サータマン国の首都カララズの王城に、ひとりの女性が姿を現しました。
長い黒髪に紫の瞳、赤と黒のロングドレスの絶世の美女です。大きく開いた襟元から豊かな胸がのぞき、裾の深いスリットからはなまめかしいほど白い脚がのぞいています。その妖艶な姿に衛兵たちは全員が見とれてしまいました。選りすぐりの兵士たちが、突然城に現れた侵入者を誰何(すいか)することも忘れて、ぼうっと見送ります。
彼女は王城の中央の大広間まで難なく入っていくと、通路の奥をふさぐ分厚いカーテンへ目を向けました。とたんに見えない手がカーテンを払って、彼女に入り口を開けます。その向こうに広がったのは、絢爛豪華な広間でした。いつものように大勢の美女を侍らせたサータマン王が、絨毯(じゅうたん)に寝転がって贅沢な食事や酒を楽しみ、傍らにはそれにつき合って座るセイロスがいました。セイロスの後ろには側近のギーが立っています。
「イベンセ。戻ってきていたんだな」
とギーは顔をほころばせました。セイロスはサータマン風の豪華な服に身を包んでいますが、ギーのほうはいつものように角のある兜をかぶって剣を腰に下げています。彼はいつでもどこでもセイロスの背後を守っているのです。
イベンセは靴音も高く広間に入っていくと、まっすぐセイロスに歩み寄って隣に座りました。当然のように彼の膝に寄りかかって言います。
「部下たちがしくじりました。もう少し使える者たちだと思ったのですが」
腹を立てている声でした。紅い唇をぎゅっとかんでさらにセイロスにしなだれかかります。
「おまえの軍勢の被害は」
とセイロスが冷静に尋ねました。絶世の美女にこれ以上ないほど接近されても、少しも心を動かされていません。サータマン王のほうが、そんな彼をうらやましそうに見ていました。ついでにイベンセの胸や脚をちらちらと眺めます。
「四人の将軍の半数が倒されました。兵士も半分に減っています。闇の国から大量の怪物を敵国の各地に送り込んだのですが、それも倒されつつあります。天空の国から援軍がやってきたのです」
とイベンセは言って、また不機嫌に黙り込んでしまいました。天空の国からの援軍? とギーは不思議そうな顔をしています。
セイロスが言いました。
「ポポロの故郷の魔法使いどもだ。連中まで加わったのならば、ついにまた光の軍勢が勢揃いしたということだな」
二千年前の光と闇の戦いでは、セイロスは光の軍勢の旗頭(はたがしら)になって闇と戦い、土壇場で彼らを裏切って闇の竜とひとつになりました。強烈な因縁がある軍勢のはずなのですが、そのことに感情を動かされる様子はありません。
怒りだしたのはサータマン王でした。絨毯の上に起き上がると、太った脚をぴしゃりとたたいてわめきます。
「そなたたちが敵の兵力を分散させて攻撃すると言ったから、わしもいつでも出撃できるよう軍勢を整えたのだぞ! ルボラスや同盟国からも続々兵が到着しているというのに! それができんと言うのか!?」
「できないなどとは言っていない」
とセイロスは答えました。ひとつに束ねた長い黒髪に黒い瞳、整った顔に逞しい体──セイロスは見た目の麗しさと相手を威圧する迫力を併せ持っています。大国サータマンの王でさえ、セイロスに言い切られると、それに反論するのは難しくなります。
「だ、だが……現に……」
もごもごと口の中で言うサータマン王に、セイロスは言い続けました。
「イベンセの兵は半分やられただけだ。まだ半分もいる。怪物も、足りなくなればどこからでも生み出すことができる。それが闇王というものだ」
ふふん、とイベンセは笑いました。敵に負けて自信喪失しているわけではないのです。紅い唇が好戦的にほほえみます。
ところが、ギーがたしなめるように言いました。
「またその呼び方か、セイロス? 何度も言うが、闇王なんて恐ろしい仇名は彼女に似合わないだろう。もう少しマシな呼び方をしてやったらどうなんだ。あんたの大事な女性なんだから──」
とたんにセイロスとイベンセの両方が笑いました。どちらも冷ややかな笑いでしたが、イベンセはすぐにもっと柔らかな笑顔になって、ギーに言いました。
「いいのよ、ギー。気にしないで。私は少しも気にならないのだから。それに、セイロスは私の主(あるじ)。私はセイロスに仕える者だもの。どう呼ばれたって、私は主のものなのよ」
人の好いギーはたちまち同情する顔になりました。イベンセのことを、思い焦がれる相手から女性として見てもらえない気の毒な人だと考えているのです。
そんなギーにイベンセは言いました。
「咽が渇いたわ。水をいただけないかしら。城の中庭の井戸の水が、冷たくておいしいのよ。セイロスもずいぶんお酒を召し上がっているようだから、そろそろ水を飲みたいはずだわ」
「わかった、すぐ汲んでこよう。待っててくれ」
とギーは即座に広間を出て行きました。大柄な体が通路を遠ざかっていきます──。
サータマン王が呆れて言いました。
「虫唾(むしず)の走るような芝居だな。どうして彼を遠ざけた?」
「セイロスが、彼に私たちの正体を知られたくないと考えているからよ」
とイベンセが言ったとたん、その背中に大きな翼が現れました。黒いマントのように彼女の体を包みます。頭の両脇にはねじれた二本の角が伸び、紫色だった瞳は血の色に変わります。
王に仕える美女たちは悲鳴を上げて逃げ出そうとしましたが、イベンセが目を向けるとすぐに戻ってきました。魔法に操られて、何事もなかったようにまた給仕を始めます。
闇の姿になったイベンセは、セイロスを見上げて言いました。
「本当に、どうしてかしら? ここまで来て、まだ彼に正体を知らせないだなんて。私は闇王、あなたは闇の竜の権化。まあ、その姿を何度見せても私たちを人間と信じているんだから、彼のお人好しぶりも超人的だけれどね」
探るようにセイロスを見つめますが、彼は表情も変えずに座っているだけでした。
代わりにサータマン王がまた言いました。
「そういうセイロス殿のほうこそ、少し姿が変わってきたのではないか? 以前は絶対に防具を脱ごうとしなかったし、防具が体と一体になっているように見えたのだが、最近はそれを脱いで私服姿になることが増えた。これはどういうわけかな。まだ敵の陣営に攻め込む時期ではないということか?」
とこちらも探るようにセイロスを見ます。
「防具は今も身につけている。目に見えなくなっているだけだ」
とセイロスはそっけなく答えてから、改めてサータマン王に言いました。
「敵の砦を落とす作戦も、敵の戦力を分散させて砦を弱体化させる作戦も、どちらも失敗した。かくなる上は、天空の民が各地の怪物を退治して回っている間に、連中にとって絶対に見逃せない場所をたたいて、そちらへ兵を向かわせる。出兵しろ、サータマン王。ロムドの王都をたたくのだ」
サータマン王は思わず絨毯から身を乗り出しました。
「わしに兵を率いて出陣しろと言うのか!? わし自身に!?」
とんでもないことを言う! といわんばかりの口調でしたが、セイロスは平然と答えました。
「王が兵を率いて敵を倒しに向かうのは当然のことだ。しかも、おまえには多くの同盟国が従っているのだろう? 連中はサータマンの王が同行しなければ、本気で戦おうとしないはずだ」
「わしはサータマン王だぞ!? 人を指図して戦場に向かわせるのがわしの役目だ!」
「指図して軍を任せられる有能な人間が、おまえにはいないだろう。おまえ自身が行くしかない」
サータマン王はことばに詰まりました。
サータマン国では、王が出兵しないときには、指揮官を親族の男子に任せるのが慣習です。サータマン王にもジ・ナハという優秀な甥がいて、サータマン軍を率いて数々の戦いで勝利を収めていたのですが、ジタン山脈の魔金を手に入れようとした戦いで、金の石の勇者たちに敗れて戦死したのでした。今から二年前のことです。
サータマン王の親族に男子は少なく、王自身の子どもも、娘は多いのですが男子は今年四歳になる皇太子がひとりいるだけでした。大事な幼い皇太子を戦場に送り出すわけにはいきません。
「わ、わしはもう歳だ! しかもこの体では戦えん!」
と王は必死に言いました。実際、彼は六十を過ぎていたし、体も身動きするのがやっとというくらい太っていたのです。
だから、そなたが指揮官に──と王がセイロスへ言おうとすると、先手を打つようにセイロスが言いました。
「私は世界の王だ。私の戦場は別にある」
相手に有無を言わせない口調です。
迫力負けして黙り込んでしまったサータマン王に、セイロスは言いました。
「行け。出陣の準備を整えるのだ」
王者の命令でした。サータマン王は怒りにぶるぶる震えましたが、イベンセがにやりと唇の端から牙をのぞかせ、セイロスの背後で黒い影が揺らめくのを見て、反論を呑み込みました。青ざめながら立ち上がると、声を張り上げて家来たちを呼びます。
「出合え! わしは出陣するぞ! 標的はにっくきロムド王がいるディーラだ! 準備を整えろ!」
突然の出撃命令に城は大騒ぎになりました。サータマン王の出陣は、実に四十数年ぶりのことだったのです。家来たちが驚いて右往左往する中、サータマン王は肩を怒らせ、太った体を揺らしながら大広間を出て行きます。
騒ぎが王と一緒に遠ざかり、広間に誰もいなくなっても、セイロスとイベンセは座り続けていました。イベンセは相変わらずセイロスの膝にしなだれかかっています。
すると、セイロスが冷ややかに言いました。
「補給がすんだらおまえもさっさと出陣しろ。今度こそ連中の息の根を止めるんだ」
イベンセは、さっと顔を赤くして跳ね起きました。両手はまだセイロスの膝に置いたままです。彼女はそこからセイロスの力を密かに吸い取っていたのでした。セイロスは脚のひと揺すりでその手をはねのけて、言い続けました。
「大目に見てやるのはここまでだ。闇王なら自分の力で連中を倒してみせろ。行け」
闇王にも当然のように命令を下します。
イベンセは勢いよく立ち上がってセイロスをにらみつけました。彼を主人と想って従う目でも、彼を慕って恋い焦がれるまなざしでもありません。すぐに背を向けると、こちらも肩を怒らせて広間を出て行きました。カーテンをくぐった瞬間に翼や角が消え、妖艶な人間の美女に戻ります──。
やがて、同じ通路から現れたのはギーでした。手に井戸から汲んだ水を入れた水差しと金のコップを持っていましたが、広間にセイロス以外誰もいなかったので、目を丸くしました。
「イベンセは? どこに行ったんだ? せっかく水を持ってきてやったのに」
「イベンセはすでに出陣した」
とセイロスが言うと、ギーはがっかりした顔になり、あわてて取り繕いました。
「い、いや、これはセイロスのためにも汲んできたんだ。まだ冷たいぞ。飲んでくれ」
「私はいらん」
とセイロスはにべもなく断ると、もっとがっかりしている副官へ言いました。
「我々も出発する。準備をしろ」
ギーはたちまち目を輝かせました。
「いよいよか! どこへ行くんだ!? ロムドか!? それとも──」
興奮のあまり水差しなどコップごとどこかへ放り出してしまいます。
「来ればわかる。ついてこい」
とセイロスは立ち上がって歩き出し、ギーは従っていきました。
足音が遠ざかり、完全に誰もいなくなった広間は、壁のランプが影を揺らめかせるだけになりました──。