その夜遅く、ユギルはロムド城に近い宿屋へ、自分の古い知り合いだと名乗る人物に会いに出かけていきました。
ただし、ひとりではありませんでした。ゴーリスとリーンズ宰相、それに冠を脱いで質素な服に着替えたロムド王までが一緒です。
ユギルは平身低頭で出迎える宿の主人に、できるだけ普通の態度をとるように指示してから、同行者を振り向きました。
「わたくしひとりで大丈夫だと申し上げたはずですが……。特に、宰相殿や陛下はこのような場所においでになっては危険でございます。わたくしも護身術程度はたしなんでおりますし、ゴーラントス卿もいらっしゃるので、心配はございません。外にいる警護の者と城へお戻りください」
宰相は、とんでもない! と言うように首を振りました。
「ユギル殿の知人という女性は、ユギル殿と直接会わなければ詳しいことは何も話さない、と言っているそうです。ユギル殿は我が国になくてはならない方ですから、おひとりで行かせるわけにはまいりません」
「それに、こんな場所とユギルは言うが、ここはわしの城下だ。しかも、子どもの頃から幾度となく出歩いてきた場所に、どうして危険があるというのだ」
とロムド王も言うと、とたんに宰相が反論しました。
「いや、それには異論がございます、陛下。お若い時分に城下町においでになって危険に巻き込まれたことは、たびたびあったはずです」
「たびたびというほどではなかったぞ。せいぜい四、五回程度だ」
「国王としては充分すぎる回数でございましょう」
「何を言っているのだ、リーンズ。そなたはわしと一緒に城に戻りたいのか? ユギルの訪問者を目にすることもなく?」
ロムド王に切り返されて、宰相もようやく本来の目的を思い出しました。あわててまたユギルへ言います。
「とにかく、私たちもご一緒させていただきます。くだんの女性は、ユギル殿がお会いにならなければ城に乗り込む、とまで言っているようなので、無視するわけにはいかないと判断して、この宿に案内してございます。男性がひとり同行しているようなので、くれぐれもお気をつけください」
ユギルは苦笑しながら王と宰相のやりとりを聞いていましたが、そんなふうに言われて、傍らのゴーリスを振り向きました。
「わたくしには訪問者が何者かまだ見えておりません。もし部屋に入って危険そうな人物であれば、卿にお任せして、わたくしは陛下たちを安全な場所へお連れいたします。よろしゅうございますね?」
「それは任せておけ」
とゴーリスは力強くうなずいてみせます。
そこで、一行は宿の主人の案内で二階に上がっていきました。ゴーリス、ユギル、リーンズ宰相、ロムド王の順番ですが、王が質素な身なりをしているので、普段着の宰相のほうが立派に見えていました。まるで、ディーラの大貴族が供の者とお忍びで宿にやって来たようです。
宿の主人は廊下の突き当たりの扉をたたきました。
「お客様、お待ちの方がおいででございます……」
もう夜更けなので、声を潜めながら呼びかけると、中から女性の声が返ってきました。
「入ってちょうだい」
扉越しなので声がこもって不明瞭でしたが、ユギルは、ぴくりと反応して細い眉をひそめました。
「知っている声か?」
とゴーリスが尋ねましたが、ユギルは何も答えませんでした。ただ、扉の向こうを見透かそうとするように、じっと見つめます。
すると、扉が内側から開きました。開けたのは逞しい体つきにごつい顔つきの男でしたが、それに負けないほど逞しくて強面(こわもて)のゴーリスが先頭に立っていたので、鼻白んだように半歩下がります。
その拍子に、部屋の奥で椅子に座っていた女性が見えました。カーテンをおろした窓のほうを向いているので、顔を見ることはできませんが、赤い派手なドレスを着て、同じ色の派手な帽子をかぶっています。
部屋に充満していた香りに、ゴーリスは思わず顔をしかめました。場末の娼婦宿でよく嗅ぐような、安物の香水の匂いだったのです。いったい何者だ? と警戒しながら見つめます。
ところが、ユギルはゴーリスを追い越すように、部屋の中へ入って行きました。窓際の女性へ歩み寄っていきます。
後を追ってゴーリス、リーンズ宰相、ロムド王が部屋に入ると、先の男が扉を閉めました。男は丸腰でしたが、ゴーリスは王たちを守るためにそれ以上進めなくなりました。王たちの横で剣に手をかけながら、ユギルがひとりで女性へ近づいていくのを見守ります。
すると、赤いドレスの女性が振り向きました。帽子の下に波打つ長い黒髪がありましたが、その顔はユギルの陰になって見えませんでした。ユギルの表情も、ゴーリスや王たちの場所からは見ることができません。
女性がまた言いました。
「ユギルなの?」
確かめるような声ですが、ユギルのほうは返事をしませんでした。ただ、黙ってじっと女性を見つめています。彼がどんな表情をしているのか――驚いているのか、喜んでいるのか、いぶかしんでいるのか、こちらからではわかりません。
すると、女性の体が震え出しました。泣き笑いするような声になって言います。
「ユギル――ユギルだね? 見間違えるもんか。その目の色も、肌の色も、髪の色だって、間違いなくユギルさ。ほら!」
女性はいきなり立ち上がると、手を伸ばしてユギルの長衣のフードを後ろへ引き下げました。とたんにフードに隠してあった輝く銀髪があらわになります。彫りの深い美しい顔も見えるようになったはずでした。女性の近くまで下がっていた男が、おっと驚いたように目を見張ります。
女性は泣き笑いの声で言い続けました。
「ずいぶん長い間、離ればなれでいたよね。どれほど会いたいと思ったことか。ああ、でも、元気そうで本当に良かった――。ロムド国の王様の占者がユギルって名前だと聞いて、最初は耳を疑ったんだよ。名前が同じ別人じゃないかって。だけど、話に聞いた外見があんまりにもあんただったから、確かめに来たんだよ。本当にまあ、立派になって。昔の姿が嘘のようだよね」
赤いドレスを着た両腕が広がって、ユギルの首に絡みついたので、ゴーリスやロムド王たちは、はっとしました。女性はそのままユギルを強く抱擁しますが、ユギルは相変わらず何も言いませんでした。ただ、されるままになっています。
女性はユギルに体をすりつけるようにしながら抱きしめていましたが、ユギルがいっこうに抱き返そうとしないので、腕をほどいて離れました。いぶかしそうに、また話しかけてきます。
「どうしたのさ、ユギル? あたしがわからないの? まさか、あたしを忘れてしまったのかい?」
すると、ユギルが口を開きました。
「覚えております――残念なことですが」
口調は丁寧でも、氷の刃のように冷たい声でした。その鋭さにゴーリスや王たちは今度はぎょっとしましたが、女性のほうはいっこうに気にしませんでした。歓声を上げると、またユギルに抱きついて言います。
「そうとも、覚えてくれていて当然のはずだよ! ああ、あたしの大事なユギル! また会えて本当に嬉しいよ!」
すると、ユギルは短く笑いました。冷笑したのです。
「わたくしはあなたにとって大事だったのですか? 毎日毎日、おまえは邪魔者だ、おまえなどいなければよかった、と言い続けておいでだったはずですが。そうでございましょう、母上――?」
皮肉な笑い声のままで、ユギルはそう言いました。