フラーから、私たちの娘になりなさい、と言われて、エリーテ姫は絶句しました。塔の下に立つフラーとカザインを信じられない顔で見つめます。
驚いているのはカザインも同様でした。あわてて妻に聞き返します。
「彼女をぼくたちの娘にするって、いったいどうやるつもりだ!? もちろん、君とぼくの子どもをつくることはできる。魔法の力を借りれば、女の子が生まれるようにすることだって可能だ。だけど、魂に肉体を与えて子どもにするなんて魔法は、ぼくたちは知らないんだぞ!」
けれども、フラーはまったく引きませんでした。笑顔のままで答えます。
「できるわよ、ホムンクルスの原理を使えば。ううん、それよりもっと簡単だわ。魔法のフラスコの中じゃなく、私のお腹の中に胎児の体を作って、そこにエリーテに入ってもらえばいいんだもの。胎児に命が宿れば、あとは生まれてくるまで私のお腹の中で大事に育てるだけよ。私たちの子どもとして」
「無茶だ! そんなことは聞いたことがない!」
「無茶じゃないわ、可能よ。もちろん、エリーテの魂を新しい肉体に移すには、ものすごい魔力が必要になるわよね。だけど、彼女は闇の竜の力を持っているんだもの。きっとできるはずだわ」
「だが――!」
反対を続けるカザインを、フラーは押しとどめました。心配している夫の目をのぞきながら言います。
「じゃあ、エリーテを殺すの? 塔と一緒に破壊して消滅させて。そうなったら彼女の人生はここで終わりだわ。彼女のせいでもなんでもないことで、不幸な運命に巻き込まれて闇の呪いに囚われて、こんな寂しい場所で二千年もつらい時を過ごして――それで終わりにしていいの? 死ぬことが彼女の救いだなんて、そんなことにして本当にいいの?」
繰り返し確かめられて、カザインは返事ができなくなりました。困惑して妻を見つめ返します。
それに答えたのはエリーテ姫でした。
「だめです! そんなことはできないし、できたとしても、絶対やってはいけないのです!」
「どうして?」
とフラーは聞き返しました。落ち着いた声です。
姫は激しく頭を振りました。
「私に宿っているのは闇の竜の力です! 私は闇なのです! あなたたちの気持ちは嬉しく思います! でも、私をその身に宿したりしたら、あなたも闇に取り込まれてしまいます! 先ほどのハーピーのように、あなたまで怪物になってしまうんです!」
すると、フラーはまたほほえみました。金色の瞳が優しくエリーテ姫を見つめます。
「あなたは確かに闇に囚われているけれど、それは体だけよ。あなたの心は全然闇なんかじゃない。あなたの心、あなたの魂は今も闇から自由でいるのよ。だから、きっとできるわ、エリーテ。闇に捕まった体を捨てて、こちらにいらっしゃい。大丈夫、私たちの力で、絶対にあなたをここに受け止めてあげるから」
フラーは自分の下腹部に両手を押し当ててみせました。ね? と夫を振り返ります。
エリーテ姫はますます青ざめました。
「できません! そんな危険なこと、絶対に! お願いだから、最初の話通りにこの塔を破壊してください! それが唯一の正解なんです――!」
フラーが聞く耳を持たないので、姫はカザインに訴えます。
カザインはまた片手で目をおおいました。深い溜息をつくと、低い声で答えます。
「確かに、フラーが言っている方法はあまりにも危険だ。いろいろなものが失われる。その中には記憶もある――。魂になってまた赤ん坊になれば、君は以前のことはもう何も覚えていられなくなる。友だちのことも、両親のことも、自分が誰だったのかも、どんな人生を送ってきたのかも。君はまったく別の人間になってしまうんだよ、エリーテ」
エリーテ姫は目を見張りました。カザインはフラーではなく彼女に向かって話していたのです。
カザインは言い続けました。
「それでもかまわない、ぼくたちの娘になってやり直したい、と君は思うかい? その覚悟があれば、ぼくたちは君をぼくたちの娘にしよう」
そして、カザインは顔から手を外してエリーテ姫を見上げました。彼の目も強い決心の色を浮かべています。
フラーはまたほほえむと、夫に寄り添いました。
「ありがとう。きっと賛成してくれると思っていたわ」
「なに、予定よりほんの少し早く親になるだけのことだ。そう大したことじゃない。問題は彼女の決心だ」
「そうね」
フラーはうなずいて、エリーテ姫にまた話しかけました。
「今彼が言った通りよ。あなたが私たちの娘になれば、あなたはエリーテだったこともエリーテとして経験したことも、何もかも忘れてしまうわ。それでもかまわない? 何もかも捨てて、生まれ変わりたいと思う?」
「何もかも忘れる……?」
エリーテ姫は呆然としながら繰り返しました。
「何もかも……セイロスのことも?」
すると、彼女の目からまた涙があふれ出しました。目を閉じ、後から後から湧いてくる涙にむせびながら言います。
「セイロスを……忘れることができるの? なんて……なんて素敵なんでしょう……!」
フラーはちょっと首をかしげました。念のために聞き返します。
「それって本心ね、エリーテ? 本当にセイロスにはもう未練がないのね?」
とたんに姫は笑い出しました。目を開け、まっすぐにフラーたちを見ながら言います。
「二千年間も自分をこんな目に遭わせた男を、今でも愛していられると思いますか? 彼に対する恨みも憎しみも、彼の記憶と共に忘れ去ることができるのなら、こんなに幸せなことはありません。希望は必ず来るから信じて待て、と梟の王は言いました。あの予言は真実だったのだと、私は今、実感しています……!」
泣き笑いを続けるエリーテ姫に、フラーとカザインはうなずきました。
「じゃあ、決まりね。エリーテに新しい命と人生をあげましょう」
「ぼくたちの娘としてね」
そんな話をしながら二人手を取り合い、同時に呪文を唱え始めます。
エリーテ姫はまだ涙を流しながら、その様子を見つめていました。二人の手の間に魔法の光が生まれ、輝きを強めていくと、彼女の青ざめた頬に血の気が通い、暗かった瞳が明るくなっていきます。姫は確かに新しい希望を持ち始めたのです。
呪文を唱え終えたカザインとフラーは、片方の手を離して姫に向かって大きく腕を広げました。
「来い、エリーテ!」
「いらっしゃい、私たちのところへ!」
魔法の光が塔へ飛んでいき、エリーテ姫を取り囲みました。金色がかった緑のきらめきが姫を包み込みます。
光はすぐに塔を離れ、ぐるりと塔の先端を一周しました。そこにはもうエリーテ姫の姿はありませんでした。艶のない黒い表面が、のっぺりと無機質に残されているだけです。
光はまた地上へ戻ってきました。今度はカザインとフラーの周りを一周すると、二人の間に飛び込みます。フラーはもう一方の手も離して光を受け止めました。カザインが抱きかかえるように光を抑えます。
とたんに光から猛烈な風が湧き起こりました。二人が着ているマントが引きちぎられるほど激しくはためき、頭にかぶったフードが舞い上がります。
やがて光はフラーの体に吸い込まれ、小さくなって消えていきました。
風もやみます。
フラーは顔中に汗をかいて、荒い息をしていました。カザインのほうも精悍な顔から汗をしたたらせています。二人のフードは風に吹き飛ばされていたのです。若い男女の顔があらわになってしまっています。
「大丈夫か、フラー?」
心配そうに尋ねた夫に、妻は笑ってみせました。
「ええ、もちろんよ……。私もこの子も平気」
と下腹に触れてみせます。まだ少しもふくらんではいませんが、そこには新しい命が宿っていたのです。
カザインも笑顔になると、同じ場所に手を当てて言いました。
「ようこそ、ぼくたちの赤ちゃん。ぼくが君のパパだよ」
「そして、私があなたのママよ。よろしくね」
ほほえむ二人の後ろで黒い塔がゆっくりと色を失い、輪郭も失って、音もたてずに崩れていきました――。