ユギルが目を覚ますと、視界に飛び込んできたのは、年老いた三つの顔でした。銀の髪とひげに金の冠をかぶったロムド王。いつもきちんとした髪と服装のリーンズ宰相。艶のない白髪を頭の上でまとめた老婆は、ロムド城で行儀作法を教えていたラヴィア夫人です。
「陛下……宰相殿、先生……」
何故ここに? とユギルが尋ねようとすると、三人は安堵の表情になりました。
「よかった、目を覚ましたな」
とロムド王に言われて、ユギルは自分がベッドに寝かされていることに気づきました。占いをしていた部屋の奥にある寝室にいたのです。驚いて起き上がろうとしましたが、体に力が全然入りませんでした。全身が鉛のように重く感じられて、身を起こすことができません。
すると、四人目の人物が顔をのぞかせて言いました。
「無理をなさってはいけません、ユギル殿。あなたは占いの最中に倒れて、三日も眠り続けていらしたのですよ」
黒みがかった薄い紫の長衣を着て、首から医者の神ソエトコの象徴を下げた男性――魔法使いの鳩羽でした。彼は魔法軍団の一員ですが、優れた魔法医でもあるのです。
「三日も!?」
とユギルはまた驚き、ベッドに起き上がろうとして、たちまち鳩羽に止められました。
「なりません、安静にお休みになっていてください。ユギル殿が倒れたのは疲れと空腹が原因です。お食事は消化のよいものを魔法でお体に送り込ませていただきましたが、過労は魔法でも治すことができません。とにかく安静にしてしっかり休む。これ以外の治療法はないのです」
「ですが……三日もたっているのでは、状況が……」
なおもユギルが起き上がろうともがくので、鳩羽とロムド王とリーンズ宰相が三人がかりでそれを抑えていると、厳しい声が響き渡りました。
「何を見苦しい真似をしているのです、ユギル! 自分の状況がわかっているのですか!?」
ラヴィア夫人でした。見た目は本当に小柄な老婆ですが、驚くほど迫力のある声を出します。そして、それはユギルに「目を覚ましなさい!」と言ってくれた声でした。ユギルだけでなく、他の三人の男たちまでが、思わずぴたりと動きを止めてしまいます。
ユギルは焦る目をラヴィア夫人に向けました。
「状況はわかっております……。殿下は軍勢を率いてテト国に入られた頃。敵もいよいよどこかで動き出す時期です。早くこの状況を見極めて、打つべき手を打たなければ、当方に大変な損害が……」
「それが状況をわかっていない証拠だと言うのです!」
とラヴィア夫人はまた厳しく叱りつけ、鼻白んだユギルにたたみかけるように言い続けました。
「あなたの悪い癖のひとつですよ、ユギル! 占いに夢中になるあまり、自分自身を省みなくなってしまう! いくら若くて丈夫でも、人間が何日間も寝食せずにいられるはずはありません。ご覧なさい、このように倒れてしまって、陛下たちに多大なご心配をおかけしている状況を。このうえ無理をしたら、あなたはさらに具合が悪くなって、長期間の休養を余儀なくされるでしょう。そうなったら、誰がこの国の一番占者を務めるのです!? 自身の健康を管理することも、一番占者のとても大切な役目なのですよ!」
「ラ、ラヴィア夫人。興奮されてはお体にさわります」
とリーンズ宰相はあわてて老婦人をなだめました。ロムド王のほうは憮然としているユギルに話しかけます。
「ラヴィア夫人は、ユギルが倒れたと聞いて、わざわざ城まで見舞いに出向いてくださったのだ。そなたが目を覚まさないので、ずっとついていてくださったのだぞ――」
ラヴィア夫人は、ふぅ、と溜息をつくと、そばにあった椅子に腰を下ろしました。
「あなた方は本当に困った生徒たちです。いつもいつも心配ばかりかけて……」
と文句を言いながら、疲れたように、手にしていた杖に寄りかかります。なんだか小さな体がいっそう小さくなってしまったようです。
それを見て、ようやくユギルも少し冷静になりました。鳩羽が言う通り、起き上がろうにも今はその力がないのです。ベッドに沈み込むと、申しわけございません、と一同へ謝ります。
「占いに夢中になって疲れたのではないのでございます……。何故か、このところわたくしの心がざわざわと落ち着かなくなって、占いに集中するのが難しくなっていたのです。それでもなんとか未来を見通そうとしているうちに、つい自分の限界を超えてしまいました……」
「それは――」
とロムド王は言いかけ、すぐにリーンズ宰相に目配せをしました。王の女房役の宰相は、それだけで察すると、鳩羽の魔法使いに向かって言いました。
「ユギル殿も目を覚まされたことですし、しばらく我々だけにしてもらえるでしょうか? 来ていただきたいときには呼びますので」
「承知いたしました。私は隣の部屋で薬を調合しております」
と鳩羽のほうも心得て、すぐに寝室を出て行きました。後にはユギルとロムド王、リーンズ宰相、ラヴィア夫人だけが残ります。
隣の部屋に続く扉が閉まると、ロムド王はまた話し始めました。
「ユギル、そなたは目を覚ます前に、ひどくうなされていた。しきりに誰かの名を呼んでいたのだが、それは女性の名前のようであった。占いに集中できないほど、そなたの心が落ち着かなくなっているのは、ひょっとして、その女性が関係しているのではないのか?」
問いかけは優しい口調でしたが、ユギルは目を見張ってしまいました。思い出すような顔をしてから、聞き返します。
「わたくしは……なんという名前を呼んでいたのでございましょう?」
「ユーア、と言っていたように聞こえたが」
とロムド王は答えます。
ユギルは顔を歪めて目を閉じました。
目を覚ました瞬間に忘れてしまっていた夢が、一気にまた押し寄せてきたのです。ユギル、どうして――!? ギムの悲鳴がまた耳の奥からよみがえってきます。
「ユギル、どうしたのです!?」
ラヴィア夫人の驚く声が聞こえましたが、彼は返事ができませんでした。両手で顔をおおい、息さえ止めて、残酷な過去の場面が駆け抜けていくのを見つめます――。
すると、誰かが彼の腕をつかみました。
「すまぬ、ユギル。聞かれたくないことを聞いてしまったようだな。忘れてくれ」
申しわけなさそうに話しかけるロムド王の声も聞こえます。
ユギルは目を開け、自分の手首を握りしめている王を見ました。彼がこんな風に取り乱すのは珍しいことだったので、王のほうでもひどく心配そうな顔をしています。
ユギルは大きな息を吐くと、顔から両手を外しました。それでも王がまだ腕を握っているので、かすかに笑って言います。
「大丈夫でございます、陛下。ご心配をおかけして申しわけありません……」
それでも三人の老人たちは心配そうな表情のままでした。ユギルを見つめ続けています。
ユギルは微笑を消して目を閉じると、また話し始めました。
「わたくしが占いに集中できなかったのは、ご婦人に恋心を抱いて悩んでいたからではございません。わたくしが夢に見ていたのは、わたくしが子どもだった時分の出来事です。不良少年たちのグループのリーダーだった頃の……。ユーアというのは仲間のひとりで、わたくしの妻だった少女です」
思いがけない発言に、ロムド王たちは顎が外れそうなほど驚きましたが、ユギルは目を閉じていたので、それに気づきませんでした。静かな声で話し続けます。
「その当時、わたくしはまだ十四歳でございました。彼女は一つ年上の十五歳。夫婦と言ってもままごとのようなものでございましたし、もちろん子どももおりませんでした。仲間の子どもたちといつも一緒で、全員がわたくしの家族のようなものだったのでございます」
「では、そのユーアという女性も」
とロムド王は沈痛な表情になりました。ユギルの仲間の少年少女がどんな目に遭ったのか、聞かされたことがあったのです。
「はい。褒美に目がくらんだ新入りの仲間が、隠れ家を密告したために、全員が憲兵につかまって……始末されました」
残酷な過去を語る声は、静かすぎるくらいに静かです。
三人の老人たちが何も言えずにいると、ユギルは目を開けて彼らを見ました。静かに話し続けます。
「わたくしは親に望まれずに生まれてきた子でございます。この容姿のために、家に閉じ込められて育てられ、五歳の時に実の母親から残虐趣味の貴族に売り飛ばされそうになりました。金貨十五枚がわたくしの値段でございました。家を逃げ出してからは、大人は信じられない、人間なんか信用できない、と思いながら、同じ年頃の子どもだけで生きてまいりましたが、その仲間たちもまた大人たちにゴミのように始末されてしまいました。生きる希望も自分の存在価値も失って、自暴自棄になっていたわたくしを救ってくれたのは、マグノリアという女性でした。わたくしの占いの師匠です。けれども、その彼女も早くに亡くなってしまい、再びやけになりかけていたわたくしを拾い上げてくださったのが、陛下でございました――。ロムド城に招かれ、一番占者という地位まで与えていただいて、わたくしは新しい人生を得ました。今のわたくしがこうしてここにいるのも、ひとえに陛下のご厚情のおかげ、さらには、わたくしの素性を知りながら、わたくしをかばい様々なことを教えてくださった、宰相殿とラヴィア夫人のおかげでございます。わたくしはその御恩に報いたいと、いつも考えております。わたくしのこの占いの力が陛下たちのお役に立つのであれば、精一杯務めたいと思うのです……」
ロムド王はうなずき返しました。
「そなたが常に忠実に尽くしてくれていることは、よくわかっておる。そなたは数え切れないほど、わしやこの国を救ってくれたし、オリバンや金の石の勇者たちにとっては、兄のような存在でもある。そなたには心から感謝している。だからこそ、そなたに言うのだ。無理はならぬ。我々はそなたの力を必要としている。だからこそ、休むべきときには休み、食べるべきときには食べる。そうして最善の状態で我々を助けてもらいたいのだ――。わかるな、ユギル」
ユギルは王を見つめ返しました。色違いのその瞳には震えて光るものがあります。
「身に余るおことばでございます、陛下……承知いたしました……」
そう言ってユギルはまぶたを閉じました。その後はもう目を開けようとはしません。
そこへ隣室から魔法医の鳩羽が戻ってきて言いました。
「ずいぶん長い時間お話しになりました。ユギル殿はそろそろお休みにならなくてはいけません」
そこで王と宰相とラヴィア夫人は、ユギルを彼に任せて部屋を出ていきました。
「ユギル殿、安眠の魔法をおかけいたします――」
と話す鳩羽の声が、閉じていく扉の向こうに遠ざかります。
三人で通路を歩きながら、ロムド王は話し出しました。
「ユギルはじきに元気を取り戻すだろう。だが、それまではユギルに心配させるような状況に陥ってはいかん」
「皇太子殿下は間もなくテト国の王都マヴィカレに到着されます。今のところ敵の襲撃の気配はない、という報告も入っておりますので、ユギル殿の回復も間に合うのではないでしょうか」
とリーンズ宰相が答えます。
すると、ひとり黙って歩き続けていたラヴィア夫人が、ぴたりと足を止めました。後にしてきた部屋を振り向きます。
「どうされました、ラヴィア夫人?」
と宰相が声をかけると、老婦人はもの思う顔で言いました。
「ユギルが夢に見たのは、もう十数年も昔の、過去の出来事です。それが今になってユギルの心を騒がせるとは思えません。ユギルが占いに集中できなくなっているのは何故なのでしょう? ひょっとすると、ユギルが昔の夢を見たことと、何か関係があるのかもしれませんよ」
それを聞いて、ロムド王とリーンズ宰相は顔を見合わせてしまいました。何か関係があるかもしれない、と言われても、彼らにはユギルのような予知能力はないので、見当がつきません。漠然とした不安にかられて、夫人と一緒にユギルの部屋を眺めてしまいます。
占者の部屋は扉を閉じて静まりかえっていました――。