二の風が吹いた後に現れた大河を前に、岸辺にたたずむ男女がいました。
男は短い銀髪で精悍(せいかん)な顔つき、女は肩までの長さの赤い髪でなかなかチャーミングな顔立ちをしています。共にまだ二十代前半といった若さで、男は緑色の輪を額にはめて黒ずくめの服、女も黒い上着とズボンを身につけて、その上からスカートのような黒い腰布を重ねています。彼らの服は闇のような色ですが、その奥からきらきらと星のきらめきを放っていました。天空の民が着る星空の衣なのです。
二人が前にしている大河は、左手から右手へゆっくりと流れながら、奇妙な光景を繰り広げていました。川面を風が吹き渡っていくと水面が急に真っ白になり、一面分厚い氷におおわれてしまうのです。ところが、また風が吹いてくると、すぐに氷がひびが入って砕け、みるみる溶けて川に戻ります。そこへまた風が吹くと川面が凍り、さらに風が吹くと氷が割れて溶けます。
そんなふうに、大河は風が吹くたびに真っ白になったり、黒々とした水の色になったりを繰り返していたのです。
「これは大戦の後遺症?」
と女に訊かれて、男が答えました。
「いや、違うだろう。確かに、この川を流れているのは消魔水(しょうますい)だから、大戦のときに作られた川のようだが、川を凍らせる風は、たった今ぼくたちが越えてきた氷の大地の方向から吹いてくる。たぶん、このエリアの両脇に極寒のエリアと灼熱のエリアがあって、そこから吹く風が交互に川に影響を及ぼしているんだろう」
女は首をかしげました。
「各エリアは別々の空間になっているんでしょう? それなのに風はエリアを越えられるの?」
「ぼくたちもエリアに関係なく進めるじゃないか。それと同じことだよ」
と男は答えて、改めて大河を眺めました。凍ったり溶けたりをめまぐるしく繰り返す川は幅が広く、向こう岸はずっと遠くに見えていました。そして、さらにその向こうには、激しく渦巻きながら吹き上がる、黒い霧の壁が見えています。
「いよいよ近づいてきたわね」
と女に言われて男はうなずきました。
「そう、あの先はもうパルバンだ。やっとここまで来たな」
「まだこれからよ。私たちは『あれ』があるパルバンの中心まで行かなくちゃいけないんだもの」
「それはわかってるさ。パルバンが生半可な場所じゃないこともわかっている」
そう言う男の声は真剣でした。厳しい顔つきで川向こうを眺めています。
ところが、男はふと我に返った顔になると、かたわらの女を振り向きました。
「フラー、すまなかったな」
「何が?」
フラーと呼ばれた女は驚いて聞き返しました。
男は少しためらってから言いました。
「ぼくと一緒にこんなところまで来ることになったからだよ。ここに来ることを天空王様に願い出たのはぼくだ。一人だけで来るのは不可能だから仲間は絶対に必要だったんだが、そのせいで君をこんなところまで連れてきてしまった。本当は他の誰かでも良かったんだ。例えばリングズや――」
「あ・な・た!」
女は急に険しい顔になると、強い口調で男の話をさえぎりました。
「何を馬鹿なことを言っているの!? 私はもう、あなたの妻よ! 妻が夫と一緒にどこかへ行くことが、どうして悪いことなの!? それとも、本当は私じゃ力不足だったとでも言いたいの!?」
話しているうちに、女の金色の瞳に涙が浮かびました。みるみるふくれあがって大粒になり、今にも転がり落ちそうになります。
男はあわてふためきました。
「そんなことは言ってない! 君の守備魔法がチームでも飛び抜けているのは、誰もが認めていたんだ! ただ、ぼくは――」
すると、女は笑顔になりました。怒るのがあっという間なら機嫌を直すのもたちまちです。浮かんだ涙を指でぬぐいながら言います。
「私は嬉しいわよ。危険な場所に来ているあなたと、ずっとどこまでも一緒に行けるから。それに、闇大陸では風の犬が使えないから、ここまで歩くしかなかったけれど、その分、あなたと本当にいろいろな話ができたわ。こんなに話したのって、あなたと出会ってから初めてかもしれないわね」
「そうかもな。チームにはいつも他の仲間たちがいたし」
と男は苦笑いすると、すぐにまた厳しい顔に戻って行く手を見ました。
「この川を渡れば、その先はパルバンだ。パルバンに入れば、もう君だけを逃がしてやるわけにはいかない。覚悟を決めてくれ」
「覚悟なんて最初から決まっているわ。わかりきっていることを訊かないで、あなた」
女は少しぎこちなく夫を「あなた」と呼んでいました。夫婦になってまだ間もない二人なのです。
新米の夫も照れたように笑い返すと、新妻を抱き寄せました。強い口調で言います。
「パルバンがどんな場所でも、何がどんなふうに妨害してきたとしても、ぼくたちは『あれ』の元へ行く。そして、あの恐ろしい予言を永久に過去のものにしてしまうんだ」
「そうね」
と妻は夫に身を寄せました。夫は彼女を守るように肩を抱いていますが、彼女のほうでも夫を守るように腰を抱き返します。
「大丈夫、きっとうまくいくわ。あなたも私も必ず無事に天空の国に帰れるわよ」
夫はうなずくと、妻を抱きしめて口づけしました。二人しっかりと抱き合います――。
やがて、夫は妻を放すと、覚悟を決めたように大河に向き直りました。相変わらず凍ったり溶けたりを繰り返している川の左手を示して言います。
「こちらから吹く熱風をふさごう。そうすれば、川は凍ったままになるから、その上を越えていける」
「ええ。でも、その前に準備をしてしまいましょう。パルバンに近づくと、三の風の影響が及ぶでしょうから」
妻はそう言って呪文と一緒に手を振りました。紫の石をはめ込んだ指輪が薬指できらめくと、石と同じ色の光が広がって二人を包み、すぐに濃い紫色の布に変わります。マフラーと一体になったようなフードと、丈の長いマントになったのです。
フードとマントに上から下まですっかりおおわれてしまったので、夫はちょっと笑いました。
「徹底しているな。君が目しか見えないぞ、フラー」
「あなたもよ。でも、これなら外から三の風が入り込まないの。影響を受けずにすむはずよ」
と妻は答えました。フードとマフラーの隙間から金の瞳の目が自信ありげに笑いかけています。
夫はうなずきました。
「これは君の手作りなんだな? 相変わらず君は裁縫が上手だ。君が縫う防護服は本当に信頼できるよ」
「ありがとう。将来、私たちに女の子が生まれたら、その子にもお裁縫を教えることにするわね」
「ああ、そうだ――そうだな」
未来の夢を語る妻を、夫は目を細めて見つめました。何かを言いかけたようでしたが、ことばの代わりに妻の手をぎゅっと握ると、もう一方の手を前に突き出して呪文を唱えます。
「レマートヨゼーカブコハオキーツネ」
とたんに緑の星が散って、目の前の大河が凍り始めました。川を溶かす熱い風が止まったのです。じきに川は完全に凍結して、巨大な白い道のようになりました。
「よし。行こう、フラー」
と夫が歩き出したので、妻もすぐに歩き出しました。夫の背中を追うのではなく、肩を並べるように横を歩いていきます。二人の靴が凍った川の上に白い足跡を残していきます――。
ところが、彼らが川の中程まで進むと、背後から急に騒ぎが湧き起こりました。ギャァギャァという鳥の鳴き声に混じって、甲高いの女たちの声が聞こえてきます。
「いた!」
「いたぞ!」
「人間だ!」
「侵入者だ――!」
二人はぎょっとして振り向き、川岸の森の向こうから何十羽ものハーピーが飛んでくるのを見ました。
「またパルバンの番人よ!」
「さっきの連中と姿が違う! こっちは飛べるのか!」
夫はそう言うとまた妻の手を握りました。
「走れ、フラー! ここは戦うには不利だ! 向こう岸に渡るぞ!」
若い男女は手をつないだまま凍った大河の上を全力で駆け出しました――。