「やあ、よく来てくれたね、フルート」
フルートが入っていくとすぐに、そんな声が出迎えてくれました。
窓のない四角い部屋には丸いテーブルと二脚の椅子があって、その片方にカイが座っていました。短い銀色の髪に黒い服を着て、膝にえんじ色の膝掛けをかけた、中年の男性です。顔立ちはポポロにあまり似ていないし、髪の色も違いますが、瞳は娘そっくりの緑色をしています。
「レオンと一緒に家の周りを綺麗にしてくれたようだね。ラホンドックも元気にしてくれてありがとう」
とカイは言って、どうぞ、というように手招きしました。とたんフルートの後ろで扉がひとりでに閉まり、空いている椅子が自分から動いて座面をフルートに向けました。
フルートは椅子に座ると、挨拶もそこそこに切り出しました。
「会いに来るように言われていたのに、なかなか来ることができなくてすみませんでした。だけど、どうしてポポロに眠りの魔法をかけたりしたんですか? もう一ヶ月間も眠り続けています。ぼくたちは早く彼女に目を覚ましてほしいんです」
カイはほほえみました。穏やかな声で、確かめるように言います。
「本当にあの子に目を覚ましてほしいと思っているかい? もう一つ。本当に、あの子が目を覚ましていいと思っているのかい?」
フルートはびっくりして、思わず椅子から立ち上がりました。
「そんなのは決まってます! ぼくたちはみんな、ポポロが起きるのをずっと待ってるんですよ!」
「あの子は闇の竜の失われた力なのに?」
とカイが聞き返しました。厳しく思えることばなのに、その声も表情も限りなく優しいのが違和感でした。
フルートはとまどいました。
「ポポロのことを闇がらすに吹聴されてしまったのは、本当に申し訳なかったと思っています。しかも、あいつは真実をひどくねじ曲げて言ったし──。だけど、ぼくたちにとってポポロはポポロです。最初からそうだったし、これからも変わりません。ルルだってそうなんです」
カイはまたほほえみました。フルートに座るように促してから、話し出します。
「あの子たちが君たちに出会えたのは、本当に幸せだったな。あの真実を知っても、あの子たちを大切な仲間と思ってくれるんだからね。でも、他の人々はどうだろう? あの子をもう一度信じてくれるかな? それに、あのセイロスは? 奴はあの子がエリーテ姫の生まれ変わりだったと知ってしまった。失われた自分の力を取り戻すために、あの子を狙うようになるだろう。そうしてあの子を奪われたら? セイロスの闇の竜の力は完璧になる。それは世界の破滅だ。地上だけじゃない。海も、この天空の国も地獄に変わってしまうだろう──」
落ち着いていたカイの声が急に震えました。目を閉じると、気持ちと声を抑えるように黙ります。フルートは、彼が大事なことを話そうとしているのだと気づいて、言い返したい気持ちをこらえました。奥歯をかみしめながら、じっと話の続きを待ちます。
やがて、カイはまた落ち着きを取り戻すと、目を開けて話しだしました。
「その危険性は昔から考えていた。だから、あの子がまだ幼かった頃に魔法をかけたんだ。将来、あの子が自分の正体を知って、世界もその真実を知ってしまったら、あの子を深い眠りにつかせる魔法をね。この魔法はぼく以外の誰にも解くことはできない。天空王様にもセイロスにも不可能だ。だからセイロスはあの子から力を奪うことができなくなる。あの子はこれからもずっと眠り続けるだろう。あの子が世界の脅威になって、世界中があの子を恐れるようになるより、そのほうが幸せだと思ったんだ」
フルートは驚きました。頭の中でカイの話を繰り返し、不安にかられながら聞き返します。
「ずっとって、どのくらいのことなんですか? まさか……」
「ずっとはずっとさ。何年も何十年も、寿命が尽きるまでずっと眠り続けるんだ」
フルートは先ほどより激しく立ち上がりました。テーブルを力一杯たたいてカイをにらみつけます。
「ポポロの魔法を解いてください!! 今すぐに!!」
カイはまた穏やかにほほえみました。フルートを見つめ返して言います。
「うん。君ならばきっとそう言うんだろうと思っていたよ。だから、ここに来てもらったんだ……。こっちに来てくれ」
カイに手招きされて、フルートはまたとまどいました。カイとフルートはテーブルを間に挟んでほんの少ししか離れていなかったのです。いぶかしく思いながらカイの横へ歩いていきます。
すると、彼は座ったまま右手を伸ばして、フルートの額に軽く触れました。短く言います。
「レツウ」
とたんに、ものすごい勢いで何かがフルートの頭の中に流れ込んできました。ひと連なりの音のような、音楽のような、見えない力の奔流です。
フルートは激しい目眩と頭痛に襲われてよろめきました。テーブルにぶつかって倒れそうになり、慌ててテーブルにしがみつきます。
けれども、目眩も頭痛もすぐに収まっていきました。音楽のようなものも聞こえなくなります。フルートはカイを振り向きました。
「ぼくに何をしたんです!? どうしてぼくにまで魔法を!?」
フルートがどなっても、カイは落ち着き払ったままでした。
「あの子を目覚めさせるものを君に送ったんだよ。頭の中にちゃんとあるだろう?」
フルートはまた驚きました。自分の頭の中へ意識を向けて確かめてから、信じられないように言います。
「確かに『ことば』があります。これが呪文なんですか? でも、ぼくは魔法使いじゃないですよ」
「それは呪文じゃない。眠りの魔法を解くための鍵なんだよ。これをあの子に聞かせれば、あの子は眠りから覚める──。今、ここで言わないでくれよ。それは一度言えば消えてしまって、二度と戻ってこないからね」
フルートは目を見張り、あわてて唇を結びました。何かを言えば、目覚めのことばまで言ってしまいそうな気がして、声が出せなくなります。
カイはまた話し出しました。
「君たちにここに来るように言ったのは、この眠りの魔法を解くためだったんだよ。あの子は確かにエリーテ姫の生まれ変わりだけれど、君たちと一緒ならば、そんな宿命も乗り越えていける気がしたからね。でも、状況はぼくたちの予想よりはるかに酷いことになった。あの子を目覚めさせるのが本当にいいことなのかどうか、ぼくにはもうわからない。だから君に託すんだよ。あの子が目覚めてもいいと思うならば、あの子を起こしてやってくれ。でも、このままずっと眠り続けるほうが幸せだと思うのなら、そのことばは永遠に言わないでおいてくれ。判断は君に任せるよ」
フルートは眉をひそめました。カイの話に釈然としないものを感じたのです。厳しい声になって言います。
「どうしてぼくに任せるんですか? ポポロに魔法をかけたのはあなたなのに。ぼくたちは世界全部が敵に回ったって、ポポロに起きてほしいと思っています。それはあなただってわかっているはずだ。この魔法はあなたが自分で解いてあげるべきです」
「正論だね」
とカイは言って、また笑いました。フルートがどんなに責めても、穏やかな表情のままです。
「もちろん、本来ならぼくが解くべきだろう。それがぼくの責任だ。だけど、できないんだよ。なにしろこの状態だからね──」
カイはえんじ色の膝掛けを自分の膝から払いのけました。そこへ目を向けて、フルートは、あっと驚きました。カイは椅子に座っていましたが、その膝から下がなくなっていたのです。まるで脚がズボンごと透き通ってしまったように消えてしまっています。
絶句したフルートに、カイは静かに話し続けました。
「ぼくは立って歩くことができないんだよ。あの子のそばへ行って、魔法を解いてやることもできない。だから、君に任せるのさ」
「ど、どうしてこんな──」
やっとフルートの咽から声が出ました。手を伸ばしてみますが、カイの脚があるはずの場所は、どんなに探っても何も触れませんでした。
「フルート、あの子たちを、ポポロとルルをよろしく頼むよ。二人とも、闇大陸で本当につらい想いをしてきたんだ。闇の竜やセイロスのせいで、闇の塔につながれ、翼の怪物に変えられてしまってね。そんな過去からはもう解放されていいはずなんだ……」
話すうちに、カイの脚はますます短くなっていきました。膝が消え、膝から上も消えて見えなくなっていったのです。ついには太股の大半が消えてしまいます。
椅子から転げ落ちそうになって、カイは、おっと、と両手で椅子をつかみました。自分の上体を腕で支えますが、それでもまだ体は消え続けます。
ここまで来て、ようやくフルートは気がつきました。カイはフルートと話す中で、ポポロの過去を何度も口にしていました。それは闇の竜が世界の果てに幽閉されるときに、語ることを禁じた真実でした。もしもそれを口にしたら、呪いが発動して消滅してしまうのです。以前、火の山の地下で幽霊のロズキが過去の出来事を語ろうとして、何度も消えかけたように──。
「話さないで、カイ! 話しちゃだめだ!」
とフルートは叫びました。引き止めるようにカイを捕まえますが、その手の中で黒い服を着た体が薄れ始めます。それでもカイは笑顔のままでした。
「もう遅いよ。ぼくはあのときのことをずいぶん話してしまったからね。君たちが呪いに捕らえられていなくて本当に良かった。理が守ってくれたんだろうね……。フルート、ポポロとルルを頼むよ。あの子たちはあの日から、ぼくたちのかわいい娘たちだ。あの子たちには幸せになってほしいんだよ……」
「カイ、話さないで!!」
フルートは泣きそうになりながら繰り返しました。混乱する頭の中を、ふと昔の出来事がよぎっていきます。地下にある時の鏡の間で、願い石の元へ行こうと消えていくフルートを、ゼンやポポロたちが必死で引き止めたときのことです。今の状況は、あのときの場面によく似ていました。違うのは、フルートが引き止める側に回っているということです。
「消えちゃだめだ、カイ! 消えないで! 消えたらポポロが悲しむ!!」
必死で言うフルートの手の中で、カイの体の手応えが薄れていきます──。
そのとき、フルートの手がいきなり堅いものをつかみました。突然カイの体が実体を取り戻したのです。それだけではありません。ものすごい勢いでふくれあがり、フルートを押し返していきます。
フルートは驚き、目の前で起きていることに立ちすくんでしまいました。
ごつごつした白い岩の結晶が急速に育っていました。フルートを押し返しながら、みるみる大きくなっていきます。それはカイが椅子に座っていた場所でした。カイの姿はどこにもありません。
「カイ! カイ……!?」
フルートは呆然と繰り返しました。
カイは部屋の真ん中で、天井に届くほど巨大な白い岩になってしまったのでした──。