一方、イベンセがサータマン城の宮殿から外に出ようとしていると、どこからか声が聞こえてきました。
「あれぇ、闇王サマ、ご機嫌悪そうだねぇ?」
妙に間延びした青年の声です。
イベンセは声がしたほうをにらむと、一瞬で自分の周りに結界を張りました。城の家臣や番人にイベンセの姿が見えなくなりますが、誰もそれを不審に思いません。
結界の中でイベンセは呼びかけました。
「ランジュールだな。出てこい」
「はぁい、ボっクでぇぇす。おっひさしぶりぃぃ。うふふふ」
何故かとびきりご機嫌な声で現れたのはランジュールでした。半ば透き通った細い体に白い長い上着をはおり、両手をポケットに突っ込んで空中に浮いています。
「確かに久しぶりだな。二日前に会ったばかりだ」
とイベンセは皮肉を言いました。妖艶な美女の姿ですが、話しことばが男性的になっています。
うふふ、とランジュールは笑いました。
「ほんとにご機嫌斜めだねぇ、闇王サマ。魔獣軍団が敵に片っ端からやられてるからかなぁ? それともセイロスくんを色仕掛けで落とせなかったからぁ?」
イベンセは鋭い目つきになりました。
「様子をうかがっていたのか」
「うふん。だぁってボクは幽霊だもんねぇ。王様のお城だって闇の国だって、どこだって自由自在だよぉ。でもさぁ、顔を出したら失礼になると思って、こっそり陰から見守ってたのさぁ。ボクって奥ゆかしいよねぇ、うふふふ」
独特の口調で話しながら女のように笑う彼は、魔獣使いの幽霊でした。とぼけた言動とは裏腹に、フルートやオリバンの命を蛇のような執念深さで狙い続けています。
「おまえの作戦は外れたぞ。天空の軍団が地上へ降りて来た」
とイベンセが言うと、ランジュールは笑うのをやめて肩をすくめました。
「知ってるよぉ。勇者くんたちのところに、空の魔法使いさんたちが大勢でやってきたんだよねぇ。しかも、みんなあの強ぉいお人形さんを連れてるんだもんねぇ。せぇっかく闇王サマがあんなにたくさんの魔獣を大陸中に送り出してくれたのに、とてもかなわないよねぇ」
「あれは戦人形だ。二千年前の戦いで連中が使った道具だが、現存しているとは思わなかった」
とイベンセはますます悔しそうな顔になります。
ランジュールはまた肩をすくめました。
「ボクは知ってたんだけどさぁ。まさか、あんなにたっくさんいるとは思わなかったよねぇ──。あの作戦は、勇者くんたちにはぜぇったい有効だったんだよ。なにしろ勇者くんたちは正義の味方。弱い者の味方だからね。警備隊なんていない小さい町や村が魔獣に襲われて、助けを求めてきたら、それを無視することなんてできなかったんだから。ぜぇったいはまる作戦だったのにさぁ……」
結局、同盟国の各地に怪物の群れを送り込んだのは、ランジュールの発案だったのです。
イベンセは冷ややかな表情になりました。
「セイロスに加担するのをやめて飛びだしてきたと言うから期待したが、その程度だったということか。所詮幽霊だ。いたしかたない」
とたんにランジュールは前髪からのぞく目をきらりと光らせました。糸のように細い目で剣呑(けんのん)にイベンセをにらみつけ、すぐに口元を歪めて、うふふ、と笑います。
「そぉ、ボクは幽霊。それも世界一優秀な魔獣使いの幽霊だよぉ。ボクにとびきりの魔獣をよこしなよ、闇王サマ。クンバカルナなんて素敵な魔獣を繰り出すから期待したのにさぁ、頭だけしか使わないで、しかもお嬢ちゃんに魔法を使い切らせる囮(おとり)にするなんて。ああ、もったいない、もったいない。ボクならすぐに全身呼び出して、闇の森ごと勇者くんたちを食い尽くしてあげたのにさぁ」
すると、イベンセはまた不機嫌な顔に戻りました。
「あれはフノラスドの代わりに育てられていた怪物だ。完全に解き放てば制御できなくなって、我が軍にも甚大な被害を与えただろう」
「あれぇ? それならますますボクにくれれば良かったのにぃ。セイロスくんに取られちゃったけど、フーちゃんはぼくのペットだったんだよぉ」
ランジュールはフルートたちの後を追って闇の国へ行ったときに、闇の国の守り魔獣だったフノラスドを手なずけ、フーちゃんと呼んで連れ歩いていたのです。
さすがのイベンセもこの話には少し驚きました。金の石の勇者たちが闇の国までやってきた事件は知っていましたが、当時彼女は幽閉の獄に閉じ込められていたので、詳細については知らなかったのです。
少しの間考えてから、彼女は言いました。
「よかろう、おまえに怪物を与えてやる。それで私のために戦え」
「えっ、ホント!? ホントにホントに、ボクに魔獣をくれるのぉ!?」
とランジュールは目を輝かせ、すぐに確かめる顔になりました。
「それ、とびきり強ぉい魔獣だよねぇ? でもって、ちゃんとくれるよね? セイロスくんったら、強い魔獣をくれるくれるって口では言うのに、実際にはさっぱりだったんだよぉ。嘘つきっていうのは、ああいうのを言うんだよねぇ、まぁったく!」
「むろん、強力な怪物だ。好きなものを選ばせてやる」
と麗しい闇王は約束すると、すぐに冷ややかに笑いました。
「セイロスに闇の怪物が呼び出せるはずはないのだ。闇の竜は彼の内にいるが、彼自身はまだ人間なのだからな」
今度はランジュールが驚きました。
「え、え、うそぉ! それホントぉ──!? だぁって、セイロスくんの正体は闇の竜のデビルドラゴンのデーちゃんだよぉ! それなのにセイロスくんがまだ人間ってのは、どぉいうことぉ?」
「言った通りのことだ。彼の中に闇の竜はいるが、彼自身の肉体はまだ人間のままの状態だ。闇の竜によって幾重にも護られているがな」
ランジュールは目をぱちくりさせました。
「……それって、セイロスくんはメチャクチャ隠してるよねぇ。それなのに、闇王サマはどぉしてわかったのさ? セイロスくんの力を吸い取ってたから気がついたわけぇ?」
彼女はまた冷笑しました。
「そんなものは見ればわかる。あれほどの闇の力と一体になれば、彼の体はもう人間の形をとれなくなって、闇そのものになるのだ。だが、彼はまだ人間の姿をしている。人間の器が闇の竜を内に閉じ込めているからだ」
ランジュールは腕組みして、んー……と空中でしばらく考え込むと、ぽん、と手を打ちました。
「そぉっか、そぉいうこと! セイロスくんがだんだん竜っぽくなってったのって、セイロスくんの体が人間から闇の竜に変わっていたからなのかぁ。ああ、そぉいえば、セイロスくんは必死でそれに抵抗してたよねぇ。そぉっかぁ。人間じゃなくなるのがイヤだったのかぁ。へぇ」
「闇の竜は破壊と破滅の権化だ──」
とイベンセは急に低い声になりました。
「あれがこの世界に復活すれば、地上はおろか、空も海も我が闇の国もすべて破壊されるだろう。それが闇の竜というものだ。奴がセイロスの内に留まっているのは、一応ありがたいことだと言えるな」
と意外なくらい真面目な口調で言うと、こちらもそのまま考え込みます。
「ふふ。だからセイロスくんは目の色変えてお嬢ちゃんを捕まえようとしてるのかぁ。お嬢ちゃんを手に入れれば、セイロスくんはデーちゃんを制御できるよぉになるんだもんねぇ。ふふふ、なるほどねぇ」
とランジュールは笑いました。お嬢ちゃんというのはもちろんポポロのことです。
イベンセはそれには答えませんでした。ただ何かを考え続けています。
すると、ランジュールがまた尋ねました。
「そぉいえばさぁ、サータマンの王サマも言ってたけど、セイロスくん、最近また人間っぽい姿に戻ってきたよねぇ? 一時はデーちゃんと合体しちゃったんじゃないかと思うくらい、竜っぽくなってきてたのにさぁ。あれってどぉして? 闇王サマがセイロスくんから闇の力を吸いとったからぁ?」
イベンセはたちまちつまらなそうな表情になりました。
「そんなはずがあるか。闇の竜の力はどれほど吸い取ったところで無限だ。大量の闇の力を吸い取ると、逆にこちらが崩壊するから、時間をかけて慎重に取らなくてはならなかったほどだ。彼があの姿になったのは自分の意思だ」
「へぇ、意思? お嬢ちゃんにまた会うために、人間らしい姿におめかししたのかしらん?」
とランジュールは首をひねりましたが、本当のところはわかりませんでした。
イベンセが片手を差し上げると、妖艶な美女がまた大きな角と翼の闇王の姿に変わりました。目の前に異空間への入り口を開いて言います。
「来い、ランジュール。おまえに好きな怪物を与えてやる。それからもう一度作戦を練るぞ。今度こそ、金の石の勇者を殺してポポロを手に入れるのだ」
「あ、何度も言うけどさぁ、勇者くんとロムドの皇太子くんの魂はボクがもらうからねぇ! 勇者くんたちを殺すのはやらせてあげてもいいけどさぁ、魂だけはぜぇったいにボクのものなんだからねぇ!」
それなのにセイロスくんったらさぁ……とランジュールがまた不満を言い出したので、イベンセは軽く片手を振りました。とたんにランジュールが異空間へ吸い込まれます。イベンセも入り口をくぐると、音もなく空間が閉じて結界も消えました。
あたりはまたサータマン城の前庭になりましたが、城の番人も家来も、空を飛ぶ鳥さえも、闇王と幽霊がそこにいたことに、少しも気がつきませんでした。