがすような大きな揺れではありません。
「揺れ方が変わったぞ──?」
ゼンたちが様子をうかがっていると、またずしんと地響きがしました。さらに間を置いて、またずしん、と揺れます。
ルルとメールは、はっと顔を見合わせました。
「まさか、これ……」
揺れは繰り返されるごとに少しずつ強まっている気がします。
「ベヒモスが動き出した! こっちに気づきやがったぞ!」
とゼンは言うと、変身したルルにメールと飛び乗り、父親たちの後を追いかけました──。