人間たちがクロンゴン海と呼ぶ西の大海は、日差しを浴びて青く輝いていました。
四方に陸がまったく見えない大海原は穏やかでした。ときたま風が吹くと海面にちらちらと銀の波が踊り、風が止むとまた空を映して青い鏡に戻ります。
そんな海上に鶏の卵ほどの透明な球体が浮いていました。風に流されることもなく、波間に落ちていくこともなく、静かにそこに存在しています。闇大陸への入り口です。
すると、なんの前触れもなく入り口がふくれあがり始めました。人より大きな球になると、内側に落ち込んで透き通ったトンネルに変わります。その行き先は空中で消えていて、どこにつながっているのか見極めることができません。
やがてトンネルの奥からごうごうと聞こえてきたのは風の音でした。二匹の風の犬が大勢の少年少女や犬を乗せて飛び出してきます――。
「やっと戻ってきた! ぼくたちの世界だ!」
と風の犬に変身したビーラーが声をあげました。
その背中には主人のレオンだけでなく、メールとペルラと小犬のシィが一緒に乗っていました。
一方風の犬になったポチの上には、フルートとポポロ、それに犬の姿のルルを抱いたゼンが乗っていました。
フルートがポチに話しかけます。
「ありがとう。大勢だから重かっただろう? 大丈夫だったかい?」
「ワン、これくらいは平気ですよ。それよりルルの様子は?」
とポチは心配そうに聞き返しました。茶色い毛並みの雌犬は、パルバンで翼に変わりそうになり、元に戻った後もぐったりしていて、ずっとゼンに抱かれてきたのです。
すると、ルルがちょっと頭を上げました。
「大丈夫よ、馬鹿ね……少しだるいだけ。心配ないわ」
けれども、その声は弱々しいままでした。パルバンから抜け出し、自分たちの世界へ戻ってきたというのに、元気になりません。
「入り口が小さくなっていくぞ」
とゼンが後ろを振り向きながら言いました。闇大陸へ続くトンネルは、一同を吐き出すとまた縮んでいって、元の透き通った球体に戻っていったのです。
一方ペルラはビーラーの背中から大きく身を乗り出していました。大きな目をいっそう大きくして海を見下ろし、急に頬を赤く染めると、シィをぎゅっと抱きしめます。
「海よ、シィ! 海だわ――!」
彼女がシィを宙へ放り出したので、一同は驚きました。いくら下が海でも、まだ何十メートルもの高さがあったのです。
「危ない! 何をするんだ!?」
とレオンがとっさに魔法で受け止めようとすると、落ちていくシィがみるみる大きくなり始めました。ぶちの小犬から大犬に変わって、水しぶきを上げながら海に墜落します。また浮いてきたとき、シィは犬の上半身に魚の下半身の巨大なシードッグになっていました。ペルラが歓声を上げてシィの上に飛び降り、大きな頭にしがみつきます。
「戻ってきたのよ、シィ! 海よ! あたしたちの海よ――!!」
その喜びぶりに仲間たちが呆気にとられていると、メールが肩をすくめていいました。
「海の民は海がホントに好きだから、片時も離れたくないのさ。ペルラはあたいと違って、海を離れるのが初めてだったしね」
「それにしても大袈裟だな。まるで何ヶ月も海から離れてたみたいじゃねえか。俺たちが闇大陸に行ってたのって、たった三日だぞ」
とゼンはまだあきれています。
その間に、闇大陸への入り口は完全に元の大きさに戻ってしまいました。あまり小さいので、注意して見てもどこにあるのかわかりません。
それでもフルートがそこを見つめていたので、ポポロが言いました。
「また来ましょう、フルート……。パルバンに踏み込んで三の風に吹かれても平気でいられるように、あたしは魔法を考えるわ。きっと、何か方法があると思うから」
うん、とフルートは答えましたが、それでもまだ入り口があった場所を見つめ続けていました。何かを考え込んでいて、やがてゼンに抱かれたルルへ目を向けます。
すると、フルートが自分を振り向いたと勘違いしたゼンが話し出しました。
「いつでもまた来いって、五さんも言ってたよな。今度はモジャーレンの狩りにも連れてってやるからってよ。俺としても、今度はもっと準備を整えてから行きたいぜ。今回はあんまりにも準備不足だったからな」
海上のペルラがそれを聞きつけて言いました。
「あら、やっぱりもう一度闇大陸に行くつもりなの? あんなにものすごいところだったのに?」
「竜の宝は闇大陸から持ち出されたかもしれないんでしょう? それでもまた行くんですか?」
とシィも聞き返すと、フルートが答えました。
「行くよ。きっと行く――。どうしても確かめなくちゃいけないことがあるんだ」
そう言いながら、またルルを見つめます。ルルはゼンに抱かれたまま、まだ身動きもできないほど弱っています……。
すると、海上にいきなり別の人物の声が響きました。
「ペルラ! 本当にペルラなんだな!?」
「こんなところにいたのか! 今まで何をしていたんだよ!?」
声と同時に、ざばぁっと海面が盛り上がり、二人の若者が姿を現しました。青いうろこの鎧兜を身につけ、手には三つ叉の矛を握って、シードッグに乗っています。
ペルラはまた歓声を上げました。
「クリス! ザフ! 来てくれたの?」
現れたのはペルラの兄弟のクリスターロとザフィールでした。海王の三つ子が顔を揃えたのです。
ペルラは喜んでいましたが、クリスとザフのほうは何故かひどく怒った顔をしていました。責める口調でどなってきます。
「来てくれたの、じゃないだろう! 本当に、今までどこで何をしていたんだ!?」
「フルートたちと一緒だったんだな!? それならそうと、どうして連絡をよこさないんだよ!? ぼくたちや父上たちがどんなに心配したことか!」
一方、クリスを乗せたシードッグのカイも、シィに大きな頭を寄せて言いました。
「無事でいて本当に良かった。海王様や渦王様にも君たちの居場所が見つけられなかったから、何かあったんじゃないかと本当に心配したんだよ」
カイに頭をすりつけられ、何度も顔をなめられて、シィは面食らった表情になりました。本当にずっと心配していたことが伝わってきたのです。
「ちょっと待ってよ、二人とも!」
とペルラはまだどなっている兄弟たちをさえぎりました。
「なんでそんなに怒ってるのよ? 確かに何も言わずに行ったのは悪かったと思ってるわ。でも、知らせる暇なんてなかったし、出かけていたのはたった三日よ。それで、どうしてこんなに大騒ぎされなくちゃいけないのよ!?」
とたんに、クリスとザフはぽかんとしました。あまり彼らが驚いた顔をするので、ペルラやフルートたちはそのことのほうに驚きました。
「なにをそんな変な顔しやがるんだ? 俺たちが出発したのは一昨日だぞ。ほんとに大袈裟すぎだろうが」
とゼンも言うと、今度はシードッグのカイやマーレまでがびっくりした顔になります。
「ちょっと待て――」
彼らの反応に、レオンが口をはさんできました。眉をひそめながら、確かめるように言います。
「異なる空間の間では、ときに時間の流れが違っていることがある。こちらではほとんど時間がたっていないのに、あちらではずいぶん時間がたっていたり、逆に、こっちでは長い時間が過ぎているのに、向こうではいくらも時間が過ぎていなかったりね」
すると、メールが思い出したように言いました。
「そういえば、あたいたちもそういうの経験してなかったっけ? 真実の窓を見て回ったときにさ。ザカラス城から別の場所に行って戻ってきたら、たった半日くらいだと思ったのに、半月もたってたじゃないか」
え、それじゃ……と勇者の一行は顔色を変えました。
ポチがあせった声になって言います。
「ワン、ぼくたちが三日間、闇大陸に行っていた間に、こっちではもっと長い時間が過ぎていたって言うんですか? いったいどのくらい?」
フルートもクリスやザフへ身を乗り出しました。
「ぼくたちはどのくらいの間、行方不明でいた!? 今は何月だ!?」
「君たち人間の暦はぼくたち海の民にはわからないよ。でも、ペルラが行方不明になってから、もう九十日近くが過ぎている」
とクリスが言ったので、九十日! と一同はまた驚きました。闇大陸でたった三日過ごしただけなのに、外の世界では三カ月の時間が過ぎていたのです。
「てぇことは、今はもう十一月かよ」
「あたいたちが出発したのって八月だったよね。まだ夏だったのに」
とゼンとメールが顔を見合わせます。
フルートは真っ青になりました。
「そんなに時間が過ぎていたら、セイロスがまた何か仕掛けているかもしれない! みんなはどうしている!? ポポロ、ロムド城を透視してくれ!」
はいっ! とポポロはすぐに両手を握り合わせ、ディーラがある西の方角へ目を向けました。間には遙かな距離が横たわっていますが、魔法使いの目でその距離を飛び越えようとします。
が、すぐに彼女はいぶかしそうな顔になりました。西の空を見ながら言います。
「フルート、あれは……?」
青空の彼方に小さな黒い点が見えたのです。鳥のようにも見えますが、ポポロが魔法使いの目で確かめようとしても、見ることができません。
とたんに、ゼンの腕の中で動けないほど弱っていたルルが、全身の毛を逆立てて起き上がりました。牙をむいて叫びます。
「気をつけて! ものすごい闇の気配よ! こっちに近づいてくるわ!」
全員はポポロが示す方角を見つめ、すぐにゼンが言いました。
「やっべぇ。あれは空飛ぶ馬だぞ! セイロスのヤツがこっちに向かってきやがる!」
ディーラの戦場を離脱したセイロスは、大陸と海を一気に駆け抜けると、ついにフルートたちのところに到達したのでした――。