一時間後、勇者の一行はエスタの皇太子とその母や乳母を連れて、明け方の空を飛んでいました。
と言っても、皇太子たち三人は風の犬になったポチやルルに乗ることはできません。そこで、フルートが皇太子を膝に抱き、ゼンが母親のブリジットと乳母を背負いました。
二人の女性は、椅子ごとゼンの背中にくくりつけられて、恐怖で死んだようになっていました。
「これはドワーフのロープだ。絶対切れたりしねぇよ」
とゼンが保証しても、メールが安心させるように話しかけても、返事をすることもできません。
一方、皇太子は空の上が珍しくて大はしゃぎでした。東の空に朝日が昇って景色が見えるようになると、なおさら興奮して、ひっきりなしにしゃべります。
「すごい! 家も牛も馬も豆つぶだ! あの光る長いのはなに? 川なの? あの緑色は? 森? 父上のお部屋のじゅうたんみたいだね! あっ、何かが飛んでる! 鳥かな――!?」
皇太子を抱いたフルートは、その都度優しく返事をしていました。
ポポロはフルートの後ろで布に包まれた真実の錫をしっかり握っています。
やがて、彼らは高度を上げて雲を抜けました。明るくなって地上から彼らが見えるようになってしまったので、姿を隠すために雲の上に出たのです。
わぁ! と皇太子はまた歓声を上げました。足元に広がる雲海は、まるで一面に敷き詰めた綿の布団のようです。
「あそこにおりてよ! やわらかそうだから乗ってみたい!」
とたんに、ぐったりしていた乳母が我に返って、金切り声を上げました。
「とんでもありません、殿下! あんなところに下りたら、あっという間に地面に落ちてしまいますよ!」
母親のブリジットのほうは青ざめた顔で目をつぶっていて、相変わらずなにも言いません。
フルートは苦笑しました。
「乳母さんの言うとおりなんですよ、殿下。ぼくたちは今、あの雲の中を通ってきたんです。濃い霧の中をくぐり抜けたでしょう? あれが雲の正体なんです。乗ることはできないんですよ」
けれども幼い皇太子にその話は理解できませんでした。その後も、あそこに下りたい、雲に乗りたい、と駄々をこね続け、やがてくたびれて眠ってしまいました。
ルルはポチに並ぶと、フルートの腕の中の皇太子をのぞき込みました。
「やっと静かになったわね。皇太子って言っても、中身は普通の子どもだわ」
「ワン、それはそうだよ。まだ四歳なんだし」
とポチが答えると、フルートが皇太子の寝顔を見ながら言いました。
「オリバンも、先代のザカラス王に命を狙われて殺されそうになったのは三歳のときだと言ってた。王室に生まれてしまうと、小さいときから苦労することになるよね」
皇太子を見るフルートは痛ましそうな目をしていました。皇太子が「殺されたくない」と言って泣いていた場面を思い出したのです。仲間たちも一緒になって、眠っている男の子をのぞき込みます。
と、急にポチが頭を動かしました。ゼンが背負っている二人の女性のほうを振り向き、くん、と鼻を動かします。
「どうしたの?」
とルルが聞きましたが、ポチは首をかしげたまま何も言いませんでした。二匹の犬はごうごうと風を切って飛び続けます――。
やがて、彼らはオグリューベン公爵の出城のアーペン城に到着しました。
出城は通常、戦いの守りのために築かれるのですが、このアーペン城もそんな城でした。大きな川筋から少し山間に入った崖の上に、谷を見下ろすように建っていて、谷から城へ行くには急なつづら折りの一本道を通るしかありません。
「確かに守りの堅そうな城だな。山や森に囲まれているから、人目にもつきにくいし」
とフルートは城を見下ろし、周囲の空を見回しました。敵の飛竜が近くにいないか確認しますが、どこにもそれらしいものは見当たりません。
すると、メールが言いました。
「ねえさぁ、あのお城にオグリューベン公爵はいないんだろ? 出城なんだからさ。あたいたちが皇太子たちを連れていって、ちゃんと信用してもらえんのかな?」
「それでも行くしかないさ。公爵が指定してきたんだからな」
とフルートは言いました。
「もしも俺たちの正体を疑って四の五の言ってきたら、ガツンと思い知らせてやらぁ」
とゼンが拳を振り上げたので、その拍子に背中の椅子が大きく揺れました。二人の女性が悲鳴を上げて椅子にしがみつきます。
「ちょっと。気をつけなさいよ、ゼン」
とルルの小言が飛びます――。
けれども、実際にアーペン城に下りてみると、メールが心配したような事態にはなりませんでした。一行が城門前に立つと、たちまち門が開いて、城代(じょうだい)が出てきたからです。城代というのは領主に代わって城を守る家臣のことです。
「金の石の勇者のご一行様ですね。公爵様からの早鳥で知らせを受けておりました。皇太子殿下、ブリジット様、アーペン城へようこそ。へんぴな場所ではございますが、鉄壁の守りを誇る城でございます。どうぞご安心ください」
そのときには皇太子はもう目を覚まして、見慣れない城にきょろきょろしていました。城代の挨拶などろくに聞いていません。
一方ブリジットは地上に下りてようやく元気を取り戻しましたが、城代の話に失望した顔になっていました。
「叔父上はここにはいらっしゃらないのですか? ご相談したいことがありましたのに」
「いいえ、公爵様も明日にはおいでになります。それまでの間、どうぞゆっくりとお過ごしくださいませ」
城代の案内で一行は城の中に入りました。フルートたちが門をくぐると、後ろで分厚い扉が閉まります。
「これからどうすんのさ?」
とメールに聞かれて、フルートは言いました。
「もちろん、公爵の到着を待つよ。ぼくたちは公爵の頼みを聞き届けた。今度はこっちの頼みを聞いてもらう番だからな」
その足元で、ポチは先を行く二人の女性の後ろ姿を見つめ続けていました。乳母は皇太子に寄り添って歩き、ブリジットはひとりだけで歩いていきます。
「ねえ、さっきから何をそんなに気にしているのよ?」
とルルが尋ねると、ポチは低い声で答えました。
「ここでは言えないよ。後で話すから――」
彼らは石積みの塀に挟まれた細い通路を通り抜け、その先にあった内門をくぐって、館が建つ中庭へと入っていきました。