谷川の岸にいるオリバンやセシルたちを、空飛ぶ絨毯の上からオーダが見下ろしていました。
「オーダ、無事だったか!」
死んだとばかり思っていた人物が現れたので、オリバンは声をあげました。セシルのほうは叫ぶと傷に障るので、かろうじて声を呑んでオーダを見上げます。
すると、同じ絨毯の別の端から銀鼠と灰鼠も顔をのぞかせました。セシルを見て笑顔になります。
「よかった、お気づきになりましたね、妃殿下」
「隊長を連れてきました。すぐに妃殿下を治療してくれますよ」
谷川の岸に空飛ぶ絨毯が降りてくると、そこにはオーダと銀鼠、灰鼠の姉弟の他に、赤の魔法使いと白いライオンの吹雪も乗っていました。
河童が嬉しそうに言いました。
「隊長もご無事でいがった! だげんぢょ銀鼠たちはどっから空飛ぶ絨毯を持ってきただ? さっきまで持ってながったべ?」
「潰れた宿舎の中から見つけ出してきたんだよ。あちこちほころびてるけど、なんとか飛ぶことはできたから、隊長たちを乗せてきたんだ」
と灰鼠が答えると、オーダが吹雪と一緒に絨毯を飛び下りながら言いました。
「探しに来てもらえて本当に助かったぞ。吹雪がセイロスにやられて死にかけてたからな。赤の魔法使いが絨毯に乗って飛んできたのを見たときには、マジで天使が来てくれたのかと思った」
いつも陽気で屈託のないオーダですが、このときにはさすがに真剣な顔になっていました。吹雪のたてがみを優しくなでています。
「赤の魔法使いに治してもらったんだな。だが、私たちは、あなたと吹雪が崖から落ちて死んだのではないかと心配していたんだ。あの高さから落ちて、よく無事だったな」
とセシルが言うと、オーダは自分の腰の剣を示して見せました。
「こいつで風を起こして、地面に激突するのを避けたんだよ。赤の魔法使いが魔法で速度をゆるめてくれていたしな。それより、今度はあんたらの番だ。早く赤の魔法使いに治してもらえ」
「んだ! 隊長の魔力はおらの何百倍も強力だがらなし!」
と河童が自分のことのように嬉しそうに言います。
絨毯が完全に着地すると、そこから赤の魔法使いが降りてきました。
「ムカ?」
とセシルとオリバンを見比べて、心配そうに尋ねます。傷は痛まないか、と尋ねているようです。
オリバンは答えました。
「セシルの傷がひどい。まず彼女を治してくれ。私は後からでかまわん」
そこで、赤の魔法使いはオリバンを下がらせ、セシルの周囲に杖で円を描きました。さらに、どこからか木皿をいくつか取り出すと、円の上に据えて、中に石や木の葉、得体の知れない品々を入れていきます。
「隊長が本格的に術を使おうとしている。妃殿下の傷はかなり深いんだな」
と灰鼠がつぶやいて、しっ、と姉にたしなめられます。
赤の魔法使いが歌うような呪文を唱え始めると、円の周りに赤い光が湧き起こりました。歌に合わせて、ぼぅっ、ぼぅっと光り、やがてゆっくりと円の中央に集まっていきます。赤の魔法使いが大地の力を集めて、セシルへ送り込んでいるのです。
すると、セシルの腹の痛みが溶けるように消えていきました。たちまち全身が温かくなってきて、手足の隅々まで力が流れ込んできます――。
セシルは思いきって体を起こしてみました。もう痛みはまったく感じません。腹に触れても、違和感もありません。
彼女は歓声を上げました。
「もう大丈夫だ! 治ったぞ!」
赤の魔法使いは歌を止めると、黒い顔に白い歯をむき出して、にやっと笑いました。満足そうな笑顔です。
「セシル」
とオリバンが呼んだので、彼女はすぐに駆け寄っていきました。婚約者の首に抱きつくと、頬に自分の頬を押し当てて言います。
「私はもう心配ない。次はあなたの目を治してもらう番だ」
すると、オリバンは重々しく言いました。
「赤の魔法使いには、まず城に報告してもらいたいのだ。我々はセイロスの飛竜部隊に惨敗した。我が軍もエスタ軍の辺境部隊も壊滅状態だ。その飛竜部隊はロムドのディーラを目ざしている。大至急城に知らせて、襲撃に備えさせねばならん。私の目を治すのはそれからだ」
すると、赤の魔法使いが聞き返すように何かを言い、灰鼠がそれを通訳しました。
「城からここへ応援を呼んだほうがいいのではないか、と隊長が言っているんですが。砦は壊滅しましたが、生き残っている兵士たちがまだいるんです」
「ただ、彼らの中には怪我人が大勢います。白様か青様か、そうでなければ鳩羽に来てもらったほうがいいと思います」
と銀鼠も言いましたが、オリバンはかたくなに首を振りました。
「応援を呼んではならん。四大魔法使いをここに呼びつけるなど、もってのほかだ。おまえたちも承知の通り、セイロスの飛竜部隊は素早くて強力だ。四大魔法使いと魔法軍団が全員で守りにつかなければ、敵を撃退することはできないだろう――。セシルが負傷したことも、私の目が見えなくなっていることも、城には報告不要。ただセイロスの飛竜部隊が峠の砦を撃破してそちらへ向かっていることだけを知らせろ。赤の魔法使いは、こちらのけりがついたら、ただちに城へ戻るのだ。いいな」
「……チ」
赤の魔法使いはしぶしぶ承知すると、空に向かって仲間たちを呼び始めました。じきにロムド城の白、青、深緑の魔法使いたちと心がつながり、ムヴア語で報告を始めます。
それを見守りながら、セシルはオリバンに尋ねました。
「私たちはどうするつもりだ? セイロスたちの後を追うのか? それとも、砦の生存者の救出のほうを優先するのか?」
「生存者の中の戦える者を集めて、セイロスの後を追う」
とオリバンは答えました。
「セイロスは非常に手ごわい。一兵でも多く戦力が必要なのだ。負傷者については、麓の村に救援を求めることにしよう」
「わかった」
とセシルはすぐにうなずきました。彼女も指揮官の経験は豊富なので、大局を見て行動することができるのです。
そのとき、赤の魔法使いが城との連絡を終えて、オリバンを振り向きました。
「ク、タ。ギ、ナ、ジーチョ、ス」
「城への報告が終了したので、殿下の目を治療したいそうです」
と銀鼠が通訳します。
「うむ、頼む」
とオリバンも承知しましたが、さすがに、ほっとしたような気配が漂いました。落ち着き払っているようでも、実際には目が見えないことに非常に気をもんでいたのです。
セシルも安堵しながら数歩下がりました。赤の魔法使いが今度はオリバンの周囲に円を描き始めたので、河童や銀鼠、灰鼠、オーダたちと一緒に並んで、術が成功するのを待ちます――。
そのときです。
セシルの体の奥深い場所がいきなり、どくん、と大きく脈打ちました。
目の前が真っ暗になって、息が詰まります。
次の瞬間、脈打った場所から何かが飛び出し、セシルの体の内側に広がっていきました。それはまるで黒い触手のようでした。伸びた一つが彼女の心臓に達して絡みつきます。
セシルは胸に締め付けられるような痛みを感じて悲鳴を上げました。思わずうずくまってしまいます。
「妃殿下!?」
「おい、どうしたお姫さん!?」
銀鼠やオーダたちが驚きますが、セシルは返事ができませんでした。胸を押さえても痛みが止まらないどころか、ますます苦しくなっていきます。
「セシル、どうした!?」
「妃殿下!」
全員が駆け寄ってくる気配がしましたが、彼女は気を失うと、その場に崩れるように倒れてしまいました――。