ロズキが火の鳥の中に呑み込まれて飛び去り、城の大広間はまたセイロスとエリーテだけになりました。
セイロスがいまいましそうに言います。
「どいつもこいつも私に逆らいおって……!」
椅子の肘置きを握る手には黒く鋭い爪が伸びています。
エリーテ姫はまた泣いていました。ロズキの魂が闇の手から逃れたことを喜んでいるのか、セイロスの変貌ぶりを悲しんでいるのか、こんな状況に追い込まれた自分自身を嘆いているのか、傍目にはわかりません。ただ、彼女は命乞いはしませんでした。これ以上セイロスの暴走を見せられるくらいならいっそ殺されたい、と本気で考えているのです。
セイロスはそんな彼女を冷ややかに眺めました。
「死にたがっている者に死を与えることは、喜びを与えることになってしまうな。よかろう、では、おまえを死ぬことができない体にして、私から離れられなくしてやろう。おまえに私の力の一部を与えてやる」
姫はまた顔を上げました。言われた意味がわからなかったのでしょう。目を見張り、確かめるようにセイロスを見上げます。
セイロスは言い続けました。
「エリーテ、おまえに与えるのは私の中にある『抑止』の力だ。これがあるために、私は内にいる闇の竜を全開させずに、ほどほどのところで戦いを収め、私に従順を誓った者たちを領民として生かしている。今日からこの抑止の力をおまえに与えよう。おまえは私の『抑止力』になるのだ」
セイロスが椅子から立ち上がったので、エリーテも床から飛び起きました。彼が歩み寄ってきたので、押されるように後ずさって言います。
「い、意味がわかりません……! 私があなたの抑止力になるとは、いったいどういうことですか……!?」
「抑止力とは私を止める力だ。おまえがそばにいれば、私は世界を破壊することを思いとどまり、適当なところで戦いを終わらせることだろう。おまえが民の命乞いをすれば、私も皆殺しを思いとどまるかもしれん。だが、そのためにはおまえは常に私と共にいなくてはならない。おまえが私の元から逃げ出せば、抑止力がなくなり、闇の竜を抑えるものがなくなるからだ。私はたちどころに全世界を破壊し、すべての生命を全滅に追い込む。おまえが私の元から去ればな。おまえが私の抑止力になるというのは、そういうことだ」
エリーテ姫は真っ青になりました。セイロスが迫ってくるので、後ずさりながら首を振って嘆願します。
「ひと思いに私を殺してください! 私はあなたの世界征服の手助けなんかしたくないのです!」
「そうはいかぬ。おまえは私のものだ、エリーテ。私がある限り、おまえもあり続ける。私は世界の王となり、おまえは世界の王の妃となるのだ」
まるで求婚のことばのようですが、その声はあまりにも冷酷でした。呪いのように禍々しく響いて姫に絡みつき、彼女を動けなくしてしまいます。
立ちつくす彼女の肩にセイロスは手を置きました。もう一方の肩にももうひとつの手をかけ、にやりと笑います。
「おまえに私の抑止の力を与えよう。受け取れ」
とたんにセイロスの黒髪が広がって伸び、無数の触手のように動いて姫を突き刺しました。どん、と激しい音がして黒い光が広がります――。
セイロスの髪がまた縮んで元の場所に戻っていくと、エリーテ姫は力なくその場に崩れました。無数の髪の毛に突き刺されたのですが、彼女の体に傷は残っていませんでした。石の床にドレスの裾を広げて座り込んでしまいます。
それを見て、セイロスはまた笑いました。
「我が力を与えても姿は変わらなかったか。闇の怪物になってしまったのでは美しくないから、私の魔法で姿を抑えておこうと思ったのだが。おまえの善良な心は非常に強力だったようだな。さすがは我が妻だ」
黒い爪の手がエリーテ姫の腕をつかんで、ぐいと引き起こしました。姫はされるがままに立ち上がります。
すると、乱れていた姫の髪がまた綺麗に整えられました。豪華なドレスからしわが消え、床に飛んでいた冠も頭の上に戻ってきます。
いかにも王妃らしい姿になったエリーテ姫に、セイロスは言いました。
「おまえは私の力を分け与えた私の宝だ。全世界を私に破壊させたくなければ、私のそばにいろ。おまえは永遠に私のものだ」
セイロスの腕がエリーテ姫の体を抱きしめ、唇が唇をふさぎました。乱暴な抱擁ですが、姫はやっぱりされるがままでいます。
と、姫の目からまた涙がこぼれ始めました。涙は頬を伝い、ドレスの襟元を濡らしました――。
声も出せずにその光景を眺めていた少年たちは、解放されたように話し始めました。
「ワン、セイロスはエリーテ姫に抑止力を与えたって言いましたよ! やっぱりフルートが考えていたとおりだったんだ!」
とポチが言うと、レオンがうなずきました。
「そうだな、フルートの推理通りだ。セイロスはエリーテ姫に自分の抑止力を与えて、自分から離れないようにしたんだ」
「でもよ、どうして抑止力を与えられるとエリーテ姫は逃げられなくなるんだ? 抑止力ってのは我慢の力のことだろう? んなもんで人間を縛ることはできねえはずだぞ」
ゼンが今ひとつ理解しきれないでいると、フルートが答えました。
「抑止力そのものに彼女を縛っておく力はないさ。でも、彼女が逃げたら、セイロスを抑止する力がなくなる。そうなったら自分はデビルドラゴンになって世界を破壊するぞ、とセイロスは言って、彼女を脅しているんだ」
言いながらフルートは拳を震わせていました。セイロスのやり方に心底怒りを覚えているのです。
「エリーテ姫が心優しいことを見抜いて言っているんだな。実に卑怯な手だ!」
とビーラーも牙をむき出して怒ります。
一方、ハーピーもカザインとフラーにしきりに尋ねていました。
「エリーテはどうして逃げないんだ? 彼女は絶対に嫌がっているぞ。それなのにどうして奴と一緒にいるんだ?」
奴というのは、もちろんセイロスのことです。
フラーは涙を浮かべながら首を振りました。
「逃げたくても逃げられないのよ。セイロスがそうしてしまったから」
「彼女がどうしても承知しないから、こんな手で彼女を自分のそばに置いたんだな。これが彼女が竜の宝になってしまった理由なのか」
とカザインは痛ましそうに目を細めます。
彼らの前で過去の光景は新しい場面を映し始めていました。エリーテ姫を抱くセイロスの姿が大広間ごと消えていき、青空の中にそびえる高い塔が現れます。
塔のてっぺんには窓があり、そこに人影がありました。冠をかぶり、豪華なドレスを着たエリーテ姫です――。
窓から見える空は美しく晴れ渡っているのに、エリーテ姫はそれを見てはいませんでした。窓辺にたたずんだまま、沈んだ様子でうつむいています。美しさは相変わらずでしたが、顔色はすぐれず、顔や体つきはずいぶん痩せていました。激しい心労にやつれてしまったのです。ときどき重苦しい溜息を洩らします。
すると、窓の外から風が吹くような音がして、若い男の声が聞こえてきました。
「失礼。あなたはエリーテ姫ですね?」
姫は顔を上げ、窓の外に一匹の竜がいるのを見て驚きました。大蛇のような体に四本の脚がある白い竜です。話しかけてきたのはその竜でした。
「もしかして光の軍団のお仲間ですか? 魔法の水鏡であなたの姿を見たことがある気がします」
と姫が言うと、白い竜は嬉しそうに空中で体をくねらせました。
「私はシュンの国の琥珀帝を守る白竜の一族です。竜王から命じられてここに来ました。私たちは中庸の力を持っているので、闇の竜の防御魔法をすり抜けることができるのです。セイロスが西を攻めに行って不在なのはわかっています。あなたを迎えに来ました。私と一緒に光の仲間の元へ来てください」
そう言って白い竜は窓の向こうからエリーテ姫を見つめました――。