キースの胸から吹き出した黒い霧が、巨大な手になって襲ってきたので、アリアンは思わず飛び退きました。
手は床を打ち、すぐにまた彼女を捕まえようとします。
アリアンは身を翻しましたが、とたんに壁に突き当たってしまいました。キースの部屋は狭くて逃げ場がなかったのです。黒い手が腕を伸ばして迫ってきます。
すると、いきなりキースが目を開けました。跳ね起き、自分の胸から突き出してみえる腕をつかんでどなります。
「彼女に手を出すな、イベンセ!!」
けれども、キースに手を抑えるだけの力はありませんでした。懸命に体をよじって引き戻そうとしますが、手はびくともしません。
一方フルートは部屋の隅から駆け出していました。ポポロの前に飛び出し、さらに前へ走って剣を抜きます。
「離れろ! 彼女はポポロじゃない!」
フルートが切りつけたとたん、足元からすさまじい叫び声が上がりました。フルートが握っていたのは光炎の剣だったのです。一瞬炎が湧き上がり、巨大な手が崩れて霧に戻っていきます。
キースは呪文を唱えて自分自身の胸を打ちました。どん、と音を立てて霧が飛び散り、蒸発するように消えていきます──。
居間に続く扉が開いて、犬たちとゼンとメールが飛び込んできました。
「ワンワンワン、どうしたんですか!?」
「ものすごい闇の気配がしたわよ! 何ごと!?」
ゼンはフルートへ、メールはポポロへ走ります。
「敵か!?」
「大丈夫だったかい、ポポロ!?」
そこへゾとヨも飛び込んできて、ベッドにキースが起き上がっているのを見て歓声を上げました。
「キースが生き返ったゾ! 元気になったゾ!」
「怪我が治ってるヨ! 翼も元通りだヨ!」
喜んで飛びついてきた二匹に、キースは微妙な顔をしました。
「なんだ、その生き返ったってのは。ぼくは死んだりしていなかったぞ。ただ、奴に扉を仕掛けられていたんだ。危なかったな」
話しながら、キースはベッドから降り立ちました。ゾとヨを頭や肩にしがみつかせたままアリアンに歩み寄り、腕の中に抱きしめて言います。
「危険な目に遭わせたね……。あれがイベンセ。ぼくのきょうだいで、闇の国の新しい闇王だ」
キース! とアリアンは泣き出しました。恐怖ではなく喜びの涙です。そこへグーリーも飛び込んできて、元気になったキースに頭をすりつけて喜びました。ゾとヨも飛び跳ねてはしゃいでいます。
部屋の中がいっぱいになってしまったので、フルートたちと魔法使いたちは居間に戻りました。
足元から響いた闇王の声は居間には聞こえていませんでした。中で起きたことを、フルートと白の魔法使いがロムド王たちに説明していると、部屋の中からキースやアリアンたちも出てきました。キースがまた魔法をかけたので、全員が人間や猿や鷹の姿に戻っていました。
「ご心配をおかけしてすみませんでした。それに、ありがとうございます。おかげで命拾いしました」
とキースは全員に感謝をしてから、ロムド王へ話し続けました。
「ぼくはハルマスに行く途中で奴に待ち伏せされて、あっという間にやられてしまいました。奴がぼくを殺さなかったのは、ぼくに仕掛けた扉からロムド城の中へ手を伸ばすためです。お城に危険を引き込んでしまいました。本当に申し訳ありません」
キースは片膝をつき、胸に手を当てて頭を下げていました。騎士の謝罪の姿勢です。
ロムド王はそんなキースを立たせて言いました。
「闇王はアリアンをポポロと勘違いしたそうだな。そなたを傷つければ、勇者たちがそなたを救おうとすると読んでいたのだろう。実に巧妙な相手だ。そなたが助かって本当に良かった」
アリアンはずっとキースのすぐ後ろについていましたが、それを聞いて涙を拭いました。キースもまた頭を下げて、寛大な王に感謝をします。
「で、これからどうするんだ?」
とゼンが尋ねました。
メールはフルートに言います。
「新しい闇王がポポロを狙ってきたってことは、やっぱりセイロスとつるんでて、ポポロをセイロスのとこに連れて行こうとしたってことだよね? どうしたらいいのさ?」
フルートは険しいくらいの顔で考え込んでいましたが、なおも考えながら答えました。
「ぼくたちはここにいるわけにはいかない……。闇王に率いられた軍勢が、ぼくたちを狙ってディーラに殺到したら、とんでもない被害が出るからな。ハルマスもまだ未完成だから、防御力は充分じゃないんだが、他に行ける場所がない。ハルマスに行って敵を迎え討とう。時間はわずかだけれど、できる限りの準備を整えるんだ……」
フルートの口調が重かったのは、ハルマスで砦の建設に携わっている人々のことを考えていたからでした。彼らの半数以上は軍人ではありません。闇の軍勢が襲ってくれば、あっという間に襲われてやられてしまうかもしれません。
けれども、砦を完成させるためには、彼らの力がどうしても必要でした。彼らをハルマスから避難させることはできません──。
すると、ロムド王がフルートに言いました。
「人に指図する役目を負うものに求められるのは、絶え間ない決断だ。今後ますます求められてくるだろう。今は一分一秒が惜しいときだ。悩む間があったら行動しなくてはならん」
王のことばには、五十年間人々の上に立ち続けてきた経験の重みがあります。
フルートは黙ったままうなずきました。ひとつ深呼吸をすると、顔を上げ、見つめている全員に向かって言います。
「ぼくたちはハルマスに行く。オリバンたちと敵の襲撃に備えるんだ。白さん、城にいる魔法軍団の一部をハルマスによこしてください。陛下は正規軍の半数をハルマスへ。全力で砦の完成をめざします。キースたちはまた闇王に捕まらないように、ロムド城で待機。ただ、闇の敵の動きをつかめたら知らせてくれ。ユギルさんも引き続き占いでの支援をお願いします」
「承知いたしました」
と全員を代表して占者が答え、改めてフルートを見て言いました。
「急ぎハルマスへお戻りくださいますように。かの場所に新たな支援の象徴が見えております」
厳かな声です。
「新たな支援?」
それはいったい何のことだろう、とフルートたちは目を見張ってしまいました──。