鏡が崩壊して闇王の気配が消え去っても、キースとアリアンはしばらく何も言えませんでした。
呆然と立ち尽くしたまま壁を見つめます。
すると、ふいに二人の格好がまた変わりました。キースは白い服に青いマントの聖騎士団員に、アリアンは薄緑色のドレス姿に戻ったのです。二人の頭の角や牙、血の色の瞳や長い爪も消えてしまいます。
キースはアリアンを振り向きました。
「闇王が死んだ。新しい闇王の誕生だ」
「新しい闇王が闇の民や怪物を率いて地上に攻め寄せてくると言っていたわ。本当かしら?」
アリアンは信じられない顔をしていました。先ほどキースも言ったとおり、闇の国が地上と戦争を起こすことは禁じられていたからです。闇の民は地上の人間をだまして闇の国へ連れ去ったりしますが、それでも闇の国が地上と戦うことは禁忌だったのです。
「闇の国が地上と戦ってはいけないのは、地上が闇の国の礎(いしずえ)になっているからだ。地上の人々は闇の民や闇の生き物を恐れていて、それが住んでいる闇の国を忌み嫌っている。そんな地上の想いが、地下の闇の国の結界を支えているんだ。もしも地上に人間がいなくなったら、支える力がなくなって闇の国は消滅する。だから、地上とは戦争を起こしてはいけないと大昔から言われてきたし、歴代の闇王も民に強く言い渡してきたんだ。だが……」
「イベンセはそれを無視したのね。自分が闇王になったから」
すると、キースは首を振りました。
「闇王の一族なら、地上と戦えない意味はよく知っている。それなのに地上に攻め出たっていうのが問題なんだ。どうしてそんな真似をしたのか──」
そこまで話して、キースは黙り込んでしまいました。端正な顔が非常に深刻な表情を刻んでいます。普段見せている陽気で人なつこい表情は、どこかに消えていました。
アリアンはためらいがちに言いました。
「私たちが闇の国から逃げ出したときに、闇王が言っていたわよね……。私たちが本当にデビルドラゴンを倒せるか、闇の国から見ているって。でも、デビルドラゴンが復活したら、闇の国はそれに従うとも言っていたわ。ひょっとして……」
キースはうなずきました。
「ぼくもそれを考えていた。そもそも、イベンセが幽閉の獄から抜け出せたわけがわからないんだ。大昔から歴代の闇王は自分の後継者を獄に閉じ込めてきた。野放しにしておくと、必ず闇王の命と王座を狙うようになるからな。後継者がそこから出られるのは、闇王が年老いて魔力が弱くなってきたときだ。後継者が複数いれば、殺し合いをして、最後に勝ち残ったひとりが闇王を倒して新しい闇王になる。闇の国はそうやってずっと続いてきた国なんだ」
「でも、今の闇王はまだそんな歳じゃなかったわ」
「ああ、魔力的には最盛期だったはずだ。それにもかかわらず、幽閉の獄を抜け出して闇王を倒すなんて、普通ならあり得ないことだ。外部から強力な援助があったとしか考えられない」
それは……とアリアンは言いかけてやめました。口にしたら、とんでもない状況がたちまち現実のことになってしまいそうな気がして、口に出せません。
すると、キースは厳しい表情のままアリアンの肩に手を置きました。
「ぼくはこれからハルマスに飛ぶ。一刻も早くオリバンたちに知らせたほうがいい気がするんだ」
アリアンはひどく心配そうな顔になりました。
「新しい闇王はハルマスに攻めてくるというの?」
「わからない。でも、ありえないことじゃないだろう──」
話しながら、彼は再び闇の民の姿になっていきました。頭にはねじれた角が、背中には大きな黒い翼が現れます。アリアンは人間の姿のままです。
「魔法軍団の魔法使いたちは、もうぼくの正体を知っているからな。この格好で城を抜け出しても見逃してくれるだろう。君は陛下たちのところへ知らせに行ってくれ」
「わかったわ。気をつけて」
とアリアンが言うと、キースはそんな彼女の唇に素早く唇を重ねました。驚き赤くなった彼女へ、茶目っ気たっぷりに片目をつぶってみせます。
「じゃあ行ってくる。後を頼むよ」
黒い翼が広がり、部屋の窓がひとりでに開きました。キースの姿が空の彼方へ遠ざかっていきます──。
アリアンは真っ赤にほてった頬に両手をあてていましたが、すぐに我に返りました。情勢は急激に移り変わっています。キースの言うとおり一刻を争う事態なのです。
「早く陛下にお知らせしなくちゃ……!」
アリアンも薄緑色のドレスを翻すと、部屋を飛び出していきました。