勇者の仲間たちがロムドの特別軍と合流した翌朝。ポポロは天幕から這い出すと、谷川沿いに岸をひとりで歩いて行きました。
降り積もった雪は夜の冷え込みで凍りついて、ポポロの靴の下でざくざくと堅い音を立てました。まだ谷間に日は射しませんが、振り仰ぐと空はもう明るくなっていて、谷の両脇の尾根に立つ見張り兵の姿が影絵のように見えています。兵士の一人がポポロに気づいて敬礼してきたので、ポポロもぺこりと頭を下げ返します。
やがて谷間は幅が広くなって、円形の広場のようになりました。斜面になった広場の中央を谷川が流れています。オリバンたちが訓練に使っていた場所なので、雪はすっかり踏み荒らされていましたが、早朝の今は人影はありません。
しんと静まりかえった広場でポポロは足を止めました。両手を胸の上に重ねると、目を閉じてそっと呼びかけます。
「フルート……フルート、聞こえる? あたしたちはオリバンたちと合流したわよ。ゼンのお父さんたちもいるのよ。フルートは今どこ……?」
そこまで話して耳を澄ますように黙り込んだので、広場は再び沈黙になりました。頭上には朝空が広がっていますが、谷の中は薄暗くて、まだ夜が足踏みしているようです。
すると、さくさく軽い音を立てながらルルが登ってきました。ポポロのそばまで来て話しかけます。
「フルートからはまだ返事がないの?」
うん、とポポロは不安そうに谷の先を見ました。フルートは、ワルラ将軍たちを助けたらすぐに追いかける、と言っていたのですが、丸一日以上たった今もまだ追いついてきていませんでした。それどころか、ポポロの呼びかけに返事さえよこさないのです。周囲が賑やかなせいかもしれないと思って、人気のない場所に来てみたのですが、やっぱりフルートの声は聞こえませんでした。
ルルは考え込むように首をかしげました。
「フルートがワルラ将軍たちを助けたって連絡があったんだから、用事はもう終わったはずよね。それともまだ何かやることがあったのかしら」
勇者の仲間たちは離れていてもポポロの呼びかけを聞くことができますが、決して強い呼びかけではないので、何かに夢中になっていると気がつかないことがあるのです。すぐ誰かのために必死になるフルートは特にそうでした。
「ねえ、それじゃフルートじゃなくポチに呼びかけてみなさいよ。フルートが忙しくても、ポチなら返事ができるかもしれないわ」
とルルは言いましたが、ポポロは首を振りました。
「ポチにも昨日のうちから呼びかけてるのよ。でも、ポチからも返事がないの……」
宝石のような緑の瞳はすでに涙でいっぱいでした。目の際までふくらんだしずくがもう少しでこぼれ落ちそうになっています。
「ポチまで? やだ。どうしたのよ、それ。あの人たち本当に無事でいるの?」
とルルも心配を始めたので、とうとうしずくがこぼれました。それを懸命に拭いながらポポロが言います。
「あたし……あたし、魔法使いの目を使ってみるわ……。もうワルラ将軍たちのところにはいないかもしれないけど、こっちに向かっているなら、途中で見えるかもしれないし……」
「大丈夫? けっこう距離があるわよ。疲れてしまわない?」
「うん、たぶん大丈夫……こんなふうにただ心配してるよりは、ずっといいもの」
そう言うと、ポポロは最後の涙を払い落としました。周囲を見回して方角を確かめると、ワルラ部隊がいるゾルゾルー侯爵領の方角へ遠いまなざしを向けます――。
ルルはその様子を見上げながら、魔法使いの目が使えるっていうのはどんな感じなのかしら、と考えました。
ものすごい距離をあっという間に超えていくのですから、風の犬になって飛ぶより速く景色が流れていくのでしょう。地上付近を見ていくのですから、低い場所を超高速で飛び抜けていくような感じかもしれません。それでいて、大事なものは見逃さないように目配りもするのですから、疲れるのは当然のことでした。普通の人間にこの能力が使えたら、きっと目を回して倒れてしまうことでしょう。
けれども、ポポロは口を一文字に結んだまま、遙か遠い場所を見通し続けていました。ワルラ将軍たちがいるはずのゾルゾルー侯爵領をめざしながら、同時にフルートやポチの姿を探し続けています。
強い子、とルルは心の中で思いました。生まれたときからずっと妹のように守ってきたポポロですが、か弱く見えても本当は何にも負けない芯の強さを持っていることを、ルルは昔から知っていた気がします……。
ところが、強いはずのポポロがいきなり身をすくませ、飛びつくようにルルに抱きつきました。顔が真っ青になっています。
「ど、どうしたの!? まさか、フルートたちが――!?」
とルルが聞き返すと、ポポロは激しく首を振っていっそう強くルルに抱きつきました。身を乗り出してルルの長い毛に顔を埋めます。まるでどこかに連れ去られないように抵抗しているようです。
「見えたのよ……空の上にたくさんの影……と闇の影。あれは……あれはセイロスと飛竜部隊よ……」
震え出したポポロの背中に、本当に薄い影のようなものがまとわりついていました。影の端は谷の上のほうへ細長く続いています。それが見る間に濃くなって、黒い前脚に変わっていきました。長く鋭い爪がポポロの服の背中をわしづかみにしています。
ルルは全身の毛を逆立てました。何がポポロを捕まえようとしているのかを悟ったのです。恐怖で体がすくみます。
「助けて!!」
影の前脚に引きずられそうになって、ポポロは悲鳴を上げました。前脚はますますはっきりしてきました。黒いうろこにおおわれた皮膚には、赤く太い血管が脈打っています――。
ルルはぶるっと身震いして恐怖をはね飛ばしました。唸りながらポポロの腕から飛び出すと、うろこにおおわれた前脚に猛然と飛びつき、思いきり牙を立てます。
その瞬間、谷間の広場に朝日も差し込んできました。ようやく太陽が尾根の上に姿を現したのです。影の前脚を白々と照らします。
すると、前脚はルルの牙の間で崩れていきました。影が朝の光に薄れるように、薄くなって消えていってしまいます。
ルルはどさりと雪の上に落ちると、腹ばいになったまま、ぜいぜいと息をしました。影の前脚にかみついたとたん、すさまじい寒気と恐怖に襲われて呼吸が止まりそうになったのですが、今はまた息ができるようになっていました。ポポロが泣きながらしがみついてきます。
「ルル! ルル! ルル……!」
ルルは我に返ると、跳ね起きて言いました。
「泣いてる場合じゃないわよ、ポポロ! セイロスたちがこっちに向かっているんだわ! 早くオリバンたちに知らせないと!」
それでもポポロがまだ泣きやまないので、風の犬に変身して背中にすくい上げ、谷の出口の砦へと飛んでいきます──。
同じ頃、ロムド国へ続く谷を飛んでいたセイロスが、急に飛竜の手綱を放しました。左手で右手首を押さえたので、横を飛んでいたギーが尋ねました。
「手をどうかしたのか、セイロス?」
「犬……いや、ネズミだ。こちらをのぞいていたが捕まえそこねた」
とセイロスは答えて左手を開きました。右手首には傷ひとつついていません。脈打つ黒い籠手におおわれているだけです。
「ネズミ? ここは空の上だぞ?」
とギーはけげんそうな顔をしました。反対側の横を飛竜で飛んでいたバム伯爵は、そんなやりとりを黙って聞いています。
セイロスもそれ以上は何も言わず、五十頭ほどの飛竜部隊を率いて谷を飛んでいきました――。