「妃殿下!?」
「妃殿下、しっかり!」
「どうしたんだ、お姫さん!?」
「セシル! どうしたのだ、セシル――!?」
銀鼠、灰鼠やオーダ、オリバンが必死で呼んでも、セシルは返事をしませんでした。目を見開いたまま、岸辺の草の上に倒れています。
すると、河童が叫びました。
「ゆすぶってなんねえ! 妃殿下の内側に闇が広がってるだ!」
「闇!? どうしてよ!?」
と銀鼠がセシルに取りつこうとした手を止めて聞き返しました。
「さっきな、セイロスが剣で刺した場所だ! きっど、そごから闇が広がってるだよ!」
「あいつの剣に闇の毒があったってことか!? でも、隊長が魔法で癒やしたのに――」
と灰鼠は唇をかみました。何とかしたいと思うのですが、彼や姉が使うグルの魔法は、闇を止めることができません。
河童は一同へ手を振りました。
「さがっで。おらは光の魔法使いだ。妃殿下に光を送り込んで、闇を消してみるだよ」
と水かきがついた手をセシルの体に押し当て、気合いを込めます。
「そぉれ、行げ、光っこ!!」
とたんに青緑色の光が湧き上がって、セシルの中へ消えて行きました。白い鎧を着たセシルの体が、びくりと大きく反応します――。
ところが、そのとたん、河童の体が大きく吹き飛ばされました。見守っていたオーダや吹雪にぶつかり、一緒になって転がります。セシルから黒い光が湧き起こって、河童を魔法ごと跳ね飛ばしてしまったのです。どん、と地響きを伴った音が広がります。
「レ!」
赤の魔法使いがセシルの横に飛んできました。ハシバミの杖でセシルに触れると、黒い光が彼女の中に戻って行きます。
「河童!!」
銀鼠と灰鼠が駆け寄り、火傷を負ったように傷だらけになっている河童を見て、息を呑みました。
「闇の反動をくらったのね。なんて闇よ!」
「お……おらの力じゃダメだ……妃殿下がら闇を追い出さんにだよ……」
灰鼠に抱き起こされて、河童が弱々しく言います。
「ワ、ル」
と赤の魔法使いは言うと、杖でセシルに触れたまま光の呪文を唱えました。
「アウルラ、タレ、カ、ラ、ミオ、セ――!!!」
すると、強烈な赤い光が地面から湧き起こり、セシルの体に吸い込まれていきました。先ほどよりも荒々しく、炎のように渦を巻きながら、次々とセシルの中に消えていきます。そのたびにセシルの体から風のように反動が湧き起こって、周囲の草や木々を激しく揺らしました。まるで谷川に嵐が巻き起こったようです。
「た、隊長……!」
「こんなに魔法を使っても、まだ闇が消えないなんて……!」
と銀鼠、灰鼠は驚いていました。彼らは自分たちの前に魔法で障壁を張り、オリバンや河童やオーダたちを反動から守っていました。オリバンがセシルの名を呼び続けていますが、周囲の音がものすごいのでセシルには届きません。
けれども、やがて、嵐のような風は弱まって消えていきました。光と闇のぶつかり合いが終わったのです。倒れたセシルの横で、赤の魔法使いが杖を引いていきます。
すると、セシルが、ん……と声をあげて身動きしました。
「妃殿下!!」
銀鼠、灰鼠と河童は歓声を上げました。河童は反動をくらって怪我をしましたが、深手というわけではなかったのです。
セシルはゆっくりと地面から身を起こしました。頭を上げて、驚いたように周囲を見回します。
「私はどうしたのだろう? 急に胸が苦しくなって……それから……?」
「セイロスの剣に闇の毒が仕込んであっただよ。傷が治っても、闇が残ってだがら、妃殿下は闇に呑み込まれそうになっただ」
「でも、隊長が闇を消し去ったから、もう大丈夫ですよ、妃殿下」
と河童と銀鼠が口々に言います。
やれやれ、とオーダは頭を振りました。
「闇の毒の剣とはおそれいったぜ。俺と吹雪はセイロスに切られなかったから、命拾いしたんだな」
すると、赤の魔法使いが急に地面に膝をつきました。
立ち上がろうとしていたセシルの横に座り込み、そのままうつぶせに倒れてしまいます。
「赤の魔法使い!?」
驚く一同に、赤の魔法使いが低く返事をしました。
「動けないって……?」
と銀鼠が聞き返すと、河童が皿ののった頭を抱えて言いました。
「隊長は力を使いすぎただよ! 剣の闇の毒がものすごかったがら、自分の力まで光っこに変えで妃殿下に送り込んぢまっただ!」
「大丈夫か、赤の魔法使い!? しっかりしろ!」
セシルがひざまずいて揺すぶると、赤の魔法使いがまた何かを言いました。
「自分は当分動けない、殿下の目も治すことができない、と隊長が……」
と銀鼠は言って絶句してしまいました。
オリバンもことばを失っています。
彼の目はまだ視力を取り戻していません。すぐそばにあるものは、ぼんやりした影として認識できるのですが、少し離れてしまえばまるで見えません。倒れている赤の魔法使いや、その周りに駆け寄っているセシルや銀鼠たちも、まったく見ることができませんでした。
「隊長、やっぱし城さ応援を頼んだほうが……」
と河童が言うと、灰鼠が首を振りました。
「無理だ。隊長には城と連絡をとる力も残ってないんだよ」
確かに、赤の魔法使いはうつぶせに倒れたまま、ぜぃぜぃと苦しそうに息をしているだけでした。杖はまだ握っていますが、それを振る力もないのです。
その場の全員が完全に絶句しました。これからどうしたらいいのか見当がつきません――。
すると、座り込んでいたオリバンが、おもむろに自分の大剣を抜きました。両手で柄を握ると、目の前の地面に突き刺します。
「オリバン、何を!?」
セシルが驚くと、オリバンは剣を杖にしながら、地面から立ち上がっていきました。重々しい声で言います。
「こうしている間もセイロスと飛竜部隊が城に迫っている。城に戻るぞ」
「戻るって、オリバン、あなたは目が――」
「目は見えなくとも考えることはできる。作戦をたてて敵を退けることもできるだろう。今は時が惜しい。一刻も早く城に戻らねばならん」
それは王の決断でした。セシルも魔法使いたちも、エスタ国の傭兵のはずのオーダまでも、オリバンに反対することができません。
ところが、銀鼠がまた悲鳴のような声をあげました。
「絨毯が!」
目が見えないオリバンや弱っている赤の魔法使いを空飛ぶ絨毯で運ぼうと考えたのですが、川岸に広げられた絨毯にはいつの間にか大小の穴が空いて、無惨な姿になっていたのです。
「さっきの光と闇の爆発のせいだ! あの衝撃で、弱っていた絨毯が完全に破れたんだよ!」
と灰鼠も頭を抱えました。セシルたちも青ざめてしまいます。
けれども、オリバンは動じませんでした。
「かまわん。私の体は健康だ。歩いて城へ戻るだけだ」
相手に有無を言わせない声に、一同はまた絶句しました。それはあまりに無茶だ、と誰もが思いましたが、オリバンが反論を許さないのです。
オリバンはさらに言い続けました。
「赤の魔法使いと河童は体が回復したら我々を追いかけてこい。銀鼠は二人に付き添うのだ。オーダには我々の護衛を頼む」
「それはかまわない――が、生き残ってる兵士を集める話はどうなったんだ?」
とオーダが聞き返すと、オリバンはちょっと皮肉な笑い顔になりました。
「私がこんな状態でいると兵たちに知れたら、味方の士気が下がる。軍の再編はこの際あきらめるしかない。銀鼠、赤の魔法使いを介抱しながら、麓の村へ救援を要請するのだ。灰鼠は私の杖替わりになれ。セシル、あなたは病み上がりだ。無理のないようについてきてくれ」
「オリバン」
とセシルは涙ぐんでしまいました。オリバンが灰鼠につかまって歩き出そうとしたので、駆け寄ってオリバンの空いている手を握ります。
「私たちがあなたを案内する。一緒にロムド城に戻ろう」
「おいおい。城まで全部歩こうってのか? 時間がかかりすぎるだろう。どこかで馬車を手に入れてくれよ」
とオーダが口をはさみます。
「出発するぞ」
とオリバンは歩き出しました。彼は左手で灰鼠の腕を、右手でセシルの肩をつかんで、二人の案内で谷川の岸を歩き始めます。
オーダと吹雪はすぐに彼らを追い越して先頭に出ました。
「気をつけろよ。この先の足元は石だらけだ」
と声をかけながら、できるだけオリバンが歩きやすそうな場所を探して進んでいきます。
河童は銀鼠と一緒にそれを見送っていましたが、すぐに向きを変えると、横たわったままの赤の魔法使いへ、ぺこりと頭を下げました。
「隊長、ごめんなんしょ。おら、やっぱりあっちさ行くだ。銀鼠、隊長の看病をよろしく頼むだよ」
赤の魔法使いは黙ってうなずき、銀鼠は、ふふ、と泣き笑いしました。
「河童こそ、みんなをよろしくね。灰鼠がぼさっとしてたら、お尻を蹴飛ばしてかまわないから」
「逆におらが灰鼠に蹴飛ばされそうだなぁ」
と河童も笑うと、大急ぎでオリバンたちの後を追いかけていきました。その体にはあちこち火傷したような傷が残っているし、片足も軽く引きずっています。
銀鼠はまた涙ぐみました。ひとりごとのようにつぶやきます。
「彼らがここにいたら、殿下の目も河童の傷も簡単に治せるのに。こんな大変な状況だっていうのに、いったいどこに行っているのよ……?」
怒っても嘆いても、フルートたちの行方はわかりませんでした。いくら待ってもフルートたちがここに現れることもありません。
銀鼠は溜息をつくと、赤の魔法使いへ向き直りました。
「隊長、別の場所に移動いたしましょう。ここは湿っぽくて、体にあまりよくなさそうですから」
赤の魔法使いはまたうなずくと、目を閉じて、うとうと眠り始めました。体力を回復するためには、とにかく休養するしかないのです。
銀鼠はもう一度溜息をつくと、もっと居心地の良さそうな場所を探して、谷川の横の斜面を登っていきました――。