「ポポロ、竜子帝たちが訓練場に行ったよ。あたいたちも行ってみようか?」
ロムド城の一室で、メールがポポロに話しかけました。
竜子帝と婚約者のリンメイは、先ほどまで彼女たちと同じ部屋にいたのですが、ずっと座ってばかりでは体がなまる、と言って連れ立って稽古に出かけたのでした。竜子帝もリンメイもユラサイ流の拳法の名手です。
ただ、術師のラクだけは部屋に残っていました。床の片隅に直接座り込み、座禅でもしているように、あぐらをくんでじっとしています。そうやってポポロを守り続けているのです。
長椅子に座っていたポポロは、ううん、と首を振りました。
「あたしは拳法なんてできないし……。行ってもすることがないんだもの、ここにいるわ」
その手の中には枠にはまった刺繍(ししゅう)布と糸を通した針がありましたが、肝心の刺繍は全然進んでいませんでした。ポポロは刺繍の道具を手にしたまま、ぼんやりしていたのです。
ルルが足元から起き上がって長椅子に飛び上がりました。ポポロの頬をなめながら言います。
「いつまでそんなにしょんぼりしてるのよ。フルートたちは待ってれば必ず帰ってくるのよ。そんなに時間もかからないわよ」
うん……とポポロは答えましたが、やっぱりその表情は沈んだままでした。ルルがなめるのをやめて顔をのぞき込んでも、それにさえ気がつかずに、ぼんやり刺繍枠を見ています。
そこへ扉をたたいてゴーリスが入ってきました。
黒ずくめの服の腰に大剣を下げた彼は、ロムド国でも指折りの大貴族ですが、とてもそうは思えない庶民的な人物でした。今も気さくに話しかけてきます。
「やっぱりここにいたな。竜子帝たちが稽古に出ていくのは見かけたんだが、おまえたちはきっと部屋に残っているだろうと思ったんだ。おまえたちに会いたいという客を連れてきたぞ」
「客?」
と少女たちが不思議に思っていると、開いたままだった扉の隙間から別の人物が入ってきました。メールやポポロよりもっと幼い女の子です。黒っぽい長い髪を後ろで束ね、綺麗な杏色(あんずいろ)のドレスを着ています。
女の子は扉のそばにいたゴーリスを大きな目で見上げて言いました。
「入ってもいーい、お父ちゃま?」
メールたちは思わず歓声を上げてしまいました。
「うわぁ、ミーナなんだね!」
「久しぶりね! 何ヶ月ぶりかしら!?」
「世界中を回る旅から帰ったときに会ったから……一年ぶりよ! 本当。大きくなったわね!」
さすがのポポロもゴーリスの愛娘の登場には大喜びです。
ミーナは年上の少女たちに囲まれると、ドレスの裾をつまんでお辞儀をしました。ぎこちないしぐさですが、そこがまたとても愛らしく見える年頃です。かわいいね、上手上手、と少女たちに口々に誉められて、にこにこ顔になります。
すると、そこへもうひとりの客人が入ってきました。豊かな栗色の髪を結い上げ、落ち着いた色合いのドレスをまとった女性です。ふっくらした優しい笑顔を少女たちに向けます。
「久しぶりね、メール、ポポロ、ルル。ミーナはちゃんと挨拶できたかしら?」
「ジュリアさん!!!」
と少女たちはまた歓声を上げました。女性はゴーリスの奥方だったのです。こちらも久しぶりの再会でした。
「あなたたちが城に戻ってきたと聞いたから、会いに来たのよ。元気そうで本当に良かったわ」
とジュリアは言いました。優美な姿からはちょっと意外に思えるくらい、飾り気のない率直な話し方ですが、少女たちを慈しむ気持ちが伝わって来ます。
そんなジュリアのお腹が膨らんでいることに、メールが目ざとく気づきました。
「あれ、もしかして二人目?」
「ええ、そうよ。予定は四月よ」
うわぁ!! と少女たちはまた歓声を上げました。ジュリアに飛びついて手を握ったり、ミーナに話しかけたりします。
「全然知らなかったぁ! ゴーリスったら、そんなこと一言も言わないんだからさ! 水くさいよね!」
「おめでとうございます!」
「ミーナはお姉ちゃんになるのね。よかったわね」
メールに、水くさい、と言われてしまったゴーリスは、憮然として言い返しました。
「城の勤めに私情は持ち込まないようにしているんだ。それに、教えたくても、しょっちゅう城を留守にしていたのは、おまえたちのほうだぞ」
ぶっきらぼうな言い方ですが、実は照れ隠しなのだと少女たちにはわかっていました。メールやルルはくすくす笑い、ポポロも笑顔で言いました。
「フルートが戻ったら、すぐ教えてあげたいわ。きっとすごく喜ぶもの」
ひとりっ子のフルートは、剣の師匠であるゴーリスの子どもを、自分のきょうだいのように思っているのです。
「生まれてくるのは男の子かな? 女の子かな?」
「まだわからないの?」
と聞かれて、ジュリアは答えました。
「ユギル様に占ってもらえばわかると思うのだけど、この人がだめと言うのよ。知りたくないからって」
「当たり前だ。あらかじめわかっていたら、楽しみが減る」
とゴーリスはますますぶっきらぼうに答えます。
そんな様子を、術師のラクは部屋の片隅から見ていました。会話に混ざろうとはしませんが、楽しそうな一同を穏やかな目で見守っています。
やがてゴーリスは娘を抱き上げて言いました。
「どれ、ミーナには城の中を見せてやろうな」
「あれ。じゃあ、あたいも一緒に行こうかな」
とメールが言って、ポポロとルルを振り向きました。
「あんたたちはジュリアさんと話しな。きっと元気になれるよ」
人の気持ちに聡いメールは、落ち込んでいるポポロを元気づけるためにジュリアが呼ばれてきたのだと気がついたのです。
とまどう顔になったポポロとルルを残して、メールはゴーリスやミーナと部屋を出て行きました。
「ねえさぁ、中庭の温室に行かないかい? あそこに咲いてる花でミーナに面白いものを見せたげるよ──」
メールの話し声が遠ざかっていきます。
「座りましょうか」
とジュリアは言って、さっきまでポポロが座っていた長椅子に自分から座りました。ポポロとルルがとまどいながら隣や足元に座るのを待って、また話します。
「メールが言っていたとおりよ。フルートが出かけてからポポロの元気がないから、話を聞いてやってほしい、とあの人に言われたの」
ジュリアが言うあの人とは、夫のゴーリスのことです。
ポポロはまたしょんぼりとうつむいてしまいました。ルルが心配そうにそれを見上げます。
そんなポポロにジュリアは話し続けました。
「あなたやルルのことは、あの人から聞いているわ。大変なものを背負ってしまったけれど、それはあなたたちのせいではないわよね。それに、フルートたちもお城の人たちも、そんなことは気にしないはずだわ。それなのに悲しんで悩んでいるのは何故? 自分の生まれや敵が怖いから──ではないわよね? あなたは臆病なように見えても、本当はものすごく勇敢で強い子だもの」
ジュリアの話し方は本当に率直でしたが、同時にポポロを理解して包み込む暖かさがありました。ポポロの目がたちまちうるんで涙をこぼし始めたので、ジュリアは抱き寄せました。膨らんだ自分のお腹にポポロを寄りかからせて、背中を優しくたたきます。
「何がそんなに悲しいの? 話してごらんなさい。人はね、ことばに出して話さなければ、気持ちを知ってもらうことができないのよ」
やっぱり率直で暖かいことばです。
ポポロはしゃくり上げながら涙を拭き、それでも涙が止まらなかったので、ジュリアのドレスに顔を押し当てて言いました。
「あたし……あたし、悔しいんです……」
「悔しい?」
意外な答えにジュリアは聞き返しました。足元ではルルが、部屋の片隅ではラクが、驚いたように目を見張ります。
ポポロはジュリアのドレスに顔をうずめたまま話し続けました。
「みんな、あたしの正体を知って、あたしをセイロスから守ろうとしてくれてます。フルートも、お城の人たちも、みんな……。あたしのために、ハルマスに砦まで作って……。みんなみんな、あたしを守るために一生懸命で……。だけど、あたし……守られるだけなんて嫌なんです!」
そう言ってポポロは顔を上げました。宝石のような緑の瞳はまだ涙で濡れていましたが、唇を結び、泣くのをこらえてジュリアを見ます。
「どうして?」
とジュリアは尋ねました。優しい声です。
ポポロはまた口を開きました。
「あたしは……こう見えたって金の石の勇者の仲間です。あたしだって戦えるのに……戦わなくちゃいけないのに、みんな、あたしを戦いから遠ざけようとするんです。特にフルートがそうだから……。フルートの気持ちはわかるんだけど、心配してくれてるのも、守ろうとしてくれてるのもわかるんだけど……でも、あたしはそんなフルートを守るためにここにいるんです。守られるだけなんて、絶対に嫌なんです!」
普段、誰かと目を合わせるのも怖がるような、引っ込み思案なポポロが、今はありったけの気持ちを込めてジュリアを見つめていました。緑の瞳が熱を帯びてきらきらと光っています。
ポポロ……とルルがつぶやきます。
ジュリアはまた穏やかにほほえみました。
「それじゃ、それを自分でフルートに伝えなくちゃね。さっきも言ったでしょう? 人はことばに出して話さなくちゃ、自分の気持ちを伝えられないのよ。自分の口で言いなさい。自分を守るためにフルートだけを戦わせたくない、私も一緒に戦いたいのよ、って」
今度はポポロが目を見張りました。ジュリアはポポロがずっとことばにできないでいた想いを、見事にことばにしてくれたのです。
とたんにポポロの片手に軽い衝撃が伝わりました。ジュリアの腹部に当てていた手に、ドレスの向こうの何かがぶつかったのです。
あら、とジュリアは言って、また笑いました。
「赤ちゃんもポポロを応援しているようね。がんばりなさい、って言っているのよ、きっと」
ポポロは思わず赤くなると、ジュリアの膨らんだお腹にそっと触れ直して言いました。
「騒いじゃってごめんなさい。うるさかったわね……。うん、あたし、がんばるから。ちゃんとフルートに伝えるわ」
それを聞いて、ルルはまた長椅子に飛び乗りました。ポポロの頬をなめて言います。
「フルートは心配性ですものね。ポポロのことになると、特にそうだから、必要なら私も援護するわよ。二人でフルートを説得しましょう」
うん、うん……とポポロは何度もうなずくと、また涙をこぼし始めました。ルルがまたその顔をなめます。
そんな彼らを、ラクは片隅から黙って見守り続けていました──。