瓦礫になったゾルゾルー侯爵領の基地に、夕暮れが迫っていました。
真冬の空は厚い雲におおわれていて夕焼けは見えません。次第に暗くなっていく中で、深緑の魔法使いは腹立たしくつぶやいていました。
「また夜が来るわい! しかも降り出しそうじゃ! こんなところに雪が降ったら、ますます絶望的じゃぞ!」
彼は瓦礫が積み重なった高い場所に立って、長い樫の杖を掲げていました。そこから周囲へ魔法の障壁を張り巡らして、真冬の寒気を防いでいたのです――。
ワルラ将軍が率いる部隊は、セイロスに破壊された基地に巻き込まれて、甚大な被害を受けました。その場で即死した者も少なくありませんでしたが、かろうじて生き残った者たちも全員が大怪我をしていました。
比較的怪我の軽い者が城下町へ救助を求めに行きましたが、住民は一瞬で崩れた基地に恐れをなして、彼らを助けようとはしませんでした。彼らがエスタではなくロムドの軍隊だったことも災いしました。両国の長年の確執は根深かったので、住民たちはロムドの兵士に石を投げつけて追い払ったのです。基地の崩壊から二日目の夜が来ようとしているのに、彼らはまだろくな手当も受けられないまま、瓦礫の中に取り残されていました。
季節は一月。しかもここはミコン山脈の麓の高地です。焚き火をたいても防げないほど冷え込みは厳しく、生き残った者も寒さにどんどん体力を奪われていくので、やむなく深緑の魔法使いは基地の跡地を障壁で包んだのでした。そうすることで寒さは和らぎましたが、彼は他の魔法を使うことができなくなってしまいました。負傷した兵士たちが次第に弱っていくのに、それを救うことさえできなくなっていたのです。
瓦礫の高い場所に立ちながら、魔法使いの老人は腹を立て続けました。
「まったく、どうしろと言うんじゃ! こうしとれば、どこかから援軍が来るのか!? 今すぐここを立ち去って、どこでもいいから人里に転がり込んで手当を受けなくちゃならんのに――!」
老人は瓦礫の麓を見下ろしました。そこにはあり合わせの布を集めて作った、粗末な天幕がありました。中にワルラ将軍が寝かされています。将軍は重症でした。老人の魔法だけでは傷を完全には治せなかったので、傷が病んで高熱に襲われています。
生き残った兵士たちは、そんな将軍の天幕を取り囲んで動こうとしませんでした。老人の言うとおり、この場を離れて生き延びる努力をするべきなのに、誰ひとりとして将軍のそばから離れようとしません。彼らはワルラ部隊と呼ばれる、ワルラ将軍直属の兵士たちでした。将軍と国王陛下のためになら自分の命さえ惜しまない、愚直なまでに忠実な部下たちだったのです。
深緑の魔法使いは溜息をつきました。
魔法での治癒は相手の体力を大きく奪います。魔法医ならば魔法で患者の体力をうまく底上げしながら治療を行うのですが、彼にはそこまでの治療はできません。将軍を治そうとして、残り少ない体力を根こそぎ奪ってしまえば、将軍はたちまち死んでしまうのです。
「せめて白か青がいればの――」
と老人の口から思わず愚痴がこぼれました。
ロムドへの救援要請は守備力を削ぐことになるから無用、とワルラ将軍には言われたのですが、老人は昨日のうちからロムドの四大魔法使いへ呼びかけていたのです。ところが、途中にいるセイロスが闇魔法で邪魔をしているのか、あるいはロムドでも何かが起きているのか、いくら呼びかけても仲間たちから返事はありませんでした。白、青、赤、どの魔法使いからも呼びかけに応える声は聞こえてきません。
何事も起きていなければいいんじゃが……と老人は考え、いても立ってもいられない気持ちになりました。この先のバム伯爵領の基地には勇者の一行がいますが、彼らも敗れれば、セイロスと飛竜部隊はロムドに突入してしまいます。ひょっとしてロムドはもう襲撃されているのでは、と想像はどんどん悪い方へと転がっていきます。
すると、天幕からガスト副官が出てきました。瓦礫に足を取られてよろめいたので、そばにいた兵士が支えます。部下に支えられながら、副官は瓦礫の上まで登ってきました。
「お願いがあります、深緑殿……」
副官の片目はひしゃげた兜に隠れたままでした。ここへ登ってきただけで息が荒くなっています。
老人は副官を鋭く見つめてから言いました。
「おまえさんも傷のせいで熱が出とるな。おまえさんはまだ体力があるから大丈夫じゃろう。そら」
老人が杖を握っていない方の手をかざすと、副官の顔が急にしゃっきりしました。赤黒く腫れていた顔がみるみる普通の顔色に戻っていきます。
「かたじけない」
と頭を下げた副官に、老人は先手を打つように言いました。
「おまえさんのことは治療できても、将軍の治療は無理じゃ。そんなことをすれば、将軍はあっというまに黄泉の門をくぐってしまうからの」
副官は首を振りました。
「そうではありません。もちろん将軍を治していただきたいのは山々ですが、それが無理だという話は昨日伺いました……。お願いというのはジャックのことなのです。昨日から姿が見えなくなって、いまだに戻ってきません。この状況に怖じ気づいて逃げ出したのだろうと陰口をたたく者もいますが、彼はそんな臆病者ではありません。ジャックが今どこで何をしているか、見つけることはできないでしょうか? 将軍が熱に浮かされながら気にかけておいでなのです」
老人はまた溜息をついてしまいました。
「わしもジャックが逃げ出したとは考えておらん。おそらく助けを求めに行ったんじゃろう。どこまで行ったかはわからんが――。わしの目は相手の真の姿を見抜くが、千里眼というわけじゃない。ジャックを探すためには、ここにかけた魔法をいったん解かなくてはならんし、時間もかかるじゃろう。将軍もおまえさんたちも、夜の冷え込みをまともに食らうことになるぞ。今すぐにはできん相談じゃ」
そう話しているうちに、薄暗くなった空から、ひらりと白いものが舞い降りてきました。白いものはたちまち数が増え、後から後から落ちてきます。とうとう雪が降り出したのです。
雪が本降りになってくるのを見て、老人は厳しい声になりました。
「この障壁では雪が防げん。範囲を狭めてもっと強力な障壁にするから、全員を将軍の天幕の周りに集めるんじゃ」
「わかりました……」
とガスト副官は力なく答えると、また部下に支えられながら天幕へ降りていきました。片方の目しか見えない上に、あたりが暗くなってきたので、足元がおぼつかなかったのです。
それを見守りながら、老人はまた溜息をつきました。
今となっては、ジャックが助けを連れて戻ってくることだけが望みでしたが、彼が今どこにいるのか、本当に助けを連れてくることができるのか、まったく見当がつきませんでした。
雪はどんどん激しくなっていきます――。
すると、降りしきる雪の向こうから、ワンワンワン、と犬の鳴き声がしました。風の音が強まって鳴き声が止まりますが、ほどなくまた鳴き声がします。
魔法使いの老人も副官も他の兵士たちも、思わず、はっとしました。犬の声はこちらに近づいていました。揺れながら近づいてくる光も、かすかに見えます。
そちらを見た老人は年甲斐もなく歓声を上げてしまいました。瓦礫の上で腕を振り上げ、ロムド軍の兵士たちに向かって叫びます。
「勇者殿じゃ! ジャックが勇者殿を連れてきてくれたぞ! 助かった!」
最後の一言は老人の本音でした。
どよめき跳ね起きた兵士たちの前に、一匹の白い小犬が現れました。彼らを見ると振り向いて、ワンワンワンとまたほえます。
「いました、ロムド軍ですよ! こっちです!」
すると、降りしきる雪の中から二人の人物が姿を現しました。金の防具を着たフルートと、銀の鎧に従者の上衣のジャックです。揺れていた光はフルートの胸で輝く金の石でした。瓦礫の中の陣営がたちまちわき返ります。
「遅くなりました! ワルラ将軍はどこですか!?」
とフルートは彼らに駆け寄っていきました――。