魔法軍団が隊長の指示で本格的な迎撃態勢に入った頃、ロムド王とリーンズ宰相とユギルは、王の執務室から出て通路に面したバルコニーに立っていました。たった今、キースが敵の接近を知らせてきたので、そちらの方角を確かめに来たのです。
とはいえ、王と宰相には近づく敵など見えるはずはありませんでした。目に映るのは灰色の雲におおわれた空と、その下に美しく広がる白、青、深緑の光の天蓋(てんがい)でした。城壁の上に立つ兵士や魔法使いの姿も、小さく見えています。
「いよいよでございますね。なんとしても襲撃に耐えなくてはなりません」
と宰相が言うと、王はユギルに尋ねました。
「敵はあとどのくらいでディーラへやって来る?」
占者の青年は朝風に銀の髪と灰色の長衣をなびかせていましたが、遠いまなざしで東南東を眺め、次に城壁を見ながら答えました。
「城壁の戦士の皆様方が敵と戦う様子が見えます……。あと二時間足らずで戦闘が始まります」
「四大魔法使いとゴーラントス卿に伝えよ」
と王はバルコニーの片隅に控えていた魔法使いに言いました。王の命令を伝える伝令役です。魔法使い同士の間でしか連絡をとれないので、都の守備軍を率いるゴーリスには受け手の魔法使いが従っています。
「都の住人や周辺からの避難者にも、万が一に備えて、屋内の安全な場所に隠れるように呼びかけてください」
とユギルが言ったので、伝令の魔法使いはそれも隊長たちやゴーリスへ伝えます。
敵はすぐそこまで迫ってきていました。
今は東部の領主の軍隊と戦っていますが、間もなくそこも飛び立って、ディーラへ押し寄せてくるのです。なんとも落ち着かない状況に、宰相は左右の手を合わせ、指をこすり合わせていました。行動に意味はありませんが、落ち着かなくて、何かやらずにはいられなかったのです。
すると、ロムド王が言いました。
「今のうちだ。地下室を見回っておこう」
ロムド城の地下は魔法使いたちによって強固な避難所に作り変えられていて、そこに多くの住民や城内の人間が避難していたのです。
「では、わたくしは占いに戻らせていただきます。敵の接近を感じましたら、すぐにお呼びさせていただきますので」
とユギルは言って執務室に戻っていきました。伝令の魔法使いもユギルに従っていったので、王と宰相は護衛の兵士を連れて城の地下室へ下りていきます。
分厚い絨毯を敷き詰めた階段をいくつも下り、さらに石の階段を下りた先に、広い地下室が現れます――。
「お父様! お父様もここにいらっしゃったのですね!?」
ロムド王が地下室に足を踏み入れたとたん、明るい声が響きました。薔薇色のドレスにプラチナブロンドの少女が、両手を広げて王に飛びついてきます。
王はちょっとよろめきましたが、すぐに踏みとどまると、王女を抱きしめ返しました。
「ちゃんとここにいたな、メーレーン」
と娘の名を呼んで、愛らしい顔をなでてやります。
すると、王女の後を追いかけて、小柄な侍女がやってきました。子どものように背が低いのですが、れっきとした大人の女性で、つややかな黒い肌に縮れた長い黒髪、生き生きとした瞳と大きな口をしています。赤の魔法使いの許嫁(いいなずけ)のアマニです。
アマニは腰に両手を当て、小さな体で精一杯伸びをしながら王女に言いました。
「いきなり飛びついたりしちゃだめだよ、姫様! 陛下はけっこうなお歳なんだからさ! いくら姫様が軽くたって、飛びついた拍子にぎっくり腰になって動けなくなったら、大変じゃないか!」
アマニのもの言いがあまりにぶしつけだったので、リーンズ宰相は思わず頭を抱えてしまいました。彼女がロムド城に来てからもう半年になるのですが、南大陸出身の彼女は、宮廷のしきたりや侍女の礼儀作法をなかなか覚えられないのです。
蝋燭やランプの明かりに照らされた地下室の中には、都の周辺の住人や城の人間が何百人も避難していました。住人の大半は農民で、アマニの開けっぴろげな言い方を面白がっていましたが、城の人間はアマニに対して眉をひそめたり舌打ちしたりしていました。笑っている農民をにらむ貴族もいます。
なんとなく、ぎくしゃくした空気が流れる中、メーレーン王女は素直に王から離れると、膝を折って謝りました。
「ごめんなさい、お父様。メーレーンはお父様がここにいらしてくださったのが嬉しくて、ついはしゃいでしまいました。お腰は大丈夫でいらっしゃいましたか?」
自分のことを私と言わずにメーレーンと名前で言うのが、この王女の口癖です。
ロムド王は寛大に笑い返しました。
「無論だ。これ、アマニ、わしは確かにそなたたちより年配だが、ものすごい年寄りというわけではないぞ。足腰もまだまだ達者だ。なにしろ、城の上の階から下の階まで、窓に垂らしたロープで移動できるほどだからな」
それを王の冗談と受け取って、今度は全体から笑い声が起きました。城の人間もつい笑ってしまっています。
「まあ、素晴らしいですわ、お父様! メーレーンはこの前ようやく木に登れるようになったところですが、お城の窓から窓へロープで移動するなんて、とってもできませんもの!」
と王女が真顔で言ったので、笑い声はますます大きくなりました。誰もが、なんと気の利いた冗談が言い合える王と王女なのだろう、と考えたのです。陛下たちは緊張している我々を安心させようとしてくださっているに違いない──そんなふうに考える者たちもいました。険悪な雰囲気になりかけていた避難所が、一気に和やかな雰囲気に変わります。
ただひとり、リーンズだけは、王や王女が冗談を言っているわけではないと知っていたので、こっそり冷や汗を拭っていました……。
すると、そこへ美しい女性が進み出てきました。金髪を結い上げ、えんじ色のドレスをまとったメノア王妃です。
王の前で優雅にお辞儀をすると、ひざまずき、優しい瞳で見上げて話しかけます。
「皆のことを気にかけて、ここまで足を運んでくださったのでございますね、陛下。嬉しゅうございます。ここにいる者たちは、城の者も都の周りから避難してきた者も、とても落ち着いております。ここは魔法軍団が作り上げてくれた安全な場所ですから、外でどのようなことが起きても恐ろしいことはございません。レイーヌ侍女長が侍女や下男たちと共によく気配りしてくれるので、不便も何もございません。それもこれも、陛下のお優しいご配慮のおかげでございますわ――」
王はまた笑顔になりました。人を疑うことを知らない王妃は、周囲の人々の良いところを素直に認めてことばにできる人でもあります。王が地下に避難した全員のことを心配して様子を見に来たことも、魔法軍団が力を合わせてこの避難所を作ってくれたことも、侍女や下男たちが大勢の避難者相手に文句も言わずに世話をしてくれていることも、ごくごく自然に認めて、感謝の気持ちを王に伝えています。
地下室に避難している人々も、王妃のことばを聞いて、改めて感謝する気持ちになりました。まず王へ深く頭を下げた後、人々の間で忙しく働いている侍女や下男にも礼を言ったので、召使いたちはとても喜びました。レイーヌ侍女長も、ふくよかな顔に嬉しそうな笑みを浮かべています。
王はうなずいて言いました。
「そなたたちがいるのだから、ここは心配ないな、メノア。地上では間もなく戦闘が始まるが、メノアが言ったとおり、ここはどこよりも安全だ。心配せずに戦闘が終わるのを待っていなさい」
すると、王女がまた言いました。
「お父様、メーレーンたちは先ほどからここで歌をうたっていました。いろんな歌をうたうのですが、戦士の皆様が力強く戦えるように、勝利をお祈りする歌もたくさんうたっています。私たちの歌が地上の戦士の皆様方に届くと良いのですけれど……」
とたんにアマニがあきれたように口をはさんできました。
「そりゃ無理ってもんだよ、お姫様。ここは地面の中で、周りは石や土ばかりなんだからね。ここの声は地上までは聞こえっこないさ」
「いや、そんなことはない」
とロムド王は言いました。
「歌う声は直接には聞こえなくても、そなたたちが歌に込めた祈りや想いは、戦う者たちの心に届いている。それは勇気を呼び起こし、より大きな戦う力に変わるだろう――。そなたたちは、そなたたちにできる最善のことをしているな。皆を頼むぞ、メノア、メーレーン」
まもなく地上では激戦が始まるはずでしたが、王はとても穏やかな気持ちになっていました。この王女や王妃たちと話していると、不思議なくらい心が和むのです。
「また来てくださいませ、お父様」
「皆様のご武運をお祈りしております」
王女と王妃のことばに見送られて、王は宰相と一緒にまた地上の城へ戻っていきました。
やがて、その後ろから本当に歌声が追いかけてきました。戦の勝利をユリスナイに祈る歌です。
王が黙って歌を聴きながら階段を上っていると、宰相が話しかけてきました。
「大切な皆様方を守るために、我々は決して負けるわけにはまいりませんね、陛下」
老宰相も、先ほどまでの神経質な様子が嘘のように、落ち着いた表情をしています。
「もちろんだ」
と王は答えると、階段の先に見えてきた地上の光をしっかりと見据えました。