グリフィン? と防壁の上の人々は驚きました。
ハロルド王子がまた尋ねます。
「我がメイではグリフィンは聖なる怪物と言われている! それは味方のグリフィンか!?」
シン・ウェイは目を閉じたまま、遠くの鳥が見ている景色を見て言いました。
「俺は本物に出会ったことがないからよくわからんが、全身真っ黒なグリフィンだぞ。そういうものなのか? 後ろを来る大蛇は間違いなく闇の怪物だ。どえらくでかくて醜悪だからな」
「聖なるグリフィンは金色と白と決まっている! 黒いグリフィンなら、それも闇の怪物だ!」
ハロルド王子は断定すると、女騎士たちに命じました。
「闇の怪物がたまたま近くに現れることなどありえない! 敵が差し向けたものだ! 姉上たちにお知らせしろ!」
二人の女騎士は承知して駆け出しました。ひとりは作戦本部にいるセシルのもとへ走り、もうひとりは異変を察して駆けつけてきた警備兵に事の次第を伝えます。
警備兵が仲間の警備兵へ知らせると、たちまち角笛の警報が響きはじめます。
思いがけない事態に、トーマ王子はうろたえていました。東の方角を眺めますが、そのときにはもう砂煙も見えなくなっていました。接近してくるという二匹の怪物もまだ見えません。
「メイの兵士たち、敵襲だ! 迎撃準備をしろ!」
とハロルド王子が防壁から駆け下りていったので、トーマ王子もようやく我に返りましたが、やっぱりどうすれば良いのかわかりませんでした。彼も勇猛なザカラス軍の大将ですが、実際に軍を率いているのはニーグルド伯爵です。トーマ王子にできるようなことは何もなかったのです。
一方シン・ウェイは目を開けて王子に言いました。
「もうじき怪物がここに来る! 危険だから離れるんだ!」
「シンは? 何をするつもりだ!?」
と王子が聞き返すと、青年は厳しい目を東へ向けました。
「闇の怪物なら俺の術も効果がある。間もなく砦の防衛部隊が駆けつけるだろうから、それまでなんとか防いでやる」
そのとき、砦に近い森から大きな音が聞こえてきました。ばきばきと木が折れていく音です。同時に怪物の姿がトーマ王子にも見えました。真っ黒い鳥のようなものが猛スピードで向かってきます。
あれがグリフィン、と王子は考えました。彼も本物のグリフィンを見るのは初めてです。鷲の上半身にライオンの下半身という姿を確かめようと目をこらしますが、怪物がせわしなく位置を変えるのでわかりませんでした。狙われるのを避けるように、右へ左へ飛んでいます。
「来るぞ! 早く下りろ!」
とシン・ウェイがまた王子に言いました。呪符を取り出して呪文を唱え始めます。
トーマ王子は急いで砦へ下りようとしましたが、逆に砦から兵士の集団が駆け上がってきたので立ち止まりました。兵士が次々上がってくるので、王子は防壁から下りられなくなってしまいます。
「攻撃しろ、メイの兵士たち! ハルマスに怪物を近づけるな!」
防壁の下でハロルド王子がどなっていました。駆けつけてきたのは赤い鎧兜のメイ軍の兵士だったのです。防壁に何列にも並んで弓矢を構えます。
身動きが取れなくなったトーマ王子は、あわててその場にしゃがみ込みました。そうしないと味方の矢が当たりそうでした。
シン・ウェイはすでに呪符を稲妻のような矢に変えていました。迫ってくるグリフィンへ投げつけようと、タイミングを計っています。
その向こうの空で、グリフィンは先ほどよりずっと大きくなっていました。黒い鷲のように、まっすぐこちらへ飛んで来ます──。
そのとき、どうして急にそれを思い出したのか。
理由はわかりませんでしたが、トーマ王子の頭の中に、メーレーン姫とのやりとりが突然よみがえってきました。
ロムド城の中庭を散歩しながら、姫はこんなことを言ったのです。
「トーマ王子はグリフィンをご覧になったことがございますか? メーレーンはあるかもしれません」
「あるかもしれない?」
ずいぶん微妙な言い方だな、と思いながら王子が聞き返すと、はい、と姫は屈託なくうなずきました。
「もう一年半くらい前のことですわ。鳥のようでしたけれど、ライオンのようにも見えました。黒い翼が日の光に輝いて、とても綺麗でした。だからグリフィンだとわかりましたの」
黒いのに綺麗に見えたのか、と王子はまた思いましたが、口には出しませんでした。無邪気なメーレーン姫はいつも自分が思ったことをそのまま素直に伝えてくれます。姫がそう言うからには、本当にそのグリフィンは綺麗だったのでしょう。
でも、王子にはそんな話をするメーレーン姫の方が綺麗に見えていました。淡いプラチナブロンドの巻き毛に大きな灰色の瞳の姫は、いつだって信頼と尊敬のまなざしで彼を見てくれるのです。冷酷だ、いばっていて全然子どもらしくない、と悪口を言われることも多い彼に……。
トーマ王子は、はっとしました。
メーレーン姫は城の外に出ることがほとんどない人です。ということは、姫がグリフィンを見たのもロムド城での話になります。ロムド城にはグリフィンがいるのかもしれません。それも黒い綺麗な翼のグリフィンが──。
王子は跳ね起きてシン・ウェイに飛びつきました。
「待て、シン! 攻撃するな!」
「うわっとと……馬鹿、危ない!!」
稲妻の矢を取り落としそうになって、シン・ウェイは仰天しました。思わず王子を馬鹿とどなってしまいましたが、王子のほうは気にする余裕などありませんでした。青年の腕にしがみついたまま、必死で言い続けます。
「グリフィンを攻撃するな! あれはきっと味方だ!」
はぁ? とシン・ウェイは驚きました。
「さっきメイの皇太子殿下が言っていただろう。黒いグリフィンは闇の怪物なんだぞ。聞こえなかったのか?」
「聞こえていた! でも、きっとそうなんだ!」
彼らが話している間にもグリフィンは接近していました。メイ軍が弓を引き絞って狙いをつけますが、もう少しで射程距離に入るというところで、グリフィンは急に右へ向きを変えました。すると、その後に続くように大蛇が姿を現しました。森の上に鎌首を出し、木々をへし折りながら迫ってきます。
兵士たちは思わずぎょっとしました。蛇は鱗のひとつひとつが棘(とげ)のように鋭くなっていて、ひときわ長く伸びた棘が二本の角のように頭から飛び出していました。森の木々より大きいのですから、全長は百メートル以上あるかもしれません。とんでもなく巨大な蛇です。
けれども、兵士たちはすぐ我に返って弓を引き直しました。右翼の兵士はグリフィンへ、残りの兵士は大蛇へ狙いを定めます。
すると、大蛇も突然向きを変えました。グリフィンについていくように、右へと向かいはじめます。
「怪物は南へ向かうぞ! 湖から侵入するつもりだ!」
防壁の上に登ってきたハロルド王子が言ったので、メイ兵たちは南へ移動しようとしました。ところがグリフィンがまた向きを変えました。上昇してからまた下降して、今度は北へ飛び始めます。大蛇もそれについていきます──。
その動きを見て、トーマ王子は言いました。
「グリフィンは大蛇に追われている! 逃げているんだ!」
「なんだと?」
シン・ウェイはまた驚いて二匹の怪物を見ました。そう言われてみると、確かに大蛇がグリフィンを追いかけているように見えますが、二匹でハルマスの防御を避けながら突入の隙を狙っているようにも見えます。
トーマ王子は必死で言い続けました。
「グリフィンを助けろ、シン! 大蛇を攻撃するんだ!」
「しょうがないな」
青年は片手に稲妻の矢を構えたまま、もう一方の手でまた呪符を取り出しました。呪文を読み上げると呪符が新たな稲妻になって、先の稲妻とひとつに溶け合います。
巨大になった稲妻の矢を頭上に構えて、シン・ウェイは言いました。
「これくらいでかくないと、あの蛇に刺さらないからな。どいてろ」
と王子に命令してから、大きく振りかぶって矢を投げつけます。
矢は稲光を放ちながら空を飛んでいきました。バリバリバリと本物の稲妻のような音がとどろきます。
すると、蛇のほうでもそれに気がつきました。稲妻をにらんでシュウシュウ言うと、たちまち黒い湯気のようなものが湧き上がって蛇を包みます。闇の霧で身を守ろうとしたのです。
ところが、稲妻の矢はそれを切り裂きました。のけぞった蛇の喉元に突き刺さって、どぉん! と破裂します。
「やった!」
トーマ王子が歓声を上げると、シン・ウェイが厳しい顔で言いました。
「まだだ。あいつはでかすぎるからな」
大きく揺らいだ蛇が体を立て直してこちらを向きました。離れているのに、赤い目が怒りに燃え上がったのがわかります。
一方、グリフィンはまた砦に向かって飛び始めていました。それを見て兵士たちが弓矢を構えます。
トーマ王子は叫びました。
「だめだ! グリフィンを攻撃するな!」
けれども、彼らはメイの兵士なので、トーマ王子の命令には従いませんでした。
ハロルド王子が聞きつけて厳しくとがめます。
「君は何を言っているんだ!? 敵の怪物を砦に侵入させるつもりか!?」
トーマ王子が思わずたじろいだ瞬間、グリフィンへいっせいに矢が放たれました。
「シン!」
トーマ王子は呼びましたが、シン・ウェイは次の稲妻を大蛇に投げつけようとしていました。グリフィンを守ることができません──。
すると、矢が空中で急に止まって地上に落ちました。一同が驚いていると、青い長衣を着た大男が防壁の上に現れて言います。
「やれやれ、間に合いましたな──。あのグリフィンに攻撃は無用。あれは我々の味方です」
青の魔法使いが作戦本部から飛んで来たのでした。
「味方だって!? あれは闇のグリフィンだぞ!」
とハロルド王子が食ってかかりましたが、武僧の魔法使いは平然と答えました。
「さよう。ですが、あれは味方なのです。勇者殿たちが味方に引き入れました」
「本当にそうだったのか。あの蛇のほうも味方なのか?」
とシン・ウェイが呆れて尋ねました。稲妻の矢はまだ投げつけずに保留しています。
「いやいや、あちらは本物の闇の敵です。遠慮なく撃退してください」
と青の魔法使いは言うと、こぶだらけの杖を大蛇へ向けました。とたんに大蛇は動きを止めましたが、黒い霧が下から湧き上がってくると、すぐにまた動き出しました。威嚇するように口を大きく開けて、こちらをにらみつけます。
「あの霧でこちらの魔法を防いでますな。相当力のある怪物のようだ。シン殿、攻撃を頼みます」
と魔法使いに言われて、シン・ウェイは改めて稲妻の矢を構えました。振りかぶって投げつけます──。
どぉん!
稲妻は黒い霧を貫いて蛇の口に飛び込みました。蛇の頭が爆発して吹き飛びます。
トーマ王子が歓声を上げていると、その頭上を飛びすぎていくものがありました。見上げると二匹の風の犬が砦の外へ飛び出していくところでした。一瞬遅れて花鳥も飛び出していきます。
「グーリー!」
と勇者の一行は黒いグリフィンに呼びかけていました。
ゼンとルルがグリフィンへ飛んでいきます。
「おい、大丈夫だったか、グーリー!?」
「怪我はなかった?」
ゼンたちに尋ねられて、グリフィンがグェン……と鳴きました。安堵したような鳴き声です。
一方、ポチに乗ったフルートと花鳥に乗ったメールとポポロは、大蛇のほうへ飛んでいました。稲妻で頭を吹き飛ばされたのに倒れなかったからです。
「ワン、まだ生きてます!」
「見なよ! あいつ、頭が二つあるよ!」
そんなやりとりが防壁の上まで聞こえてきます。
「双頭の蛇でしたか。あの霧は下の頭が吐いているんですな」
と青の魔法使いは言いました。
フルートがポチの上から剣をふるうのが見えました。白い光が輝いて黒い霧を切り裂きますが、すぐにまた霧が湧き上がってきます。何度切りつけても霧は消えません。
すると、フルートが振り向いて何かを言い、すぐに花鳥が防壁まで飛んで来ました。メールが身を乗り出してシン・ウェイに呼びかけます。
「攻撃が下の頭に届かないんだよ! あんたの術でやっつけとくれよ!」
青年は、おっという顔をしてからトーマ王子に言いました。
「俺はあんたの護衛だ。行ってかまわないか?」
「むろんだ。さっさとあの蛇を倒して砦を守れ!」
とトーマ王子は答え、シン・ウェイが花鳥に乗って飛んでいく様子を見守りました。フルートが蛇の足元を指さし、青年が呪符を取り出して稲妻の矢に変えます。
どぉぉん!
三つ目の稲妻は蛇の下の頭を吹き飛ばしたようでした。蛇を包んでいた黒い霧が急速に薄れ、直立していた蛇の体が傾き始めました。枝のない大木が倒れていくように、森の木々をへし折りながら倒れ込んで地響きを立てます──。
シン・ウェイが花鳥で防壁に戻ってきたので、トーマ王子は駆け寄りました。降りて来た青年に飛びついて言います。
「よくやった、シン! 素晴らしいぞ!」
王子から褒められて青年は目を丸くし、すぐに照れくさそうに笑いました。
「まあな。闇の敵にそのまま攻撃できるのが、俺たちの術の強みだからな」
「うん、助かったよ、ありがと!」
とメールも花鳥の上から言って、ポポロと一緒に戻っていきました。フルートとポチもグリフィンへ飛んでいきます。
それを見てハロルド王子が青の魔法使いに言いました。
「彼らは本当に闇のグリフィンを仲間にしていたんだな。顔が広いのは知っていたが、まさか闇の怪物まで従えているとは思わなかった」
「従えているというのとは少し違いますな。あのグリフィンは勇者殿たちの友だちですから」
と魔法使いが言ったので、ハロルド王子だけでなく、メイの兵士たちまでがびっくりして空を見上げました。
トーマ王子も勇者の一行を見上げていましたが、すぐに隣にいる青年を見ました。闇の怪物まで友だちにしている勇者たちはすごいと思いますが、シン・ウェイはそんな彼らを術で手助けしたのです。
「シンだってすごいじゃないか……」
思ったことがつい口に出ます。
「ん? 何か言ったか?」
シン・ウェイが聞き返してきたので、王子は彼に向き直りました。少しためらってから、思い切って尋ねます。
「シン、おまえが使う術というのはユラサイ人にしか使えないのか? 他の国の人間には無理なのか?」
青年は驚いた顔になりました。
「いや、そんなことはない。ただ、この術は呪符が読めなければ発動しないし、呪符は古代ユラサイ文字で書かれているからな。だから、ユラサイ人のそれもごく一部の人間にしか使えないんだ」
「古代ユラサイ文字? それさえ読めれば術が使えるのか?」
「簡単に言うが大変なんだぞ。古代ユラサイ文字は世界で一番発音が難しいと言われているし、文字の種類も多いからな。それに呪符を作るのには相応の魔力が必要だ。ただ、すでに呪符があれば、読むことさえできれば術を使うことは可能だな」
トーマ王子は目をぱちくりさせ、また少し考えてから言いました。
「では──ぼくが使うことも可能か? 呪符があれば」
今度は青年が目を丸くしました。
「あんたがユラサイの術を使うと言うのか? あんたはザカラスの皇太子だぞ」
「ザカラス人でも術は使えるのだろう? 呪符さえ読めれば」
とトーマ王子は言い張って青年を見上げました。その後ろでは、ハロルド王子が守備に駆けつけたメイ軍の兵士たちをねぎらっていました。実際には怪物に矢の一本も当てることもできなかったのですが、それでも命令に従って砦を守ろうとしたことに変わりはありません。部下たちの勇気と忠義を認めて褒めています。
トーマ王子にそれと同じことはできません。だからこそ、自分にもできることがほしかったのです。
弟のような王子にひしと見つめられて、シン・ウェイは、やれやれ、と頭をかきました──。