水音が轟いていました。
高い場所からたたきつけているのでしょうか。やむこともなく響いています。
その音の中に、か細い声も聞こえていました。
「妃殿下……妃殿下ぁ……」
今にも泣きそうな声で彼女を呼んでいます。
セシルは声に引き上げられるように正気に返っていきました。呼んでいるのが河童だということに気がつきます。
「ああ、無事だったのか」
そう言って目を開けようとしたとたん、激しい痛みが全身に広がりました。息が詰まって体が動かせなくなります。
「う、動いてはなんねえだよぉ、妃殿下! まだ動くのは無理だぁ……」
河童のあわてた声が、激痛の向こうに遠く聞こえます。
やがて痛みは弱まっていきましたが、いくら待っても完全には消えることはありませんでした。脈打つたびに腹のあたりがずきずきとうずきます。
セシルは体を動かさないように用心しながら、そっと目を開けました。とたんに自分をのぞき込んでいる河童の顔が視界に飛び込みます。
河童は涙ぐんだ目を水かきのついた手でしきりにぬぐっていました。セシルが目を開けたのに気がつくと、くちばしの口で大きく笑って言います。
「目が覚めただな、妃殿下……いがった。ほんとにいがった……」
すると、その声にもうひとりの声が重なりました。
「セシルが目を覚ましたのか? 大丈夫か?」
「オリバン!」
とセシルは思わず歓声を上げ、また激痛に襲われて声を出せなくなりました。自分がセイロスの剣で刺されたことを、やっと思い出します。傷は残っていますが、命は助かったようです。
すると、河童がまた泣きそうな声で言いました。
「おらの魔法で傷口はふさいだげんちょ、奥の傷はまだ治ってねえだよ。おらは鳩羽たちみてぇに癒やしの魔法はうまぐねえがら。ほんとに申しわげねえだ、妃殿下――」
激痛の波が引いていったので、セシルは息を吐いて、また目を開けました。
「あなたが私を助けてくれたんだな、河童……ありがとう」
「お、お礼だなんて、妃殿下――おら――おらなんかに――」
そう言いかけて、河童はとうとう泣き出してしまいました。感激の涙とはなんだか雰囲気の違う泣き方です。
セシルは怪訝に思い、ふとオリバンが顔を見せないことに気がつきました。彼女が正気に返れば真っ先にのぞき込んで容態を確かめてくるはずなのに、大丈夫か、と声をかけてきただけです。
「オリバン、どこだ? ひょっとしてあなたも怪我しているのか――?」
と心配して尋ねると、いぶし銀の鎧を着た青年が、うっそりと姿を見せました。兜を脱いだ顔には、火傷のような痕が何カ所もありましたが、セシルのように身動きできないわけではないようでした。
「よかった。あなたは無事だったんだな」
とセシルがほっとすると、オリバンは、ああ、と答えました。彼女を撫でようとしたのか、右手をさしのべて、そのまま宙に手を泳がせます。
すると、河童が鼻をすすりながらオリバンの手をつかんで、セシルの左手まで持っていきました。
「妃殿下はここにいるだよ、殿下。強く握っちゃなんねえだ。ちっとでも動かすと妃殿下の傷に障るがら……」
オリバンの手がセシルの手に触れました。オリバンが探るように彼女の指先を握りしめます。
その動きにセシルは、はっとしました。三度目の大声を思わず上げてしまいます。
「オリバン、まさか目が――!!?」
激痛の波がまた通り過ぎると、セシルは目を開けてオリバンを見つめ直しました。彼はまだセシルの手を握って、ひどく心配そうな表情をしていましたが、その視線は彼女の目と合っていませんでした。視線の焦点もいやに遠い感じです。
セシルは顔を歪めると、オリバンの手を握り返しました。
「見えないのか、オリバン……? まったく見えなくなっているのか……?」
いや、とオリバンは答えました。
「あなたがそこにいるのは、ぼんやりとした影で見えている。明るさや暗さもなんとなく感じられる。ただ、細かい様子はまったく見えん。こうやっても、自分の手すら見極めることができんのだ」
と自分の左手を自分の顔の前にかざしてみせます。
セシルは息を呑み、河童へ目を移しました。
「どうにかならないのか? オリバンは戦士だ。戦士が失明しては、もう戦うことができない」
河童はまた涙で顔をぐしゃぐしゃにしていました。すまねぇ、すまねぇ、と繰り返しながら答えます。
「おらにはここまでがやっとなんだ……。おらは隊長たちみてぇに力が強ぐねえがら……申しわげねえっす、妃殿下……」
「よせ、セシル」
とオリバンがたしなめるように言って、大きな手で彼女の手を包み直しました。
「セイロスが闇の稲妻を落としてきたとき、河童はとっさに我々全員を地下の水脈へ避難させてくれたのだ。河童がいなければ、我々は稲妻の直撃で粉々になっていただろう」
「だけど――だげんちょ――」
河童は泣きながら言い続けました。
「水脈の中で、妃殿下の管狐とも離ればなれになっちまっただよ――! おらが、おらがもっとしっかりお守りできでれば――すまねえっす、殿下、妃殿下――」
「管狐が……?」
とセシルは驚き、急いで腰の筒へ意識を向けました。出てこい、管狐! と心で呼びかけると、かすかな振動と共に生き物が飛び出した気配がして、セシルの右手に小さな頭を押しつけてきました。小狐の姿の管狐ですが、その頭は二つしか感じられませんでした。管狐はきゅぃきゅぃと悲しそうに鳴いています。
「三匹行方不明なのか……」
とセシルは溜息をつき、声をあげて泣き出した河童に優しく言いました。
「管狐ならば心配はいらない。彼らはあやかしだから死ぬことはないし、彼らのすみかの筒はここにあるから、いずれここに戻ってくるだろう。それより、あなたこそ怪我はなかったか? あの稲妻から私たち全員を救うのは大変だっただろう」
河童は涙でぐしゃぐしゃになった顔で頭を振りました。
「おらは大丈夫だぁ――。峠の下さ水っこの流れを感じたで、そこまで割れ目を作っで、みんなで逃げただ。だげんぢょ、セイロスの稲妻から完全には逃げらんにがったがら、殿下は目をやられちまっただ。水っこが思ったより速かったせいで、管狐ともはぐれっちまったし……」
河童がまた後悔の堂々巡りを始めそうになったので、セシルはさえぎりました。
「私たちはこうして生きている。それだけでも素晴らしいことなんだ。ありがとう」
責めることもなく感謝するセシルに、河童はまたおいおいと泣き出しました。今度は嬉し泣きの涙です。
セシルはこのときになってようやく、自分たちが谷川の岸辺にいることに気がつきました。先ほどから聞こえていた水音は、すぐ近くの崖からほとばしって川に落ちる滝の音でした。地下水流の出口です。彼らはそこから地上に戻ってきたのでした。
谷川のすぐ際は岩だらけですが、セシルが寝かされている場所には草や苔が分厚く生えていました。いえ、ひょっとすると、河童が魔法で彼女の寝床を作ってくれたのかもしれません。
つい先ほどまで、セイロスの飛竜部隊と激戦が繰り広げられていたのに、ここにはそんな騒がしさはまったく聞こえてきませんでした。ただ滝と川の水音が響き、ひやりと湿っぽい空気が漂っています。
セシルはまだ手を握っていたオリバンに尋ねました。
「戦いはどうなった……? 赤の魔法使いや、銀鼠や灰鼠は無事だろうか? オーダは……?」
オリバンは溜息をつきました。
「この戦いは我々の惨敗だ。砦は壊滅した。赤の魔法使いとオーダも行方不明だ。銀鼠たちが探しに行っている」
セシルは顔を歪めました。涙がこぼれそうになりますが、泣けばまた河童が自責の念に駆られると思って、懸命にこらえます。
「赤の魔法使いは四大魔法使いのひとりだ。あれくらいのことで彼が死ぬはずはない。だが、オーダは……」
「ああ、かなり高い場所から、ライオンと一緒に落ちていったからな。おそらく……」
セシルもオリバンも、そこまで言って目をつぶりました。オーダは風の魔剣を持っていますが、それ以外はごく普通の人間です。吹雪も魔法の力を持つ獣ではありません。高い崖から墜落すれば、まず助かるはずはなかったのです。
沈黙になってしまった岸辺に、滝の水音だけが響いています――。
すると、急に上のほうから野太い男の声が聞こえてきました。
「おいおい、なんだ? やけに湿っぽいじゃないか。まさか、お姫さんがくたばったんじゃないだろうな?」
セシルとオリバンは驚いて目を開けました。まさか! と声のほうを見ます。
彼らの頭上には大きな絨毯が浮かび、その上からオーダが日焼けした顔をのぞかせていました――。