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第23巻「猿神グルの戦い」

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36.侵入

 ロムド城の一室で、アリアンは壁に向かって立っていました。

 白い光に充ちた部屋には家具も絨毯もなく、ただ壁に楕円形の鏡が掛けられていて、アリアンの顔の代わりに緑の濃い森を映しています。それはサータマンの国境付近の風景でした。そちらも真夜中になっていますが、彼女はどんな場所でも見通せる目を持っているので、鏡の中は真昼のような明るさです。

 アリアンの後ろにはキースが立っていました。作戦本部にいたときには白かった服が、今は黒一色に変わり、束ねていた黒髪もほどけて背中を流れていました。その髪の間から大きな黒い翼が部屋いっぱいに広げられ、頭の両脇にはねじれた二本の角が伸びています――。

 闇の王子の姿で、キースはアリアンを見守り続けていました。透視に集中する彼女が肩にはおっているのは、キースの青いマントです。

 

 アリアンの見つめる鏡が、まるで視線を動かすように、景色を移動させていました。木から木へ、木から下生えの草へと、映るものが変わっていきます。時折ネズミやコウモリが視界を横切っていきますが、それ以外には動くものもない静かな風景です。

 すると、白っぽい石の柱を鏡が映し出しました。伸びた夏草にほとんど埋もれて上のほうだけしかみえませんが、表面には丸に縦一文字の線模様が彫られています。

「国境だわ……」

 とアリアンが言いました。ひとりごとのような声ですが、キースもそれを見ていました。昨日から、鏡にはたびたびこれが映っていたのです。

「やっぱり国境の先には進めないんだな? どうやらグル教の魔法がかけられているらしいよ。さっきセシルがそう言っていた」

 とキースが作戦本部で聞いてきた話を伝えると、アリアンは頭を振りました。

「昨日ここの境界線が一時的に消えたのよ。この付近を闇の力が支配したから……。もう一度あれが起きたら、私も中に入り込めるの」

 鏡の景色は、まるで潜り込める隙間を探すように、国境の石柱の周囲を回り始めました。

 そんな鏡とアリアンを、キースは感嘆しながら見つめていました。普通なら、絶対に無理だ! と投げ出すような状況なのに、彼女は決してあきらめないのです。はかないほど優げな彼女のどこにそんな強さがあるんだろう、と考えてしまいます――。

 

 そのとき、アリアンが急に息を呑みました。はっという音にキースも身を乗り出します。

「入り口が見つかったのかい!?」

 すると、アリアンは首を振りました。

「違うわ! あれを見て――!」

 彼女が指さす鏡の中に、三匹の動物が映っていました。黒い大きな鷹が二匹の小猿を背に乗せて飛んできます。

「グーリー!? それに、ゾとヨも! どうしてこんなところにいるんだ!?」

 とキースが仰天すると、アリアンは真っ青になって言いました。

「私たちが全然相手をしてあげなかったから、我慢できなくなって動き出したんだわ……! 自分たちでサータマンを調べに行こうとしてるのよ!」

「なんだって!? セイロスに捕まるじゃないか!」

 キースは飛び出しましたが、アリアンと鏡の間に入ったとたん、鏡の景色が薄れて見えなくなってしまいました。

「だめ、キース! 私の目をさえぎらないで!」

 とアリアンがキースを押しのけるように前に出ると、鏡はまたすぐに森を映し始めました。ゾとヨを乗せたグーリーが国境の石柱に迫ります。

「国境を越えるぞ! 大丈夫なのか!?」

 とキースは焦りました。グル教の魔法がかけられている国境でなのですから、どう考えても無事ではすまない気がします。

 アリアンはまた首を振りました。

「国境の向こうに、雷に打たれたような遺体をいくつも見てきたわ……! きっと国境を越えて侵入すると、魔法の雷に襲われるのよ!」

「戻れ、グーリー!! 行くんじゃない!!」

 とキースは鏡へ叫びました。鷹も小猿たちもすぐそこに見えていますが、実際に飛んでいるのははるか彼方の場所です。いくら呼びかけても声は届かないし、魔法で止めることもできません。ついに国境の石柱の上を飛び越えてしまいます――。

 

 けれども、鏡の中では何事も起きませんでした。

 魔法の稲妻も降ってこなければ、怪物が現れてグーリーたちの行く手をさえぎることもありません。一羽と二匹は、自分たちが国境を越えたことにも気がつかない様子で、そのままサータマン領内へ飛んでいきます。

「無事だったか……」

 キースが冷や汗をぬぐっていると、アリアンがまた息を呑みました。今度は歓声のような声でこう言います。

「あの子たちが通った後に闇の道ができたわ! 中に入っていけるわよ……!」

「なんだって!?」

 驚くキースの目の前で、鏡の景色が急速に動いていました。ゾとヨを乗せたグーリーの後を追いかけるように、国境を越えた森の中をどんどん前進していくのです。森の木立が流れるように通り過ぎて行きます。

「あの国境は闇の怪物を通すのか……。いや、動物を通すのかもしれないな。とにかく、彼らが通ったから、そこに闇の道ができたんだ」

 とキースは言い続けましたが、アリアンのほうはもう何も言わずに、真剣な表情で鏡を見つめていました。サータマン領の奥へ奥へと景色が移動していきます。

 と、鏡の視線が急に上昇を始めました。森の中を行くグーリーたちから離れたのです。彼らは森の中を飛んでいってしまいますが、鏡は木々の梢に向かい、木の葉の中を突き抜けて、森の上に出ました。半月の光に照らされた森が、緑の海のように眼下に広がります。

「サータマンの様子を探るのには、街へ行かなくちゃいけないの! あの子たちのことも気になるんだけれど、チャンスは見逃せないわ……!」

 震えながら言うアリアンに、キースはうなずきました。森の中のどこかを飛んでいるグーリーたちに、気をつけろよ、と心の中で言ってから、改めて鏡の中を眺めます。

 森は広大な山裾に広がっていました。急な傾斜がなだらかになるあたりで森が切れ、家らしいものが集まっています。

「村――いや、街だな」

 と規模を確かめるキースの横で、アリアンは言い続けました。

「街の中へ降りてみるわね。ここは国境に近い場所だから、サータマンが攻撃を企んでいるなら、きっと軍隊がいるはずだわ」

 彼女が鏡へ手をさしのべると、景色が再び移動を始めました。まるで飛ぶような速さで、人家の建ち並ぶ場所へ近づいていきます。

 

 ところが、そのとき空に雷鳴のような音が響き渡りました。鏡の向こうから、男の声がはっきりと聞こえてきます。

「こちらを盗み見ているのは何者だ!?」

 アリアンは立ちすくみました。声にはすさまじい闇の力があったのです。あっという間に身も心もわしづかみにされて、動くことができなくなってしまいます。

 すると、鏡に映るものが急に変わっていきました。森と人家のある風景から、若い男の顔に変わっていきます。黒髪に血の色の瞳、整った顔立ち――それはセイロスでした。立ちつくすアリアンを見て、笑うように目を細めます。

「またおまえか、千里眼の娘。性懲りもなくまた様子をうかがっていたな。だが、今度こそ逃がさん。私の目となって働くがいい」

 鏡の中からいきなり猛烈な風が吹き始め、巨大な男の手が飛び出してきました。紫水晶の籠手をつけていますが、その指先には黒い爪が鋭く伸びていました。動くことができないアリアンを、本当に捕まえようとします――。

 キースは大声を上げました。

「アリアン、こっちだ! こっちへ飛べ!」

 部屋の中で荒れ狂う風の音が、キースの幼い頃の記憶をかき立てていました。ごうごうと吹く風に狂ったようにしなる木々、渦巻く暗い雲、鈍色の景色。その中をキースの母親は連れていかれたのです。怪物フノラスドの生贄にされるために……。

 キースはあわてて頭を強く振りました。自分を捕まえかけていた記憶を振り払うと、また叫びます。

「アリアン! アリアン、来い!!」

 すると、彼女のほうでも、はっとしたようにキースを振り向きました。セイロスの呪縛が解けたのです。鏡の前から身をひるがえし、広げたキースの腕へ飛び込んでいきます。

「逃がさん!!」

 とまたセイロスの声が言いました。黒い爪の手が向きを変え、キースもろともアリアンを捕まえようとします。

 キースは彼女を抱きしめ、さらに自分の翼で彼女をおおうと、部屋全体に向かって叫びました。

「敵だ! 部屋の魔法よ、発動しろ――!!」

 

 そのとたん、部屋全体が白い光を放ちました。光は部屋中に乱反射し、部屋の壁の表面を壊していきます。

 すると、その下から、さらに強烈な光があふれ出しました。先の白い光とは比べものにならないほどまぶしい光が、部屋の中の二人と巨大な手を照らします。それは聖なる光でした。キースがかけた闇魔法の光と、ひとつの部屋の中で入り交じります。

 次の瞬間、光は吸い込まれるように暗くなり、すぐにふくれあがって爆発しました。轟音が響き、部屋の壁が粉々に吹き飛び、天井が崩れ落ちてきます。

 キースたちは爆発の中に呑み込まれてしまいました。真っ白い煙が湧き起こってきて、あっという間にあたりを包んでしまいます。

 キースとアリアン、そして巨大な闇の手がどうなったのか。

 あたりは濃い煙におおわれて、部屋の中の様子を見極めることはできませんでした――。

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