ハルマスの北門に近い防壁の上で、ザカラス皇太子のトーマ王子は、そわそわと砦の外を眺めていました。
彼の父はアイル王、叔母はロムド国王の妻のメノア王妃です。
ひと月前、王子は父に同行してロムド城を訪れ、同盟を結ぶ王たちとの会議に参加しました。会議が終わると父はザカラス国に戻っていきましたが、王子は父から国王軍の大将に任命されてロムド城に残り、ザカラス国から軍隊が到着すると、それを率いてハルマスにやってきたのです。
とはいえ、彼はまだ十三歳の少年でした。戦闘経験が乏しいので、実際の軍の指揮はニーグルド伯爵というベテランの重臣がとっています。一昨日闇の軍勢がハルマスに攻めてきたときも、王子が装備を整えている間に、敵は退散していました。
することもないので、王子は毎日手紙を書いていました。宛先はロムド城にいるいとこのメーレーン姫です。彼はハルマスに来るまで、メーレーン姫と城の庭を散歩して過ごしたのです。
毎日手紙を書き送る彼に、メーレーン姫も毎日返事を書いて送ってくれました。彼が砦の門で待ちわびているのは、ロムド城からの伝令でした。城からの定時報告と一緒に、メーレーン姫の手紙も運んできてくれるのです。
トーマ王子のそばにはシン・ウェイもいました。ユラサイ国出身の術師で、これまで何度となく王子を助けてくれた、頼もしい護衛です。薄手のマントをはおり、口元に白い布をマフラーのように巻いています。
王子がそわそわと落ち着かないので、シン・ウェイが話しかけました。
「そんなに焦るなって。伝令はいつも午後三時頃に到着するんだから、まだ一時間もあるぞ。他のことをしていたらどうなんだ」
シン・ウェイにとってトーマ王子は年の離れた弟のような存在でした。元々礼儀正しい性格でもないので、口調はざっくばらんです。
王子は口を尖らせました。
「他のことというのは何をすればいいんだ? ぼくは形だけの大将だ。戦いのことなんて何もわからないから、作戦会議にも参加できない。そんなぼくに何ができるというんだ」
以前は家臣に対していばり散らして、何かというと逮捕と投獄を命じていた彼でしたが、今はもうそんな真似はしなくなりました。代わりになんとなく自信なさそうな雰囲気が漂うようになっています。自分というものが見えてきて、自分は何者なのか悩む年頃に突入していたのです。
シン・ウェイは肩をすくめました。
「あんたがその気になれば、できることはいろいろあると思うぞ。ここには大陸中からいろんな人間が集まってきてるからな。形だけの大将が嫌だというなら、大将に必要なことを教えてくれる奴だっているはずだ」
「たとえば金の石の勇者か?」
とトーマ王子は皮肉っぽく言いました。ハルマスにフルートがいるから、彼はますます自分に自信をなくしているのです。
シン・ウェイはまた肩をすくめました。
「いや、さすがに金の石の勇者たちは無理だ。彼らは忙しすぎるからな。だが、他の連中なら聞けばいろいろ教えてくれると思うぞ。ロムド皇太子のオリバン殿下はどうだ? あの人も暇ではないだろうが、他でもないあんたの頼みなら、大事なことを教えてくれそうじゃないか」
けれども、トーマ王子は返事をしませんでした。オリバンも王子のいとこに当たる人物でしたが、迫力があってなんとなく近寄りがたかったし、勇者の一行と親しすぎるので、話しかけたい気持ちにならなかったのです。
トーマ王子は目をそらすようにまた砦の外を見ました。北の門からロムド城まで続いている道に、伝令の姿はまだ見えません──。
すると、砦の中から門の横の階段を登ってくる人物がいました。トーマ王子より少し年上の少年で、鎖帷子(くさりかたびら)と赤い鎧兜を身につけています。その後ろには白い防具をつけた女騎士が二人従っていました。メイ国の皇太子のハロルド王子です。
ハロルド王子がハルマスにやってきたのは、トーマ王子がここに来た翌日のことでした。トーマ王子がザカラス軍を率いてきたように、ハロルド王子はメイ国の正規軍を率いてきたのです。
二人の皇太子はこれまで作戦会議などで顔を合わせていましたが、外で出会うのは初めてのことでした。ハロルド王子はセシルの実の弟なので、姉によく似た整った顔立ちをしていました。こんな場所にいったいなんの用事だろう、とトーマ王子は考えます。
すると、ハロルド王子がトーマ王子の前にやってきました。
「やっと見つけた。あなたと少し話したいことがあるのだが、人払いをお願いできるだろうか?」
ハロルド王子が自分に会いに来たのだとわかって、トーマ王子は目を丸くしました。
人払いを要求されて、シン・ウェイは険しい顔になります。
「俺は殿下の護衛だ。殿下から離れるわけにはいかないな」
すると、白い鎧兜の女騎士たちも、口々にハロルド王子へ言いました。
「私たちだって、殿下から離れるわけにはいきません」
「そうですわ。私たちは殿下の護衛ですもの」
彼女たちはナージャの女騎士でした。セシルの命令でハロルド王子の身辺警護をしているのです。
けれども、ハロルド王子は言い張りました。
「トーマ殿下におりいって話したいことがあるのだ。では、万が一の時にすぐ駆けつけられるように、おまえたちは私たちが見えるところにいてくれ」
しかたなく、シン・ウェイと女騎士たちはその場を離れました。防壁の上に作られた小さな広場に待機して、二人の王子を見守ります。
「あんたたちの王子はうちの王子になんの用なんだ?」
とシン・ウェイに聞かれて女騎士たちは首を振りました。
「わからないわ。殿下は朝からずっとトーマ王子を探し回っていたんだけれど」
「大事な話があるとおっしゃるんだけど、あたしたちには教えてくださらなかったのよ」
ふぅん、とシン・ウェイは考え込みました。ハロルド王子については、以前ロムド城で噂を聞いたことがありました。ひょっとして、あのことか? と心の中でつぶやきます──。
トーマ王子は北の門に近い防壁の上で、ハロルド王子と向き合っていました。トーマ王子も決して背は低くありませんが、ハロルド王子のほうが頭ひとつ分も長身でした。トーマ王子は冷ややかな薄水色の瞳に大人びて見える厳しい顔つきをしていますが、ハロルド王子は穏やかな黒い瞳と顔立ちをしていて、態度にも本当の大人のような雰囲気を漂わせています。
いくつも歳が違わないはずの相手にちょっと劣等感を刺激されて、トーマ王子は先に口を開きました。
「ぼくに折り入って話したいことというのはなんだ?」
つい尊大な口調になってしまったのも、劣等感の裏返しです。
ハロルド王子は非常に真面目な表情をしていました。少しためらってから、こう切り出します。
「君はロムド国の王女のメーレーン姫は知っているね?」
思いがけず姫の名前を出されて、トーマ王子は驚きました。
「それはもちろん──。メーレーン姫はぼくのいとこだ」
姫の名前を言うだけで、何故か顔が赤くなっていきます。
そんな様子をじっと見ながら、ハロルド王子は話し続けました。
「昨日、我が軍の兵士のひとりが君の軍の兵士と話をしたんだ。たまたま食堂で隣同士になったらしい。メーレーン姫は生まれたときから君と婚約していて、いずれザカラス国に嫁いで君の妻になるのだ、と聞いてきた。それは真実だろうか?」
トーマ王子は本当にびっくりして、すぐに返事をすることができませんでした。その顔がますます赤くなり、次いで急に青ざめます。内心の動揺を隠すためにトーマ王子は声を荒げました。
「そんな根も葉もない噂を流している兵は誰だ!? 不敬罪で牢に入れてやる!」
つい昔の口癖が出てきます。
ハロルド王子はあわてて首を振りました。
「君やメーレーン姫を侮辱しているわけではないよ。私の兵が聞いた話によると、ザカラス軍の中ではずいぶん広まっている噂で、姫がザカラスに来るのを皆が期待して楽しみにしている、というということらしい。だが、真実ではなかったのだな? そうか、良かった」
「良かった?」
相手が最後に洩らした一言にトーマ王子が聞き返すと、ハロルド王子は穏やかな顔に微笑を浮かべました。
「この戦いが終わったら、私はメーレーン姫に求婚しようと思っているんだ。君と姫が婚約していたら、それはできないことだからな」
トーマ王子はまた青ざめました。今度は怒りのせいではありません。
すると、ハロルド王子は急に照れくさそうな表情になりました。
「実を言えば、私は以前にも姫に求婚したことがあるんだ。母上と共にロムド城に世話になっていたときだ。ところが、自分には心に決めた好きな人がいるから、と姫に即座に断られてしまった。ひょっとしたら君のことなんだろうかと思って、確かめにきたんだ」
トーマ王子はいろいろな意味で返事ができなくなってしまいました。自分が知らないところでメーレーン姫に求婚したハロルド王子に腹を立てますが、すぐに、自分は姫の婚約者でもなんでもないことを思い出して、うろたえてしまいます。本当に、彼にはこの件に口を出す権利などなかったのです。彼はメーレーン姫にとって、ただのいとこなのですから──。
自分の考えに深く心を傷つけられながら、トーマ王子は言いました。
「姫が愛しているのはフルートだ……金の石の勇者の」
ハロルド王子はうなずきました。
「私もそうだろうと思っている。だが、フルートが心に決めている女性はポポロだ。フルートが他の女性を愛することなどありえない、と姉上からも聞かされた。それならば、私にだってまだまだチャンスはあるはずだ」
「それでも姫はフルートを愛しているんだぞ。姫自身がそう言っていた」
とトーマ王子は言いました。実際にはそれは彼の勝手な思い込みだったのですが、そう信じていたので、強く言って相手をにらみつけます。
すると、ハロルド王子は急に胸を張りました。
「だから、私はこの戦いで我が軍を指揮して敵に勝ってみせるんだ──。私はしばらく前から本気で戦(いくさ)について学んでいる。長い間病床に伏せっていたので、剣に自信はないから、戦の指揮の仕方を身につけることにしたんだ。それを生かして敵に打ち勝つ。そして、勝利の暁に改めて姫に求婚するんだ」
きっぱりと言い切って、ハロルド王子は空を見上げました。水色の春の空には白い綿雲が浮かんでいます。
トーマ王子は何も言えなくなって、思わず相手の顔から目をそらしました。すると相手の服装が目に入ります。ハロルド王子は鎖帷子の上に鎧兜を身につけ、剣を腰に下げて、戦姿をしていました。それに引き換え、トーマ王子のほうは豪華な刺繍の私服姿です──。
一方ハロルド王子は空を見上げ続けていましたが、急に視線を下げると、いぶかしそうに言いました。
「あれはなんだ?」
トーマ王子もそちらを見ましたが、特に何も見当たりませんでした。青空の下、荒れ地の向こうに小さな森が点在する風景があるだけです。寒さが和らぎ春の気配が日に日に強まってきて、空もなんとなくかすんでいます。
けれどもハロルド王子は即座に護衛の女騎士たちを呼びつけました。
「東の森の向こうに砂煙が立っている。地平に砂煙が見えたら、それは敵の軍勢が接近している知らせだ。急ぎ偵察を出せ!」
えっ!? とトーマ王子は改めてそちらを見ました。砂煙と言われても、煙のようなものはやはり見当たりません。いったいどこに……? と見回していると、女騎士たちと一緒に駆けつけてきたシン・ウェイが指さしました。
「あの森の向こうだ。風もほとんど吹いてないのに砂煙ってのは、確かに不自然だな。どれ、俺が確認してやる」
シン・ウェイが懐から呪符を取りだして呪文を唱えると、呪符は一羽の鳥に変わって空に舞い上がりました。驚く王子や女騎士たちを尻目に、まっすぐ東へ飛んでいきます。
それでようやくトーマ王子にも砂煙が見えました。空に一筋の白い煙が立ち上っていますが、ごく薄いので、目をこらさなければわからないほどでした。ハロルド王子はこんなものに気がついたんだ、と驚きます。
シン・ウェイは目を閉じ、右手の人差し指と中指を自分の額に当てていました。呪符で出した鳥の見ているものが、彼の目の前に見えているのです。ん? と怪しむような声を出してから、急に大声になります。
「近づいてくるのは敵の軍隊じゃない! 二匹の怪物だ! ものすごい速度でこっちに向かってくるぞ!」
一同は青くなりました。ハロルド王子が尋ねます。
「たった二匹が軍隊のような砂煙を上げているのか!? どんな怪物だ!?」
「砂煙は大蛇だ。地面を猛烈な速度で移動してる。もう一匹は空を飛んでいる。鷲(わし)とライオンの怪物……グリフィンだ!」
鳥の目を借りて森の向こうを眺めながら、シン・ウェイは言いました──。